#16 朝顔の叫び

 夕焼色が病室に立ち込めている。リキッドファンデーションやチークが、サイドテーブルに取っ散らかっていた。僕はシュシュに見守られながら、息を止めて手鏡を覗き込んでいる。

 メイクブラシを置き、僕は長い溜息をついた。

「で、できた」

「かすみちゃん可愛い!」

 シュシュに肩を寄せられて、僕は思わず笑みを零した。手元に映る顔は、自分でも納得の出来栄えだ。

「おかげで、これからは一人でメイクできそうだよ。付き合ってくれてありがとう」

「愛する友達のためなら、お易い御用だよ」

 彼女は「えへん」と胸を反らした。

 その時、引戸の開く音がした。シュシュがパッと振り返る。

「朝顔ちゃんお帰りなさい」

「お家の人の反応、どうだった?」

 僕も声をかけて――手鏡を握ったまま、動けなくなった。

 鞄をかけた朝顔がいた。いつもと雰囲気が違う。ヘッドホンを付けていないし、目に光がない。こんなに暑いのに長袖を着ている。

 僕たちには目もくれず、とぼとぼとベッドまで歩く。朝顔はそのまま間仕切を閉め、引き籠ってしまった。僕とシュシュは目と目を見交した。


 その夜、僕は物音で目を覚ました。

 頭がぼんやりとしたまま、首をもたげる。病室の時計が辛うじて読めた。真夜中だった。扉は開け放たれていて、廊下の明りがほんのりと床を照らしている。

 音は朝顔のベッドから聴こえてくる。物を叩きつける音とともに、間仕切のカーテンが不規則に揺れている。時々、うなされたような声も交じった。

「朝顔ちゃん、どうしたの?」

 ベッドから降りた途端、足を滑らせた。

 顔をしかめ、お尻をさする。床に手をつくと、手汗で紙のような物がくっついた。名刺が散乱している。

 僕は思い切ってカーテンを開けた。

 突然、何かが僕の耳をかすめた。カシャンと響いて、床に転がる。それが何なのは判った瞬間、僕は胸をえぐり取られたような気持になった。月明りに照らされたそれは、朝顔のヘッドホンだったのだ。

 只事じゃないと思った。僕は彼のベッドに上り、その肩を摑んだ。シャツ越しに体温を感じる。朝顔はわめくように言った。

「女の子になっても、逃れられない!」

 僕の頭は渋滞した。

「壁を越えても何も変らなかったの。壁の向うもここと同じだった!」

 朝顔は僕の手を振り解き、雪崩落ちるようにベッドから降りた。朝顔に巻き付いたカーテンが、ぶちぶちと音を立てて外れる。廊下が慌ただしくなる。布団を押しのけ、僕は聞き返した。

「朝顔ちゃん、何言ってるの?!」

 暗闇を搔き分け、看護師たちが駈けつけた。

「朝顔さん、落ち着いて下さい」

 止めようとした看護師を、朝顔が振り払う。同僚を助け起こし、もう一人が叫んだ。

「男の人を呼んで! 私たちじゃ手に負えない!」

 静まり返った夜空の下、半分枯れたあさがおの葉が揺れている。カーテンの影で、僕はのめり込むように訊ねた。

「何か嫌なことあったの? 誰かに何かされたの? 家族、先生、それとも友達?」

 部屋の灯りが点いた。僕は目を細めた。朝顔の瞳孔がきゅうっと窄まるのが見えた。助けを求めるように僕を見詰める。何かに怯えて、震えている。

「違う。もっと大きくて……目に見えないものだよ」

 朝顔の言葉が銃弾みたいに、僕の頭を貫いた。

「大人しくしなさい!」

 大柄な男性職員が朝顔を引きずり出す。明るみに出た彼の手首には、カッターの切傷が幾つも刻まれていた。

「来ないで! あっち行って!」

 朝顔が誰もいない方向を睨みつける。看護師が振り返った。

「幻覚症状です!」

 硬くて冷たい床の上に、僕はぺたんと坐り込んでいた。僕は放心して、かぶりを振った。

「違うよ……幻なんかじゃない」

 二人がかりで押さえつけられる。それでも朝顔は叫び、足搔いた。

「離して! 私はきみに縛られない!! 俺はきみに決められない!! 俺は、私は、ひとりぼっちが嫌なだけなのに……!!」

 痛々しい声が遠离とおざかってゆく。それが廊下の先で、言葉にならない泣声に変った。

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