#14 触らないで!

 部屋の入口には段差がなかった。スリッパに履き替えようとしたら「土足のままでいい」と止められた。

「海、綺麗だね!」

 ここは宿の一階。外に砂浜が続いている。窓の隙間から潮風が吹き込んでいた。

「シャワー浴びて来いよ。食べ物用意するから」

 スマホを弄りながら同級生は言った。

 ユニットバスで水着のまま体を流す。食べ物に釣られてやってきたけど、脳裡に浮ぶのはシュシュと朝顔だ。思い返せば、僕がこの宿にいることを二人は知らない。ちゃんと連絡しなくちゃ。

 心に決めた僕は、バスタオルで体を拭いてお風呂場から飛び出した。

「あれ、唐揚は?」

 彼はベッドに腰掛けて、まだスマホを弄っている。間延びした声で「あともうちょい」と言った。

 自分のスマホを取り出そうと、僕は自分の腰周りをぺたぺたと触った。水着のフリルが僕の手をくすぐる。僕は青ざめた。

 そうだ。更衣室のロッカーに仕舞ってきたんだった。

「僕、やっぱり戻るよ。友達が待ってる」

 踵を返す。彼が僕の行く手を塞ぎ、部屋の入口に鍵をかけた。

「少し居るくらい平気だろ。お前のこと、もっと教えてくれないか」

 促されるまま、渋々ベッドに腰掛ける。

「お前、女になりたかったの?」

 彼が興味津々に訊ねてきた。僕は少し考えて、「そうだよ。女の子になりたかったの」と答えた。

 まじまじと体を見られる。僕はバツが悪くなった。赤みがかった黒色に塗られた、彼の足の爪が目に留まる。

「綺麗だね」

 耳を赤くして、足を僕から遠离とおざけた。

「誰が何を好こうが、俺の勝手だろ。……それよりさ、どんな男がタイプなの? 俺とかどうかな」

 僕は呆れ返った。

 彼は、入院する前の僕と同じ勘違をしているみたいだ。女の人が男の人を好きになるとは限らないのに。「体の性別と心の性別と性指向は別物だ」と説明したかったけど、面倒だった。

 整った顔立だとは思うけど、何の感情も涌かない。「恰好いいんじゃないかな。たぶん」と、適当にあしらった。

 剥き出しの背中に腕がそっと回る。体が硬直した。彼の胸板を押しのける。

「僕、やっぱり帰るよ。さっきから沢山質問してくるから、僕も訊いていい? ご飯なんて本当は用意する気ないよね? 中学の時、そんなキャラじゃなかったよね? 砂浜で一人で何してたの?」

「悪い悪い。もう帰っていいぞ。だけど最後に一つだけ、俺の願いを聞いてくれないか」

 僕を再び抱き寄せ、こんなことを言う。

「本当に女になってるのか、見せてくれないか」

 僕は身震いした。

「嫌だよ。なんで君に見せなくちゃいけないの」

「気になるんだよ、お前の体が。見るだけでいいからさ」

 冷房で冷えた僕の太ももを、彼が指先でつうっとなぞる。

 焦った。あの日乗った女性専用車輌が脳裡をよぎる。その意味に、僕は今更気付いた。

 僕はもう高校生だ。体はすっかり大人だ。「知らない人にいていったらいけない」だなんて、小学生までの話だと思っていた。

 だけど女の子になったら、大人になってもずっと、大人に怯えて生きてゆかなくちゃいけないんだ。

「お前って本当に可愛いな」

 僕の髪からピンク色のシュシュを外す。髪が汗で背中に貼り付いた。床にころりと転がったシュシュを、彼のサンダルがゆっくりと踏みにじる。吐息を感じるほど僕に近付いて、耳元で囁く。

「妊娠はしないんだろ?」

 体中の皮膚が粟立った。

「う、嘘つき」

 精一杯睨み付ける。彼はねっとりと笑った。

「こんな都合のいい体、使わない男がいるかよ」

 ベッドに押し倒された。僕の声が虚しく響く。

「やめて! 触らないでよ!」

 だけど、力で敵わない。摑まれた細い手首が小刻みに震えている。

 乱れた髪の隙間から、怒りを込めて彼を見上げる。その時、僕は気づいた。彼が一瞬、落胆したような表情を見せたんだ。まるで、僕に裏切られたかのような面持だった。彼の気持が読めなくて、僕は混乱した。

 僕に作り物のような瞳を向け、ののしる。

「やっぱりお前も女じゃないか……!」

 泪で視界が歪んだ。喉の奥に胃酸がせり上げる。彼を気持悪く思ったわけじゃない。僕には女の子の体が、女の子として見られることが、吐気を催すほど気持悪かったんだ。

 後ろから強く抱き締められた。重たい体がのしかかる。背中に彼の鼓動を感じる。シーツの上で、僕は孤独に叫んだ。

「痛い、痛い、痛いよ!!」

 僕のビーチサンダルが、ぽとりと脱げ落ちた。

 部屋の片隅に姿見が置いてあった。僕と同級生が映っている。自分の姿が信じられなくて、僕は現実から目を逸らした。

 あお向けになった僕に彼が覆い被さる。

「お前に女がどういうものなのか教えてやるよ」

 彼は言った。

「女はな、男と大差ないのさ。男と同じように、相手を直に見ず、性別だけで判断する」

 恨むような目を僕に向ける。

「俺はただ、仲良くなりたいだけなのに。男であるだけで恐れられ、避けられる。……俺は悔しかった。淋しかった」

 彼の前髪に大きな雫がぶら下がっている。次の瞬間、その汗が垂れて、僕の頰にぴちゃりと落ちた。疲れ果てていた僕は、何も言えなかった。

「男と女は確かに違う。だけどな、男同士も、女同士も違うんだ。それなのに、体の形が偶然違っただけで、違う名前を付けられ、違う服を着せられ、違う物を好かなきゃならない。仮令たとえ同じ腹から生れたとしても!」

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