#12 空色のビキニ
図書館は冷房が効いていた。ゲートを抜け、吹抜を見上げる。各階の棚に、本が所狭しと並んでいる。
積み重ねた本の前で、白い表紙のノートを開く。入門書を捲りながら、僕は思った。
「MtF」は「
一人で頷き、言葉をノートに書き留めてゆく。
「シュシュちゃんが初めて性別を意識したのって、幾つの時?」
シュシュの病室にお邪魔して、僕は訊ねた。彼女が天井を見上げて言う。
「幼稚園の時だよ。私はいつも女の子と遊んでて――」
ノートを捲り、彼女の言葉を書き留める。
面談室で、新宮医師にネットでの論文の探し方を教えてもらった。サイトの検索窓に言葉を入力し、釦を押す。星の数ほどの文献がスマホの画面に表示された。
彼女がパソコンを見せて言う。
「この論文は英語ですが、かすみさんの学力でも読める筈ですよ。シュシュさんや朝顔さんと同じ悩みを抱える人たちに、聞取調査をしています。あなたの経験と比べてみて下さいね」
僕は、紹介された別の論文を開いた。ハッとして、新宮医師を見遣る。膝に乗せていた白いノートが落ちそうになる。
執筆者の欄に「NIIMIYA Emi」と書かれていた。
「それが私の原点なの」
彼女は「そうそう」と、思い出したように言った。
「その論文に、『五つ目の性別』について書かれている所があります。あなたの本当になりたいものを知る、手がかりになる筈です」
エスカレーター脇のソファーで、僕たち三人は額を集めていた。海水浴場の写真が僕のスマホに表示されている。朝顔が言った。
「私、月曜日から五日間家に帰るの。だから今週末がいい」
「僕も二人も、土曜日は面談だよね」
シュシュが勢いよく立ち上がる。
「じゃあ、日曜日に行こう!」
わくわくしながら駅ビルのファッションフロアを歩く。今度の海水浴で着る水着を買いに来たんだ。
朝顔は女の子の体で、中性的な服を着ている。僕たちは立ち止った。男女の水着売場が通路を挟んで向い合っている。
「朝顔ちゃんはどっちの水着にするの?」
シュシュが二つの売場を見比べながら言った。朝顔は少し考えて、自分の臍の辺りに触れた。みるみるうちに男の子の姿になる。僕は目を瞬たかせた。
「両方買っておくよ」と言って、彼は男性用水着の売場へ歩いていった。
シュシュと一緒に女性用の水着を見る。彼女は一つを手に取り、楽しそうに言った。
「わたし、今までは人前で泳ぐの苦手だったの。だけど、こうやって好きな水着を選べるなら、海に行くのもうきうきするね」
「僕も。こんなに色々あるなんて知らなかった」
店内を見渡し、微笑む。
男性の着る物は、女性の物に比べて形の種類が少いと思う。水着は特にそうだ。僕にはそれがつまらなかった。
目の前には、様々な色や形の水着が飾られている。上下が分れている物、繋がっている物。肩を出す物、出さない物。ズボンのような形の物、スカートのような形の物。――それぞれに名前があるんだろうけど、僕はまだ知らない。
空色のビキニに手を伸ばす。
可愛い。着てみたいなと思った。素脚を出すのは正直恥しかったけど、男の子の時に着ていた上半身裸の水着より、ずっと素敵だと思った。
「その色が好きなの?」
シュシュの言葉に、水着を見直す。初めて三人で出掛けた時も、ショーウィンドウの中の、こんな色のワンピースに見とれていたっけ。
「そうかもね」
僕は口元を緩めた。
「何かお探しですか」
店員に声を掛けられて、シュシュが答える。
「はい。海に着ていく水着を」
僕はビキニのハンガーを握ったまま、二人のやり取りを何気なく眺めていた。
店員が、カラコンをはめた大きな瞳に僕たちの姿を映す。その眼差がどこか作り物っぽくて、僕は言葉にできない不安を感じた。にこりと目を細めて、品物を紹介する。
「十代の女性にはこちらがおすすめですよ。女子校生の方でしたから、この色味も可愛くてお似合だと思うのですが――」
その時、僕の胸に今まで感じたことのない気持が込み上げた。目の前が真っ暗になるほどの、強烈な切なさだった。動悸と激しい吐気が、畳み掛けるように僕を襲う。
口を押さえる。
「ごめん。ちょっとトイレ」
水着を棚に戻して立ち去る。驚いたシュシュが何か言っていたけど、聞こえなかった。男子トイレに駈け込もうとして、通りかかった女性に「女子トイレはこっちですよ」と言われた。
女子トイレの個室のドアを閉める。膝から崩れ落ち、肩で息をした。戻すことはなかったけど、酸っぱいものが喉の内側に染みて、すっきりしなかった。
僕は戸惑っていた。汗がお腹を伝う。ワンピースの胸をきゅっと握り、何度も自分に問いかける。
どうしてこんなに心が痛むの?
ただ「女子」って言われただけでしょ?
僕は女の子になりたいんじゃなかったの?
銭湯の帰り道、朝顔に「どうしたの? むつかしい顔して」と言われた。
「朝顔ちゃん……」
橋の欄干にもたれて、僕はすがるように話した。胸には白いノートを抱えていた。街の明りが水面に映り、揺らいでいる。
「――そうなんだ」
朝顔がいつも通り穏やかに笑う。僕は戸惑った。声が上擦る。
「な、なんで笑うの」
「それってきっと、かすみが男の子だってことでしょ」
祝うように言われて、理解が追い付かなかった。僕の悩んできたことが、音を立てて崩れてゆく。顔がかあっと熱くなった。
僕の気持に気付かぬまま、朝顔が続ける。
「かすみの心は男の子なんだよ。だから女の子扱いされると、自分を否定されたみたいに感じるんじゃないかな」
いつもなら心が落ち着く、おっとりした喋り方が、今はじれったい。拳に力がこもる。僕は彼女に裏切られたように感じた。
ノートを足元に投げ捨てる。
「朝顔ちゃんにそんなこと言われるなんて、思わなかった」
朝顔が啞然とする。
彼女の足元で、風がぱらぱらと頁を捲る。長い髪を靡かせながら、僕は夜空に吐き捨てた。
「自分を決めつけられることがどんなに虚しいか、君なら解ってくれると思ったのに……」
面談中、僕は何気ないふりをして質問した。
「新宮先生は、どうして女の子になれる機械を作ったんですか」
「それはもちろん、性別に悩んでる人たちのためですよ」
パソコンの鍵盤を叩きながら答える。得意気な表情に、胸がひりひり痛む。気持を押し殺し、微笑みを顔に貼り付けて、念を押す。
「それって、心と体の性別が喰い違ってる人のことですよね」
新宮医師から笑みが消えた。画面から目を離し、困惑気味に僕を見つめる。つっかえそうになりながら、僕は訊ねた。
「MtFでなくちゃ、女の子になったらいけないんでしょうか」
「まあ……」と驚きの声を漏らす。たった一つの質問で僕を察したみたいだった。彼女が眉尻を下げ、ゆっくりと首を横に振る。
「ごめんなさい。私には答えられないの」
「なってもいいんですよ」という答を期待していたけど、叶わなかった。僕の笑顔が崩れてゆく。泪がぽたりぽたりと落ちて、スカートを濡らす。
いたわるように、でも付かず離れずの距離で彼女は言った。
「かすみさんの生き方を決めるのは、かすみさん自身なんです。私たちは、そのお手伝いをしているだけですよ」
こんなお願いをしても彼女は応えてくれない。分り切った上で、それでも僕は言った。
「もう、僕が僕でなくなってもいい。誰か別の人になっちゃってもいいから、女の子になりたいんです」
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