第三話 海へ行こう

#11 朝顔の性別

「お仕事辞めちゃったの?!」

 朝の病院の廊下を歩きながら、僕は訊き返した。シュシュがさっぱりした表情で頷く。

「この姿で勤め続けるのは難しいよ。投資してるから、お金には困らないし。働き方もいろいろあるんだから、のんびりと次のお仕事を探すよ」

 前を向いて歩いてゆく姿は、恰好よかった。

「またね」と別れて、シュシュが病室に戻る。彼女は僕の左隣の部屋だった。僕も自分の病室に入る。

 いつも通りベッドに腰掛けた僕は、悲鳴を上げた。

「だ、誰?!」

 僕の声を聞いてシュシュも駈けつける。彼女が朝顔のベッドを見て、固まる。

 見知らぬ男の子があぐらをかいていた。癖っ毛を搔き上げて、彼はのんびりと言った。

「俺だよ。朝顔だよ」

 椅子に腰掛け、僕とシュシュは彼の話に耳を傾けた。

「俺は、心の性別が日によって変るの。今日は心が男寄りだったから、男の体にしてみた」

 女の子になれる機械がサイドテーブルに置かれていた。首にはヘッドホンをかけている。おっとりした喋り方も、癖っ毛も、どこか眠たそうな目も、やっぱり朝顔だった。

「『不定性』ね」

 シュシュが呟く。

「何それ。シュシュちゃんとは違うの?」

「全然。わたしの心は女性だもの」

 僕は黙った。目を瞑って唸って、朝顔を見上げる。

「それで……君は女の子なの? 男の子なの?」

 シュシュが隣で頭を抱えている。朝顔もちょっと悲しそうだ。

「不定性っていうのは、心の性別の一つだよ。かすみは、心の性別は知ってるよね」

 少し考えてから、朝顔は話し出した。

大方おおかたの人は、体と心の性別が揃ってるでしょ。男性の体に男性の心が、女性の体に女性の心が入ってる。それから、体と心の性別が合わない人もいる。シュシュは女性の心を持ってるけど、生れつきの体は男性だった。――ここまでは解る?」

「まあ、なんとなく」

 僕は言った。シュシュが僕を応援するように見守る。

「今言った人たちは、男性か女性、どちらかの心を持ってる。だけど、心の性別もあるの」

「それが、君なの?」

 朝顔は頷いた。

「男女どちらでもない性別にも、何種類かあるよ。俺は不定性。心が男に寄ったり女に寄ったりするの。俺の場合、女寄りの日が多いんだけど」

「他にも、『自分は男でも女でもある』とか、『自分は男と女の中間だ』、『自分には性別がない』って感じてる人もいるよ」

 シュシュが口を挟む。僕はぽかんとしてそれを聴いていた。

 午後。今朝の話がまだ気になっていた僕は、教科書を閉じて新しいノートを下ろした。

 白い簡素な表紙だった。頁に縦六枡、横二枡の表を書く。それぞれが心と体の性別を表している。

 朝顔とシュシュの話によると、心の性別には男性、女性、両性、中性、無性、不定性の六種類があるらしい。体の性別にも男女の二種類があるから、六かける二で十二通りの組合せがあることになる。

 そこまで書いて、思い出した。性別には性指向という要素もある。つまり、誰に恋をしうるかだ。十二の枡それぞれに男性を好きになる人と女性を好きになる人がいて、それも別々の性別だと見做したら、倍の二十四通りになる。

 一つ一つの枡に当て嵌る人が実際どれくらいいるかは別にして、いろんな性別のあり方が考えられるんだ。

 僕は、太平洋の真ん中に放り出されたような気持になった。広い世界に目が眩む。不安が膨らむ。

 性別には男女二つしかないと、僕は信じてきた。男の子が嫌なら女の子になりたいんだと、ついこの前まで自分のことも決めつけていた。最近も「僕は可愛い男の子になりたい」ということで答が決りかけていたのに……一気に選択肢が増えちゃった。

 布団にくるまり、殻に閉じこもる。首を締められるような苦しさが続く。

 僕の一番怖いものは、僕自身だ。あやふやで、ぼんやりしていて、みたいに摑み所がない。いっそのこと、この不安と一緒に僕自身も消えちゃえばいいのに。

 夜。思い悩みながら女湯から出てくると、男湯から出てきた朝顔と鉢合せた。

「朝顔……くん?」

 顔色を窺いながら、帰り道で言う。朝顔は困ったように笑った。白いTシャツを着て、首にはヘッドホンをかけていた。

「なんでよそよそしくなるの? 今まで通りでいいのに」

「い、いいの?」

 朝顔がこくんと頷く。

「人格が交代したわけじゃないんだから」

 僕は「えへへ」と笑った。

「朝顔ちゃん、いつもそのヘッドホンつけてるよね」

 話を振る。彼は「宝物なんだ」と言い、ヘッドホンを愛おしそうに撫でた。所々塗装が剥げていて、引搔傷もたくさんある。

「俺、歌が好き」

 そう言って、垂目がちの瞳で夜空を見る。彼の髪が靡いて、おでこが覗く。

「歌ってるあいだは、自分のことを忘れられるから」

 僕も見上げてみた。電線の向うに星屑が瞬いている。

 朝顔は「あっ」と思い出したように言い、ポケットを探った。

「動画にして、ネットにも上げてるの。これ、俺のアカウント」

 名刺を受け取る。書いてある名前は、きっと朝顔のハンドルネームだ。中性的なデフォルメキャラクターの絵の隣に、QRコードが刷られている。


 病室の窓辺に朝顔がいた。外に身を乗り出し、歌っている。癖っ毛がふわふわと風になびいていた。

「今日は女の子なんだね」

 声をかける。朝顔は振り返り、照れたように笑った。

「なんていう歌?」

「『僕が僕であるために』」

 隣に立ち、外を見た。あさがおの花が昼間の風に揺れている。喉をさすり、彼女は言った。

「女の子の声の方が、ちょっと歌いやすいかも」

 僕は昨日貰った名刺を取り出してみせた。

「君の歌、聴いたよ」

「どうだった……?」

 そわそわする彼女に、精一杯の笑顔で答える。

「すごくよかったよ。特に歌詞が好き」

「ほ、ほんとうに?」

 澄んだ目を光らせて、心の底から嬉しそうに笑った。

 昨晩、僕はベッドで問題集を解きながら、イヤホンで朝顔の歌を聴いた。聴き始めて、僕のペンが止まった。

 画面を喰い入るように観た。僕はてっきり、朝顔は既にある曲をカバーして歌っているんだと思っていた。だけど本当は、作詞も作曲も歌唱もすべて一人でこなしていたんだ。

「どの歌詞も、朝顔ちゃん自身のことだよね? 自信を持って生きてる姿が、恰好よくて。君っていつも落ち着いてるから、こんな歌も歌えるんだって、いい意味で意外だったよ」

 僕の言葉を聴きながら、顔をだんだん曇らせる。僕はちょっと心配になった。

「たまに聴手リスナーの人から勘違いしちゃったコメントが届くんだけど……私の歌の主人公は私自身じゃなくて、『なりたい自分』なんだ」

「なりたい自分?」

 朝顔が頷く。風に吹かれながら、彼女は語り出した。



 私は、歌が好きなだけの普通の子供だった。買ってもらったヘッドホンを着けて、家族に囲まれてよく歌ってたよ。

 でも、小学生になって気付いたの。昨日はお気に入りだった服が、今日は着るのが恥しかったり。今日髪を切ったことを、明日になって悔んだり。――私には普通だったことが、クラスの皆には普通じゃなかったんだ。男の子とも女の子とも馴染めなかった。友達と呼べる人がいなくて、休み時間、教室の隅でひとりぼっちで。私はその時、心を怪我してしまったんだと思う。

 高いキーの歌が歌えなくなった頃、私の古傷がぶり返した。私のことなんて、誰も解ってくれないと思った。他人ひとが信じられなくて、周りに当り散らして……頑張って作った友達も離れていっちゃった。

 去年、親に自分の性別について話したんだ。でも、だめだったよ。「普通の男の子だったのに」って言われちゃった。家族さえ、私を理解してくれなかった。物を壊しても、自分を傷つけても、何も変らなかった……。



「本当は歌の中みたいに、どっちの自分も私なんだって、受け入れたいよ。でも、時々思うの。普通の人のふりをしていた方が、楽なんじゃないかって」

 睫毛を伏せ、自分に問いかける。

「性別って、どっちか一つに決めなきゃいけないのかな。私は、間違ってるのかな」

 話を聴いて、ようやく解った。朝顔は、僕の少し先を歩いているんだ。

 性別について悩んでいる点で、僕たちは似ている。でも、自分の心の性別が判っているし、なりたい自分も思い描けている。悩んでいる内容も、僕よりずっと深い。きっと、今の僕と同じ悩みを抱えていた時期もあったけど、朝顔はそれを乗り越えたんだ。

「朝顔ちゃん」

 暗い顔をしていた彼女が、面を上げる。

「君はどうして自分の性別が判ったの?」

 僕は朝顔に追いつきたかった。追いついても、また新しい悩みにぶつかるんだろうけど、道の途中で諦めてしまう方が嫌だった。

 ちょっぴり口角を上げて、彼女は答えた。

「私は、調べたよ。本を読んだり、人に訊いたりして」

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