#9 シュシュの過去

 一階の受付へ急ぐ。息を弾ませながら、辺りを見渡した。ソファーで母親と順番待ちをしていた女の子が、僕のことを不思議そうに見上げる。あのおさげ髪は、どこにも見当らなかった。

 僕は、崩れるように近くの壁際に屈み込んだ。その時だった。

 受付の前に、白髪混じりの背広姿が見えた。弾かれたように立ち上がる。

「シュシュちゃん!」

 シュシュがこちらを見て、目を見張る。

「かすみちゃん、どうしてここに」

「お待ち下さい!」と、係員の声が後方に聴こえた。気づくと僕はシュシュの手を引き、玄関を飛び出していた。

「今のわたし、そんなに速く走れないよ」

 シュシュがたえだえに言う。僕は減速して、公園の木陰で足を止めた。昨夜シュシュと待合せをした、あの場所だった。

 シュシュは茫然と立ち尽くしている。僕も僕で、自分の行動に戸惑っていた。他人ひとの目を気にして、ファッションビルに入るのをためらっていたような人間が、あんな大胆なことをしちゃうだなんて。用意していた言葉は、どこかへ飛んで行ってしまった。

「ごめんね、昨日は突然帰っちゃって。びっくりして、なんて言えばいいのか分らなくなっちゃったんだ」

 言葉を探しながら、僕は続けた。

「シュシュちゃんが嫌いになったわけじゃないよ。あのあと病室で考えたんだけど、女の子の姿でも今の姿でも、シュシュちゃんであることに変りはないよ」

 目尻が裂けそうなほど、シュシュが見開く。

「君とお喋りしたりお出掛したりするの、僕すごく楽しいから。今まで通り、これからも仲良くしてほしいな」

 自分で言いながら、どうしてさっきの行動に出られたのか解った。僕はただ、シュシュとの縁を切りたくなかったんだ。

 公園が静かになった。葉擦の音も聴こえなかった。

 シュシュは何かを堪えるように唇を嚙み、僕を見つめていた。その目から、ぽろぽろと涙が零れてゆく。

「どうしたの!?」

 僕はあたふたした。昨夜とは違い、周りには人もいる。五十代の男の人が十代の女の子の前で泣いている様子は、どう見えるだろう。

「わ、わたし。かすみちゃんにどう見られてるのか分らなくて、不安だったの」

 指先で泪を拾いながら言う。

「わたしはずっと、女性として見られたかったんだ。わたしの心は、女性だから」

 迷いのない真っ直ぐな声だった。その後、すぐに俯いた。

「だけど神様が間違えて、わたしの心を男性の体に入れちゃったの。聞いてくれる? わたしが社会人になりたての頃の話」



 朝の掃除中、上司に呼び出された。わたしはモップを壁に立てかけ、部屋に入った。

 上司がどっしりと椅子に腰掛ける。

「お前、その髪型は何だ」

 上司が顎で指す。わたしは、黒いヘアゴムから伸びる小さなポニーテールに触れて、言った。

「長くなったから結んだだけです」

 上司は机に向き直り「社員の心得」を開いた。

「よく見てみろ。身嗜みだしなみの頁に『髪型は清潔にし、きちんと整えること』とあるだろ」

 わたしは上司が何を言おうとしているのか分らなかった。だから言った。

「何が仰りたいのですか」

「お前の髪型はおかしいと言ってるんだ。そんな髪型の社員は他にいない」

 わたしはムッとして、言い返した。

「いますよ」

「どこに」

「○○さんとか○○さんとか」

「それは女性だからだろ。お前は男だろ」

「わたしだって……女性です」

 勇気を振り絞ったわたしに、上司は試すような口振で言った。

「じゃあお前、スカート穿けるか。穿いて会社来られるか」

「もちろん穿けます。出社できます」

 わたしは胸を張って、はっきりと言った。

 上司は溜息をついた。

「お前、どうして自分がここに呼ばれたか分ってるのか?」

 わたしは何も言わなかった。少し怖かった。上司はゆっくりと、粘り気のある声で言った。

「お前の恰好は他人ひとを不快にさせるんだよ」

 突然、地獄に突き落とされたような気持になった。

「お前のその髪型はお洒落だ。会社に不要なものだ。会社はお洒落をする場所じゃない。仕事場だ。そんなに髪を伸ばしたいなら、休みの日にかつらでも被って出歩きゃあいいだけだろ。ここは会社で、お前はその一員な以上、決りは守れ」

 心臓が変に速く動いて、喉がからからになって、冷たい汗が背中から噴き出した。目の奥に熱いものが湧く。わたしは、自分が悪いことをしたような気氛きぶんになった。

 わたしは上司がどうしてそう考えるのか、本当に理解できなかった。だから、体が震えそうなのを我慢して言った。

「○○係長の仰ることはよく解りません。どうして生れてきた性別が違うだけで、していい髪型が違うのですか」

 上司は突き刺すような眼差でわたしを睨んだ。そして、こう言い捨てた。

「お前、俺の話を全然聴いてねえじゃねえか。そんな態度でいたら、誰からも相手にされなくなるぞ」

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