#8 一日だけ女子高生
シュシュが自転車を押して歩く。僕は曲り角の手前で足を止めた。
「ここで待ってて。自転車とってくる」
よく知った道を知らぬ顔して歩く。一ヶ月振の我が家を横目で見た。庭の桜の木が青々と茂り、地面に黒い影を落していた。
路地裏から塀を乗り越える。持ってきた鍵を自転車に差し、スタンドを静かに上げた。
微かに、家の中から足音が聴こえた。レースカーテンに黒っぽい人影が映る。懐しさが喉に込み上げる。僕は顔を見たいのを堪えて、自転車をそっと押して出ていった。
「高校に来たのって何年振かな」
シュシュが目を煌めかせた。
見学者の札を首から提げて、僕の高校の廊下を歩く。室内楽部の演奏が階段の奥から聴こえてきた。シュシュは僕を追い越すと、バレエのように回ってみせた。プリーツスカートがふわりと広がる。目をしばたかせながら、外を見上げて呟いた。
「女の子に生れて、こんなふうに友達と過ごせたらよかったのに」
土手に自転車を駐め、河川敷へ降りる。シュシュが斜面でずるりと足を滑らせた。
「きゃっ」
「大丈夫?!」
彼女の手を取り、僕も足を滑らせた。
「わっ」
ぼすん、と並んで転ぶ。草地が頭を守ってくれた。夕焼空に笑い声が
石に腰掛け、シュシュに髪を梳いてもらう。時々、彼女の爪が頭皮に当るのがくすぐったかった。河原の水溜りでとんぼが追いかけっこをしている。
「僕、女の子とこうやって遊ぶの初めてだから、嬉しいよ」
ぴたっとシュシュの手が止まる。僕は訊ねた。
「どうしたの?」
「はっ」と息を飲む音が聴こえた。我に返ったように言う。
「なんでもない!」
何事もなかったかのように、髪を編み始める。
彼女はシュシュを使って僕の髪をまとめてくれた。
「できた! 三つ編みくるりんぱ」
僕は手鏡に自分を映した。だけど髪型がよく見えない。シュシュがスマホを取り出す。
「『くるりんぱ』って何?」
背後でシャッター音が鳴る。彼女は答えた。
「髪の結び目の上を開いて、そこに毛先を通すの」
画面を見せてもらう。僕は口を押さえた。
「可愛い!」
「見て、お揃いだよ」
夕日を背にシュシュが振り返った。自分の髪を指差し、微笑む。どきり、心臓が跳ねた。かぶりを振り、自分に言い聞かせる。
まだ会って一週間だよ?
シュシュちゃんはただの友達だよ、友達!
気付くと、彼女は僕をじっと見ていた。お人形さんみたいに綺麗な顔だ。茶色い瞳が揺れている。長い睫毛をぱさりと動かし、言った。
「わたしたち、友達だよね」
僕は息が詰まった。彼女が言う。
「今夜、公園に来てくれないかな」
木々の隙間から月が覗く。
僕は病院の隣にある公園を歩いていた。
一本の電燈の下に、シュシュがぽつんと立っていた。
男の子みたいな恰好で、髪も下ろしている。「なんの用?」と訊ねると、シュシュは引き締まった声で言った。
「わたしの、元々の姿を見てほしいの」
シャツを捲り、腰を見せる。白いベルトのようなものを着けていた。女の子になれる機械だった。
中央の釦を、中指でそっと押す。
夜闇で、機械の画面が煌々と光った。背が伸びて、髪が縮む。綺麗だった黒髪に白髪が混じった。ほうれい線が刻まれて、頰にシミができる。変化には三分かかるけど、僕は一瞬に感じた。
画面がゆっくりと暗くなる。
気づくとそこには、僕の父と同じくらいの年齢の男性がいた。
「わたし、本当は五十代なの」
シュシュだった彼は言った。声は低くなっても、口調は変らないんだなとぼんやりと思った。
「黙っててごめんね」
「ううん、何となく気付いてたよ」
僕の頰を、涙がつうっと流れる。シュシュの体が強ばる。
堰を切ったように溢れる涙に気づいて、僕は自分のことなのに混乱した。
「ごめんね、なんでもないよ!」
くるりと踵を返して、僕はその場を後にした。
「かすみちゃん!」
シュシュが呼び止めようとする。僕は病院まで走った。胸の鼓動が速くなっていた。
びっくりした、びっくりした、びっくりした。
女の子になれる機械は、男性の体を胎児に戻して、女性として成長させ直す装置だ。好きなところまで成長して止めれば、好きな年齢の女の子になれる。元々が百歳のおじいさんでも、〇歳の赤ちゃんでも、十六歳の女の子になれるんだ。
ちょっと頭を使えば解ることだった。でも、心がそれを受け入れるには、もう少し時間がかかる。
落ち着きを取り戻した僕は、布団の中で思った。
僕は素顔を見た途端、泣き出して逃げてしまった。僕に嫌われちゃったと、シュシュは誤解しているかもしれない。
年齢が幾つでも、僕はシュシュを嫌ったりしない。今時、歳の離れた人と仲良くなるのは珍しいことでもない。同年代だと思っていたネットの友達が○○歳も年上だった、なんて話も学校で耳にしたことがある。
窓を見る。隣の病室から同じ月を眺めている、シュシュの姿が思い浮ぶ。
朝、僕の本音を伝えよう。心にそう誓った。
謝罪と思いやりの言葉を胸いっぱいに抱いて、僕は右隣の病室をノックした。焦る気持を抑えて、廊下で待つ。しかし、待てど暮せど返事はない。
耐えかねて中を覗くと、一人の看護師と目が合った。シュシュが寝起していたはずのベッドからシーツを外している。
「あの、この部屋に入院していた子は」
おろおろしながら訊ねると、看護師は答えた。
「今朝退院されましたよ」
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