#7 僕の過去
ファミリーレストランの二階で僕たちはテーブルを挟んでいた。片側のソファーにシュシュと朝顔が、その向いに僕が一人で腰掛けていた。
月を眺め、シュシュが言う。
「わたし、修学旅行が嫌だったな。いつも仮病で休んでた」
朝顔が頰杖を突いている。
「私も。体育の時、着替えるのが辛くて」
二人は学校の嫌な経験について話している。僕は気配を消すようにして、無言で唐揚を頰張っていた。
二人の話に、僕は共感できなかった。
居心地が悪い。嫌な汗が滲み出てきた。空っぽになった皿が、僕の脇にうず高く積まれている。二人の話が終るまで、僕は唐揚を食べ続けなくちゃいけないのだろうか。
そろりそろり、通路側へ移動する僕にシュシュが話を振った。
「かすみちゃんはそういう経験ないの?」
ぎくりとする。
「僕も男子と着替えるの、嫌なんだよね」と、適当に答えれば流してもらえた筈だ。だけど、僕には言えなかった。胸が張り裂けそうなほど、嘘をつくのが
黙り込む僕を、朝顔が訝しそうに見つめる。
「きみは本当に女の子なんだよね」
「どういう意味?」
どぎまぎしながら訊き返す。「言い方は悪かったかな」と呟き、朝顔は問い直した。
「きみの心は、女の子なの?」
「お、女の子だよ」
喉を震わせて言う。店内がしいんとした気がした。
「……男の子なんて、一つもいいことないよ」
僕は吹っ切れた。
「荷物運びを任されるし、怖がられるし、疑われる。体は大きいし、声は低いし、毛が生えてくる。好きな髪型にすることも、好きな服を着ることもできない。女の子になれば――女の子にさえなれば、全てが変るんだよ!」
コップのジュースに波紋ができる。拳を握り締め、肩で息をしながら僕は立っていた。二人が茫然と僕を見上げている。
シュシュは僕の言葉をゆっくりと吞み込むと、大人びた優しい声で言った。
「かすみちゃんの本音は分らないけど……わたしには『僕は女の子だ』って、自分に言い聞かせてるように見えたよ」
胸が波打つ。脚がぐらぐらと揺れるような気がする。慈愛に満ちた眼差で、彼女は言った。
「かすみちゃん。あなたは自分の性別が、判らないんじゃないのかな」
「違う」と言おうとしたけど、言えなかった。目の奥が熱くなって、泪がじんわりと染み出した。
「……そうだよ。わかんないよ」
言葉にすると、急に力が抜けて、その場にへなりと倒れそうになった。すかさず朝顔が支えてくれる。
「女の子になりたかったのは、本当だよ。だけど、心の性別は判らない。僕は自分が誰なのか、解らないんだよ」
席に着き直す。深呼吸をして、僕は語り出した。
*
僕は小さい頃から、趣味嗜好は男の子寄りだったんだ。だけど、女の子に憧れてた。
一番昔の記憶は、幼稚園の時。
ママと服を買いに行くと、通路を挟んだ向い側に女の子の服の売場が見えたの。そこに、胸にリボンの付いた空色のワンピースが飾ってあったんだ。もう潰れちゃったお店だけど、あの服だけは目に焼き付いてる。ママの目を盗んで眺めては、いつか袖を通せたらいいなって夢見てた。……触れることもできなかったけど。
廊下で擦れ違う友達の、綺麗な長い髪に見とれてた。結いたり編み込んだり……恥しくて言えなかったけど、心の底から可愛いなって思ってた。本当に羨しかった。
中学生の時、自分を見失った。夜遅く、部屋の隅で震えながら泣いてた。僕の心は女の子か、男の子か。自分が何者か分らなくて、自分が怖かった。
永久に醒めない夢を見てるみたいだった。自分の体が自分の物に感じられなくて、現実なのに現実味がなくて。着ぐるみ越しにのっぺりとした世界を眺めてるみたいだった。自分の手を太陽にかざして、こんなに間近に見ても、映画館のスクリーンに映ってるみたいに、遠くにあるように感じた。
*
「――高校の掲示板に『性別に悩んでいるあなたへ』っていう貼紙があって、そこに連絡したら、新宮先生の病院だったの。女の子になれば、可愛い恰好も許されると思ったんだ」
僕は、あの日の夜みたいに震えていた。これから一ヶ月、必死に女の子のフリをして、穏便に性別を移行しようと思っていたけど、計画は崩れた。シュシュも朝顔も、もう僕のことを仲間だとは見做さないだろう。
白いスカートの上に手を揃え、不安に目を瞑る。僕を見離し、立ち去ってゆく二人の姿を想像していると、ふいに両手を温かいものが包んだ。
「怖かったね」
シュシュだった。彼女は傍まで来て、僕の手を握ってくれた。
「わたしも昔は、自分が誰なのかわかんなかったの。すごくすごく不安だった。だから、かすみちゃんの気持はとてもよく解るよ」
朝顔も、ゆっくりと深く頷いている。
「でもね、一人で抱え込まなくていいの。同じ悩みを持ってる人は、世界中に沢山いるから。かすみちゃんのこと、わたしに話して欲しいな」
ブラウスの内側で、小さな心臓が脈打っている。滲んだ泪を拭き、僕は言った。
「シュシュちゃん、ありがとう」
病室の壁に買ったワンピースをかけてみる。辺りが一段明るくなった気がした。ベッドから眺めて、にまにまする。
「楽しかったね」
見ると、朝顔が頰杖をついてこちらを見ていた。首にはヘッドホンをかけている。僕は頷いた。
「勇気を出してお出掛して、本当によかったよ。ドキドキしたけど、好きな服を着られてすっごく嬉しい」
視線を落とすと、穿いているスカートが目に留まった。ベッドに腰掛けたまま、足をぷらぷら動かす。靴下に付いているちっちゃなリボンも可愛い。
「本当の自分に、一歩近づけたかも」
朝顔が、何かを言いたそうにもじもじしていた。視線で促すと、彼女は緊張した面持で言った。
「シュシュだけじゃなくて、私にも頼ってほしいな。協力したいんだ、かすみが本当の自分を見つけられるまで」
真剣な目が可愛くて、僕は笑ってしまった。朝顔がちょっと頰を膨らませる。
「なんで笑うの」
「ごめんごめん。……じゃあ、お願いしてもいい?」
機嫌を直した朝顔が嬉しそうに頷いた。
銭湯から帰ってきて、寝る間際まで朝顔とお喋りする。あさがおの花を眺め、彼女は言った。
「シュシュ、可愛いよね。いかにも『女の子』って感じで」
消燈後、天井を眺めながらシュシュのことを思い浮べる。僕は思った。
シュシュちゃんは僕より歳上だよね。
大学生くらいかな。
男の子の姿って、意外と恰好いいのかな。
想像して、恥しくなって、僕は布団で顔を隠した。
「おはよう、かすみちゃん」
雨上りの日に、シュシュが病室に顔を覗かせた。朝顔はちょうど外出している。教科書を読んでいた僕は、彼女の恰好に思考が止った。
「それって、制服?」
半袖のワイシャツと臙脂色のリボン、チェック柄のプリーツスカートを合せている。
「本当の学校の制服じゃないよ。『なんちゃって』制服!」
背中から、ハンガーにかかった同じ服を出す。シュシュは内緒話をするように笑った。
「一日だけ、女子高生になってみようよ」
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