#4 改めまして、かすみです
僕と彼女のベッドは向い合せに置いてある。間仕切を開ければお互いの姿がよく見えた。身体測定から戻ってきた彼女は、ふわふわした髪を後ろで一つに束ねている。
「他にも被験者がいたんだね」
僕の言葉に、病院食を食べていた彼女の手が止る。首にはさっきのヘッドホンを掛けている。
「知らなかったの? 全部で三人いるってうかがったよ」
「じゃあ、あと一人いるんだ」
癖っ毛の彼女はこくりと頷くと、のんびりとお粥を掬って口に運んだ。特別にゆっくりというわけではないけど、丼御飯を十杯、寝起に搔き込んだ僕とは大違いだ。
僕は訊ねた。
「君はどうしてここに来たの? 答えたくなかったら無視してもいいけど」
「貼紙があったの。職員室前の廊下に。『性別に悩んでいるあなたへ』って書いてあって、そこに連絡したら、新宮先生だった」
「僕も。学校の玄関で見たよ」
癖っ毛の彼女はきょとんとして、それからいらずらっぽく笑った。
「きみ、そんな可愛い見た目なのに『僕』って言っちゃうんだね」
僕は釣られて笑った。
「『私』に変えようかなって思ったんだけど、恥しくて。変かな」
「ううん。きみらしくて素敵だよ。可愛い」
まっすぐな眼差で言われて、くすぐったくなる。
「えへへ、ありがとう」
「きみは家族に反対されなかったの? 治験を受けるって言って」
僕は首を横に振った。
「親にも先生にも内緒。契約書はおばあちゃんに書いてもらった。おばあちゃん以外はみんな、勉強強化合宿に行ってると思ってるよ」
「あはは」
朝食を済ませると、彼女は丁寧に手を合せた。
「ご馳走様でした。美味しかったです」と言って、看護師にお盆を渡す。その横顔を見て、僕は声をかけた。
「そのシュシュって」
彼女は、桃色のシュシュを付けていたのだ。
「あ、これ。もう一人の被験者の人に貰ったの」
「わたしのこと、呼んだ?」
看護師と入れ違いに、Tシャツ姿の女の子が顔を覗かせる。長い髪を後ろで二つに結いている。レストランで出会ったあの女の子だった。僕は身を乗り出した。
「君も男の子だったの!?」
彼女は小さく頷くと、照れ隠しに笑った。
おさげの子と、癖っ毛の子と、僕。三人の治験者が揃った。みんな同年代に見える。
僕たちの病室で、新宮医師がカレンダーを指した。
「治験は今日から一ヶ月、九月七日までです。その間、皆さんにお願いしたいことが四つあります」
僕とおさげの子は椅子で、癖っ毛の子はベッドで、彼女の話を聴いている。
「一つ、毎朝毎晩、体重と体温を計って下さい。二つ、食べた物と飲んだ物を全て書き留め、面談で教えて下さい。三つ、夜は決められた病室で眠って下さい。四つ、本名を声に出したり字に書いたりしないで下さい――これは個人情報を守るためです。以上。何か質問はありますか」
おさげの子が訊ねる。
「お酒は飲んでいいですか」
「いけません。たばこもダメです」
「ちぇ」
新宮医師にきっぱりと言われて、彼女は小さく舌打をした。
癖っ毛の子が手を挙げる。
「トイレはどちらを使えばいいですか」
「いい質問ですね」と言って、新宮医師は答えた。
「原則として、男女兼用トイレか多目的トイレを使って下さい。やむを得ない時は、女子トイレを使って下さい。皆さんは、女性への性別適合手術を受けた人たちと同じ扱いになりますから。銭湯や更衣室も同じです」
念を押すように、彼女は付け加えた。
「体の性別に合ったトイレを使って下さい。女の時は女、男の時は男です。くれぐれも、心の性別を基準にして選ばないで下さいね」
「分りました」
癖っ毛の子は素直に頷いた。
「最後にとても大切なお話があります。皆さんの将来に関ることです」
その声に、僕たちは背筋を伸ばした。
「入院前にお伝えした通り、治験後に女性として生きるか、男性に戻るかは、皆さんに全てお任せします」
新宮医師が静かに、丁寧に言葉を紡ぐ。
「治験中は何度性転換しても構いません。一ヶ月のうちの連続五日間は、治験を中断して自宅に帰ることもできます。男女を行ったり来たりしながら、どの姿なら自分らしく生きられるのか、よく考えながら過ごして下さいね」
病室を出る前に、彼女は言った。
「定期的に、私と一対一でお話する時間を設けます。このあと一回目の面談を行なうので、看護師を通じてお呼びしますね」
「ねえ、聞いた? 本名使っちゃいけないんだって」
おさげの子が話しかけてきた。
「私は賛成だよ。私の本名、男っぽくて気に入らないから」
癖っ毛の子がベッドから這い出て、にこにこと言う。僕は提案した。
「じゃあ女の子の名前を付けよっか」
おさげの子が顎に手を添え、考える。僕を見て言った。
「あなた、『かすみ』さんとか似合うと思う。可愛いから」
「可愛い」という言葉に胸の奥がもぞもぞする。僕は深呼吸をしてから、言った。
「ありがとう。――改めまして、かすみです。十六歳、高校二年生です」
自分で言いながら不思議な気持になった。まだ馴染のない響きだけど、いつか自分の名前として受け入れられる日が来るのかな。
「きみは『シュシュ』ってどう? シュシュを配ってたから」
おっとりした喋り方で癖っ毛の子が言った。おさげの子は眉尻を下げた。
「そんな安直な……」
癖っ毛の子が背中を丸める。あからさまにしょんぼりしている。おさげの子が慌てて言った。
「あ、やっぱり『シュシュ』って名前、可愛いと思う! ということでわたし、シュシュです。一ヶ月よろしくね」
持ち直した癖っ毛の子が、わくわくした目で僕を見る。僕は少し考えてから、言った。
「『朝顔』さん、とかどうかな。あさがおの咲く窓辺で目覚めたから」
彼女は嬉しそうに頷いた。
「ありがとう、かすみ。気に入ったよ。――朝顔です。十四歳、中三」
僕が女の子になってから、二十四時間が経とうとしていた。
僕は廊下のベンチで順番を待っていた。看護師が扉から顔を覗かせ、呼びかける。
「かすみさん」
スマホをカメラモードにして、自分の姿を眺めている僕。
「かすみさん、第一相談室へどうぞ」
耳元で呼びかけられ、僕はスマホを落っこどしそうになった。息を整え、聞き返す。
「ぼ、僕のことですか」
ちんまりとした部屋だった。高校の教室の四分の一もない。長机が一台だけあり、新宮医師が僕を待っていた。
「かすみさんはその椅子にどうぞ」
促される。僕は彼女と向き合う席に着きながら言った。
「どうしてその名前を」
「さっきシュシュさんと面談しましたから」
体温や食事の記録の仕方について一通り説明を受けた後、新宮医師に「渡したい物があります」と言われた。
アタッシュケースを開けてみせる。あの、ベルトのような機械が入っていた。画面は真っ黒で、ふた月前に見たような青白い文字は表示されていない。
機械と彼女を交互に見て、尋ねる。
「これって……名前なんていうんですか」
「決まった名前はありません」
僕はちょっと考えて、提案した。
「『女の子になれる機械』、とか?」
「敢えて呼ぶのなら、そうですね」
新宮医師は柔らかい笑顔で言った。
「この機械はあなたに差し上げます」
彼女は続けた。
「体の性別を変えたくなったら、いつでもこの機械を身につけて下さい。中央の白い
僕はその言葉を静かに聞いていた。
「あなたの性別はこの機械でしか変えられませんから、大切にして下さいね」
「でも、同じ機械が他にもありますよね」
彼女は首を横に振った。
「この機械はこの世に一つしかありません。あなたの体の一部を使って出来ているんです。入院前に採血しましたでしょ? もし他の二人の機械を着けたら、体が拒絶反応を起してしまいます」
彼女は不安そうに僕の顔を覗いた。
「この機械は丈夫な設計にもなっていません。石の上にでも落としたら簡単に壊れてしまいます。もしこれが動かなくなったら、もう二度と女の子にはなれないんですよ」
「だけど僕、そもそも男の子に戻る気はさらさらありませんから」
僕は言った。彼女は真顔になって、一つ咳払いをした。机の上に生けられた一輪の花が、冷房の風に
「私は今、一人の大人としてここに坐っています。この部屋の中では、私たちは被験者と医者の関係ではないんです」
引き締まった口調で問い直す。
「あなたはこれからの人生を、絶対に、女性として生きていくつもりですか」
「おばあちゃんになっても、元の性別には戻りません」
僕は言い切った。本当の心を言ったつもりだった。だけど、喉の奥に何かが引っかかっているような気がした。
新宮医師は溜息をつき、それから頷いた。
「念のため、治験最終日に同じ質問をします。かすみさんの気持が変っていなければ、あなたの意思を尊重して、戸籍上も女性になれるよう協力しましょう。色々な手続もしなければなりませんから」
いつもの笑顔に戻って、僕を見つめる。
「それまで、かすみさんが本当になりたいものは何なのか、よく自分の心に問い続けて下さいね」
アタッシュケースを提げて高らかに歩く。女の子になれる機械が、ケースの中で静かに眠っている。病室までの階段を昇りながら、僕は思った。
本当になりたいものは何か。
そんなの女の子に決まってるでしょ?
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