#3 可愛いって言われちゃった
僕が体重計に乗ると、新宮医師と助手がパソコンの画面を覗き込んだ。
「彼、軽いですね」
「栄養の投与量を見誤ったのでしょう」
助手が言い、新宮医師が推察した。
体重計から降りて、よろける。新宮医師がすかさず支えてくれた。長い髪が重たい。
「素敵なのを付けていますね」
新宮医師の言葉に、一瞬きょとんとした。
「下のレストランで貰ったんです。入院してる女の子に」
思い出して、ポニーテールを持ち上げて見せる。新宮医師は口元を隠し、微笑んだ。
「可愛いですね」
頰がぽっと熱くなった。
助手がパソコンを閉じ、廊下に出ようとする。それを新宮医師が呼び止めた。
「この子たちのことを『彼』と呼ぶのはやめなさい」
彼女の射るような眼差に、助手はハッと息を飲んだ。
「すみません。無意識でした」
新宮医師が目を閉じ、誰にも分らないように小さく溜息をつく。
「私たちが違いを作ってどうするのよ」
「一層気をつけます」
「新宮先生」
二人のやりとりを不思議に見つめていた僕は、投げかけた。
「五つ目って何ですか」
「……何のお話でしたっけ」
僕は腰に手を当てた。
「五つ目の性別ですよ。先生が言いかけたところで、僕、寝ちゃったんです」
彼女が大袈裟に言う。
「あら、ごめんなさい! 眠ってたんですね」
そして、思いついたように言った。
「私が今ここで答えてしまうこともできますが……この治験中に、あなた自身で考えてみませんか」
僕は狐に摘まれたような顔になった。
「どうして勿体ぶるんですか」
彼女は一つ一つの言葉に気持を込め、ゆっくりと語った。
「五つ目の性別は、体の性別や心の性別とは比べ物にならないほど大きいのですが、ほとんどの人から見過ごされているんです。あなたにはそれを見つけてほしい」
僕に目の高さを合せ、憐れむように言う。
「――きっと、否が応でも意識すると思いますが」
深刻な表情の新宮医師を、僕はぼうっと眺めていた。
一人ぼっちになった僕は、ベッドにぽすんと腰掛けた。さっきの手鏡を見る。馴染のない女の子と視線が合う。
首を左右に振ると、長いポニーテールがさらさらと揺れた。横を向くと、ピンク色の大きなシュシュが見える。
お目々をぎゅっと瞑り、頰を緩める。
「可愛いって言われちゃった……」
「きゃー!」と、僕は顔を枕にうずめ、嬉しい悲鳴を上げた。足をぱたぱたさせる。顔が熱くなるのが分った。
手鏡を握り、じっと縮こまった。胸の鼓動がいつもより大きく聴こえる。
――新宮恵美教授の研究チームは、国の承認を得るため、新しい性転換技術の治験を行なっていた。彼女たちの開発した機械を使えば、手術を受けなくても体の性別を簡単に切り変えられる。僕はその被験者だ。
治験が終った後、元の性別に戻るかどうかは被験者自身が決めることになっている。もちろん僕は女性として生きてゆくと心に決めていた。
顔を上げ、辺りをきょろきょろ見る。
もう一台のベッドがあった。間仕切のカーテンがぐるりと囲んでいて、中から機械の運転音が聴こえてくる。
「寝てるんですか」
高い声が病室に響く。待っていたけど、返事はなかった。僕は寝返を打ち、夕方のあさがおを眺めた。
銭湯から出ると、宵の明星が瞬いていた。
ぶかぶかのジャージ姿で街を歩く。火照った頰に風を受けるのが心地よかった。病院はこの橋の先だ。
ふと、足を止める。
川の名前を記した看板があった。それを見て気付く。この川は、実家の近くを流れる川と同じものだったんだ。
「
上流を見据える。
僕の暮す市とこの街には、同じ川が流れていた。僕にはそれが不思議だった。まるで、遠い外国にいるような気がしてたのに。
欄干に寄りかかり、スマホを取り出す。旅行中、家族で撮った写真が壁紙に設定されている。両親と、小学生の弟と、男の子の姿の僕。四人家族だ。
手首に巻いてある桃色のシュシュが目に入った。治験後の暮しを思い浮べる。僕は思った。
弟に「お姉ちゃん」って呼ばれるのかな。
もう「床屋に行け」って言われないのかな。
可愛い服を着ても受け入れてくれるのかな。
長い髪が夜風になびく。街の明りが
窓から朝日が射し込んでいる。
僕はベッドの上で数学の問題集を解いていた。病室にノートとシャーペンの擦れる音が響く。
教科書を取り出そうと、リュックサックに手を伸ばした時だった。
「ガシャーン」と音がした。僕はびくりと飛び跳ねた。サイドテーブルに置いていた筆箱が、僕の肘に当って落ちたんだ。中身が飛び散る。消しゴムがころころと床を転がってゆく。
サイドテーブルを押しやり、ベッドから降りる。消しゴムは向いのベッドの方へ行き、間仕切のカーテンの下へ消えてしまった。
床に這いつくばり、覗き込む。あった。ベッドの下の暗がりに、小さな丸い影がちょこんと見えた。
「し、失礼します」
一言言って、手を伸ばした。だけど、あと少しのところで届かない。頭をくぐらせて、指先をぴんと伸ばす。背中に触れて、カーテンが不規則に波打つ。
「誰かいるの?」
ベッドの上から声が聞こえた。僕はびっくりして、頭を思いっ切りベッドにぶつけてしまった。
「痛た……」
消しゴムを摑み取り、頭を擦りながらそっと立ち上がる。目の前の光景に、僕は息を飲んだ。
あさがおが鮮やかに咲き誇り、日に照し出されている。ベッドには、僕と同じ歳頃の女の子がいた。床へ零れ落ちそうなほど髪が長い。枕元に敷かれた小綺麗なクロスの上に、年季の入ったヘッドホンが一つ置かれている。
眩しそうに目を瞬かせる。こちらに気付くと、じりじりと僕から
「ご、ごめんなさい! 物を落としちゃって、それを取ろうとしたんです。起こしてしまって、ごめんなさい」
早口で謝る。不審に思われて当然だ。起きたら目の前に知らない人がいたんだから。
彼女は自分の長い癖っ毛を引き寄せて、目を丸くした。耳を澄ますと、機械の運転音が聴こえてくる。彼女の腰の辺りからだ。彼女は僕の髪と自分の髪を見比べて、おっとりとした表情で笑った。
「私を起こしたのは、きみ?」
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