恋のため息

青いひつじ

第1話




私の放課後は、苦くて、甘い。



教室が空っぽになった16時頃。

私は、2年3組の扉を開いた。

夕方の始まりと、少し丸まった背中が見えた。


私がその人を"先生"と認識したのは、高校1年の夏休み。ブルーハワイの空が広がる夏の日だった。






明確なことが好きだった私は、幼い頃から"人の気持ち"がよく分からなかった。


小学5年生の時、新しくできた友達は竹を割ったような性格の女の子だった。その子は「私の正直なところが好きだ」と言った。

ある日、髪を切ってきたその子に対し「前の方が可愛かったよ」と正直に伝えたところ、その場で号泣してしまい、私は次の日からひとりぼっちになった。


人間は、好きな人に嫌いと言ってみたり、可愛くないと思っていても、可愛いと言ってみたり実に不思議な生き物だ。

国語の解答は曖昧な表現ばかりで、全く理解できなかった。


そんな私も、中学ではどうにか耐えていたが、ついに古典のテストで人生初の赤点を取ってしまい、夏休みの補講を受けることになった。

驚くべきことに、学年で古典を落としたのは私だけだった。

誰か、現代で使わない言葉を学ぶ意味を教えてほしい。






補講が始まる朝、外では蝉が鳴いていた。

教室の扉が開き、入ってきたのは猫背気味の男性だった。


「岡本さん、おはようございます。

今日から3日間補講をして、最終日に追試を受けてもらいます」



彼の前髪は少し長く、光に触れると濃い紺色になった。

肌は透けそうなほど白く、前髪の隙間から覗く瞳はメガネで隠れていた。


古典の先生って、こんな人だったんだ。

この時、私は初めて彼の存在を認識した。




「先生の名前って」



「夏目です」



「なつめ?」 



「夏目 蒼(なつめ あお)」



先生はゆっくりと、黒板に自分の名前を書いた。

先生に似た、細く美しい字だった。



「よろしくね、岡本 爽(おかもと さやか)さん」



今更名前を聞くなんて失礼な話だが、先生は優しかった。



「じゃあ、僕も質問があります。拝見したところ、他の教科の成績は良いみたいだけど、古典は好きじゃない?」



嫌いではない。

でも、言葉は難しいなと思う。

時に、自分の思いとは全く違う方向へと、ひとりでに歩いて行ってしまう。

私は過去、そんなことを幾度と経験した。



「昔の言葉を覚える意味が分からなくて、頭に入ってきません」



先生は、私の正直すぎる言葉に少し驚きながらも笑った。



「古典を"言葉を学ぶだけの授業"だって思ってるなら、それは少し違うかもね」



先生の瞳は、髪と同じような少し青みのある黒色で、気を緩めると吸い込まれそうだった。



「僕は古典や国語っていうのは、

"人の心を想像しようと思う気持ちがあるか"をみる教科だと思ってる」



そう言った先生は優しかったけれど、

私とは別の、遠い世界にいるような感じがした。



「すみません。やっぱり、私には難しいかもです」






3日間の補講は、あっという間に終わった。

先生の授業は分かりやすかった。

追試テストを無事クリアした私は、みんなと一緒に2学期を迎えることができる。


青い空に橙色が滲んでいく夏の夕方、家に帰る子供達の声がする。

窓を開けると、祭りの後のような匂いがした。

もうすぐ、夏休みが終わる。


相変わらず宿題は、古典と現代文のページだけ空白のままだった。

そういえば、休み明けにテストがあると言っていたのを思い出した。



「岡本さん、僕の授業あんまり聞いてなかったみたいだからご報告。

 夏休み明け、最初の授業で百人一首のテストがあるからね」



百人一首を全て暗記し、一致する歌と現代語訳を繋ぐというもの。

私はベッドに寝転び、プリントの1番から順番に、囁くように読んでいった。


百人一首は恋の歌が多いようだ。

今も昔も変わらず、人間はどうしても恋をせずにはいられないらしい。

13番目の歌、それは切ない片想いの歌だった。


その時、なぜか、補講の風景が頭に浮かんできた。


黒板に名前を書いた時見えた背中には、ほんのり汗が滲んでいた。

あの日、先生からは苦い匂いがした。多分、コーヒーの匂い。

私の前に座り、先生が間違いを指差した時、私たちの距離は10センチほどだった。


そして、先生は左利きで、白く細長い指には銀色の輪っかがはめられていた。



どうしてだろう、昨日の晩御飯も覚えてない私が、あの3日間をこんなにもはっきりと覚えている。


思い出すほどに頭が熱くなり、百人一首を覚えるどころではなくなってしまった。

ブラックコーヒーを、ひとくち飲んでみる。


「うえ、美味しくない」


なんだかボーっとする。本当に熱があるかもしれない。





  



2学期が始まった。


全校集会のため体育館へ向かう。

いつもと同じ廊下、いつもと同じ運動場。


違ったことは、変わらない風景の中、ただ1人だけがくっきりと浮かんで見えたこと。


髪を切り、ワイシャツにネクタイ姿の先生は、知らない人みたいだった。

両脇には女子生徒の姿があった。クラスの生徒なのか、先生の腕を触ったり、顔を覗き込んだりとても親しげだった。

目が合いそうになり、思わず視線を逸らした。


きっと夏目先生は、みんなに優しい。

早めに気づけてよかったと思う。

"自分にだけ"と勘違いしてしまうところだった。

最近の私の心は、こんな風に赤色と青色を行ったり来たりしている。






2学期最初の古典の授業。

テストの存在をすっかり忘れていた私は、覚えたところまで線で繋いで、机に突っ伏し眠ってしまった。

誰かが、私の机をトントンと軽く突いたような気がした。



1週間後、テストが返ってきた。13点だった。

テスト返却の時、先生は私と目を合わせなかった。


授業が終わり、教室を出た先生を追いかける。

足音に気づいたのか、先生が振り返った。



「岡本さん。どうしたの」



「怒ってますか。ちゃんと覚えなかったこと」



「怒ってないよ」



先生の声は優しかったけど、それはまるで、私に全く関心がないかのように聞こえた。

だから、言葉は苦手だ。

先生が何を考えているのか分からない。

何か話したいけど、見つからない。


私が黙っていると、先生が近づいてきた。

そして視線を合わせるように、少しだけしゃがんだ。



「分からないことあったら、いつでも聞きにおいで。僕でよければ。

2年3組の担任だから、放課後になるけど」



やっぱり、言葉は苦手だ。

海の底に沈んでいくと思ったら、太陽の光に導かれ浮き上がるような。

ひとつ確かなのは、私は今、嬉しいと思っている。





次の日、私は質問をしに教室に向かった。

2年3組の扉を開くと、夏目先生は窓の外を見ていた。

あの日と同じ、少し丸い背中だった。



教室には影が2つ。

それは、夏休みと同じ距離。



「百人一首、なんで13番までしか覚えてなかったの」



「13番目の現代語訳がロマンチックだったからです」



「13番ってどんなのだっけ」



「恋ぞつもりて 淵となりなる」



「あ、確かに」



「これ読んでたら、補講の時を思い出して、覚えるどころじゃなかった」




先生は黙ってしまった。




「先生も、こんな経験ある?」



自分でも、何を聞いてるんだと思った。

先生は目を伏せ、4秒の沈黙が流れた。



「岡本さんは、古典得意だと思うよ。

 こんなふうに人の気持ちを知ろうとする」



私の質問は見事、しゃぼん玉のように空を舞い虚しく消えてしまった。

先生は、優しくて、鈍感で、ずるかった。

左手の指輪は、私を嘲笑うかように光っている。



「先生は、意外に苦手かもね」



「古典の先生だけど?」


先生は最後に決まって、他に質問は?と聞いた。聞きたいことなら、たくさんあった。



夏目先生。

赤色と青色を混ぜたような、この気持ちは何ですか。


ずっと1人の人を目で追ってしまう、この行動は何故ですか。


好きじゃないコーヒーを飲んでみたりするのは何故ですか。



好きな人はいますか。






私は週に1回、先生に会いに行った。


「これだけ、丸つけ終わってからでもいいかな?」



「うん」



教壇の前の机に座った。

キュッキュッとペンの走る音が響く教室。


教科書を読みながら、時々、レンズ越しの瞳を見つめていた。


先生は、睫毛が長い。


カーテンと前髪が風で揺れる。


先生は、苦くて、甘い匂いがする。


大人の匂い。




「先生、コーヒー飲むの?」



「うん。どうして?」



「甘いの?」



「苦いの」



「たばこは?」





先生が、私の瞳をとらえた。





「吸うよ。これは内緒ね」




私たちの間に、秘密ができた。

きっと、クラスで私だけが知ってる秘密。 


私は髪を耳にかけ、ふーんと言いながらノートに目を移し、必死にこの嬉しさが伝わらないようにした。






外は、金木犀の匂いがしたと思ったら、燃えるような紅葉が散って、あっという間に雪の降る季節になった。

あと少しで、2学期が終わる。



今日も私は、放課後の2年3組にいる。

先生はテストの答案用紙と睨めっこをしていた。

私は携帯を触りながら、先生に話しかける。



「2学期は古典落とさなくてすみそう」



「それは良かった」



「先生のおかげ」



「岡本さんの力だよ。このまま3年まで踏ん張れば、きっといい大学の指定校取れるよ」




「来年は3年の担任?」



「ううん」



「え?2年?!」




「違うよ」




軽い気持ちでした質問のまさかの回答に、心臓は激しく波打ち、体が固まった。






「違う学校に行くの?」





うっかりしていた。








「結婚する」







聞かなきゃよかったと思った。

なんとなく気づいていたけど、先生からその言葉は聞きたくなかった。




「これも内緒。

 色々と聞かれちゃうからね」




私たちの間にできた最後の秘密。


先生の幸せそうな顔を見たら、悲しい気持ちは、悟られないよう両手で握りしめて隠すしかなかった。 


私は、前髪を直すふりをした。




「おめでとう」



「ありがとう」



「たくさん教えてくれて、ありがとう」



「いなくなる前に、教えたいこともっとあったんだけどね」



「十分です」



強がって笑ったけど、本当は涙が溢れそうだった。




「岡本さん、初めて会った時から雰囲気変わったよね」



「そういうの、今の時代セクハラになるよ」




そう言った私に、先生は笑った。


 


「応援してるよ」







街灯が寂しそうに照らす帰り道。

昨日の夜からしんしんと降っていた雪は、

帰りには、歩くのが大変なほど積もっていた。


私も、気づいたら、こんなにも先生のことを好きになっていた。



百人一首13番目の現代語訳は、

"私の恋心も積もり積もって、淵のように深くなってしまった"



じわりじわりと雪を踏む。

私は、この気持ちを誰かに打ち明けようとは思っていない。

いつの間にか芽生えた小さなつぼみを、大切にしたいだけ。

何ひとつ、形に残らなくていいから、ただ、いつまでも忘れたくないだけなのだ。




誰かのことを思い心臓が痛くなるこの病気も、


心がいっぱいになり、そのまま溢れ出すようなこの現象も、


夜の風では、涙は乾かないことも、


全部、先生が教えてくれたこと。



錆びた自動販売機のボタンを押す。


冬の澄んだ空に、白い息を吐いた。

涙を苦いコーヒーに溶かして流し込む。





最近になりもう1つ知ったことは、

 


恋のため息は深いということ。















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