訝しい

「やりがいがある」


 しかし返って、導火線に火を付けてしまったようだ。颯爽と部屋から出て行く扉の開閉に伴う蝶番の喚きを耳にし、拷問に因んだ道具を意気揚々と取りに行く後ろ姿が頭の中で描かれた。俺は臍を抱えるようにして背中を丸め、これから先に待ち受ける酸鼻たる行為への心構えを無心になって没我する。息をなるべく浅く吸い、脳を酸欠気味に追い込んで、半ば気絶するかのような状態に自ら手引きする。面倒事を明日の自分に任せるといった俗っけタップリな逃避行動は、物事を好転させる気がない俺にとって、ほかに例え難いほど適当なものだった。今の自分に肩書きを与えるなら、「仄かに意思を持った肉袋」こんなところだろうか。


 外界の刺激から身を守ろうとする防衛本能は、萎縮した脳によってもたらされたものであり、思考の傾向が尽く後ろ向きなことと直接的に繋がっている。これは俺が特別に痛みに弱いといった、再現性の低い事案などではなく、誰にでも起き得る普遍さだ。「明日の自分に任せる」、このような言葉に目を丸くして金言とする機会はもう既に過ぎ去っていて、眠気の綱を引っ張るのは真っ当なことである。目覚めるきっかけは、どれにも比類しない新鮮な痛みか。それともけたたましい怒声による鼓膜の振動か。全てのことは、目覚めた俺に任せよう。


「おはようございます」


 もはや見慣れたというより、見飽きたと言う方が即しているだろう。殺風景な天井と、虫が鈴なりに集まるであろう白い蛍光灯。俺が目を開けると同時に、中村氏が挨拶をするこの一連の流れは慣例とっており、立て続けに襲われた悪夢のせいで気が立って仕方がない。ストレスの発散する矛先として中村氏を選び、確信犯的に八つ当たりを行ってしまいそうだ。皮肉めいた言い回しや、理不尽な唾棄を飛ばし、覆しようがない軋轢の一端を担う。それは枕元で囁く自己嫌悪に餌を与えることになり、なるべく避けたい。睡眠薬に身も心も明け渡す、中毒者さながらに睡眠薬へ固執する田中氏の姿を戒めにして俺は立ち回る。


「どうも」


 不満を口に出したのと変わらない語気の刺々しさは、俺が今如何に不機嫌であるかを語るに落ちた。


「今回の夢はどうでしたか」


 中村氏が生業とする仕事の都合上、客が見た夢の精査は避けられない。というより、本分だろう。しかし俺は、中村氏から適切なアドバイスを未だに授かっていない。不眠症を理由に睡眠薬は処方されたが、見る夢の質の悪さは無視できない。無意識下にある言語化が追いつかない不安について、専門家の見地から的確な言葉で咀嚼できるように理解を促すのが通常のはずだ。中村氏はその仕事を放棄しているとしか思えない。田中氏の異様な依存性から察するに、薬漬けにして客を縛り付けているのではないかという邪推すらしてしまうほどに。

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