悪夢、再び

「おはよう」


 暗闇の中で、俺は確かに目蓋を持ち上げた。しかし目の前に広がるのは、依然として闇だった。


「起きたのは分かるんだ。君の目蓋がこう動くんだ」


 成人男性と思しき低い声の主は、俺が自覚していない癖の一つを披露しているようだが、この不明瞭な視界の中に決して現れることはない。フローリングの床と愛撫する肌のベタつきに不快感を覚えて、身体を動かそうとすると、不自由な手足の拘束に気付かされた。寝返りのように身体を横に倒せば、陰部が不埒によだれて、俺は今何も身に纏っていないことを悟った。生まれたままの姿で見知らぬ男の前にいる極めて不可解な状況に際して、前後の記憶を顧みようとする。だがしかし、記憶を遡る気配が一向に掴めず、俺は自分の名前すら把捉できないことに驚かされた。生年月日から出身地、あらゆる身の上が判然としない。記憶の欠落だと一言で形容し、咀嚼できるだけの納得しがいのある理由を拵えるには、男から事情を訊かなければならない。


「ん、ぁ」


 言葉が詰まるというより、口端から涎が垂れてたような声の発し方になり、慌てて取り繕うとすれば、気付くのである。


「ァあ」


 言葉を操る為の舌がないことに。その瞬間、火花が走ったように記憶の断片が蘇り、浅はかな慈善活動を逆手に取られ、男女に監禁された阿呆の末路が浮き彫りとなった。そうか。俺は長い夢を見ていたようだ。それも、とびっきり夢見が悪い。


「おい、アザラシ」


 粗野な呼称を怒りの源にするには、体温の上昇を待つ他なく、至って平温にある現在の調子からして、不発弾さながらの陳腐化が関の山。決して着火することはない。何より、侮辱的な言葉は俺の置かれた状況を端的に表しているように思え、抗議の声を上げることは不当にあたるはずだ。ヒトとしての扱いを受けるような身持ちにないことは明白である。


「水はいるか?」


 入場料を支払い、水族館で時間を過ごそうとする客の機嫌に阿る飼育員の涙ぐましい動物との二人三脚は、万雷の拍手によって報われる。しかし、この空間で見返りを求めようとするのは、甚だお門違いだろう。言うなれば、ここは入会費を徴収して披露される見世物小屋である。嗜虐心を満たす私と男の侍従関係は、涙ぐましい露悪さによって感嘆の声を誘引すれば、恥辱の境目を失った倒錯的な喜びを得るのだろうか。


「……」


 俺はひとえに衰弱を求め、男からの提案を右から左へ受け流す。それが気に入らなかったのだろう。怒気のこもった足音が俺のもとへ駆け寄り、腹部に向かって足を振り抜かれた。薄っぺらな腹筋はいとも簡単に男の足蹴に悲鳴を上げ、身体の深部まで痛みが広がる。嗚咽まがいに口を開けて痛みを吐き出そうとしたが、アザのように深く残り続けた。


「なかなかしぶといな」


 うんともすんとも言わない俺の態度が反抗的に映り、怒髪天をつく勢いで憤然なる怒りを覚えた。それもそうだろう。支配的な男の立場からすれば、知らぬ存ぜぬを決め込んだ私の振る舞いは、気に入らなくて当然、身体のどこかに痛みを与えて反応を引き出すしかないのだ。

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