邂逅

「すみません」


 気の長い中村氏へ俺はひたすら頭を下げて、長く籠城したことを詫びると、足早に「夢クリニック」から退店した。四階建ての古びた雑居ビルにエレベーターは備え付けられておらず、最上階は常にテナントの募集を掲げる紙を窓ガラスに貼り付けている。そんな雑居ビルの三階に中村氏は「夢クリニック」を構えていて、階段の上り下りに見合うサービスが待っている。


「あ! の」


 階段を駆け下りて直ぐの歩道にて、赤の他人から声を掛けられる突飛さはなかなかに肝を潰される。あまつさえ、女性とくれば動悸が激しくなって当然であった。


「な、なんですか?」


 あからさまに辿々しく返答する俺の姿は、懇談とは関係のない場所で偶さか知人と顔を合わせたようなバツの悪さを象る。


「夢クリニックに通われていますよね」


 問いかけとしては単純なものであったが、まるで意図が見えてこず、言葉を窮する。


「そう……です。はい」


 呼吸をするたびに肩の上で髪先が跳ねる癖っ毛は、目尻の下がり具合と合わせて柔和な雰囲気を形作っている。人を誑かして利益を得るような邪な考えの持ち主には到底感じられない。だからこそ、足を止めて女性からの質問に実直な答えを用意してしまった。


「わたしも、中村さんに診てもらってるんです!」


 同じ穴の狢であると告解する女性は、藪から棒に声を掛けた口実を告げてきたが、接点を持つ理由としては弱い。


「そうなんですか」


 少し興奮気味な女性の声色は、似たような悩みの種を共有する仲間がいることへの喜びを表していた。誰にも相談できない悩みや問題の向き合い方を「夢クリニック」に託して通うのがほとんどだろう。それを軽々しく赤の他人と共有し、解決を図ろうとする手前味噌な方法は、極めてお門違いな目論見といえる。


「タジリウス。処方されていますよね」


 恐らく、中村氏にかかる人間ならば、共通言語して通じるだろう。「タジリウス」とは、端的に言えば睡眠薬だ。その効能を授かるまでの時間は、とかく体調に左右されるがちだが、先刻の通り摂取してから十分以内に必ず眠気を誘引できる。ほとんど気絶のような格好で朝を迎える恐ろしさから、インターネット上で検索にかけたほどである。しかし、「タジリウス」と打ち込んだ結果、得られたのは類似的な映画の題名や人名など、睡眠薬とは似ても似つかない情報が列挙された。個人が経営するクリニック特有の身軽さを利用した輸入品の類いであり、日本で認可されていない海外の品物かと推測し、英語名で検索したものの、それらしいものは見つからなかった。のちに健康被害に繋がるかもしれない睡眠薬の存在を嬉々として摂取し、恩恵に授かる深刻な睡眠障害に悩まされていた訳ではないが、躊躇いを覚える感覚はとうの昔に過ぎ去った。

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