5-8 証拠はどこに?
7時になると、ドアにノックがあった。真倫さんがドアに向かって「開いているわ」と言う。すぐにドアが開けられて、監督が顔を見せた。
「もう下に行ってええですか」
「どうぞ。私たちも今から行くわ」
監督はすぐにドアを閉めた。廊下から話し声と足音が聞こえる。みんな集まっていたのだろう。真倫さんが立ち上がり「行きましょう」と言う。
「あの……僕は着替えなくていいんですか」
僕が訊くと、真倫さんは少し優しい顔になって言った。
「私が服を取ってくるわ」
「いや、僕が自分で着替えてきますから!」
なぜ真倫さんは僕のために何でもしてくれようとするのだろう。しかしこれ以上彼女の手を煩わせるわけには……
「なら、君の部屋まで一緒に行くわ」
「あ、はい」
廊下に出て驚く。僕の部屋の前が真っ白。何かの粉が……向かいの部屋の前までまんべんなく、足の踏み場もない。奥の部屋に行こうと思ったら、5メートルくらいはジャンプしないと。
そうか、これを保存したかったのか。
「踏んでもいいんですか?」
「もちろん」
よく見たら、幾つか足跡があった。それでもそろそろと粉を踏んで部屋に入り、大急ぎで着替える。ワイシャツの皺が気になるが、仕方ない。
部屋を出ると真倫さんが「着替えた服を持ってきて」と言う。そうか、このあと返さなければならない。取りに戻って、二人で1階へ。
会議室にみんなが集まっていた。5人。やはり四方くんがいない。
「朝食の用意はまだかしら」
「四方のことが気になるんで、みんな食べる気にならへんと。何か連絡ありましたか」
監督が言った。真倫さんが静かに答える。
「拮抗薬を投与したので、中毒死のおそれはない。意識も一時的に回復した。ただ容態が安定するまで安静にしていた方がいいので、退院は午後になると」
「そらあ良かった……」
監督は安堵のため息。他の人もほっとした様子。しかし「昨夜の続きをしましょう」と真倫さんが言い、椅子で車座を作る。僕の席は、もちろん真倫さんのすぐ隣。昨日より距離が縮まっている。着替えの入ったバッグを手近な机の上に置いて、椅子に座る。
「では、おさらいを」
真倫さんが話し出す。僕が知らないことばかり。特に、皆が真倫さんに〝挑戦〟しようとしたこと、それには僕が邪魔だったので眠らされたことは驚きだ。やっぱり余計な存在だったのか。
「以上に加えて、私が新たに調べたことが幾つか。まず縄梯子について」
真倫さんが二宮くんを見る。二宮くんは戸惑いの表情。
「屋上に上がったんですか?」
「ええ。あなたの言ったとおり、あなたの部屋の窓の上にあったわ。しかしそれが一昨日の夜からあったかどうかはわからない」
「どういう意味です?」
「放り上げたのは昨日の夜かもしれないという意味」
「いや、違いますって!」
二宮くんは強く反発して腰を浮かせたが、急に怯んだ表情になると、腰を落とした。もしかして真倫さんが睨んだのか? 眼力だけで下級生を黙らせるとは……
「私は確実な証拠だけを使って事実を再構成しようとしているの。落ち着いて聞いていて」
「……わかりました」
「他の人も、そのつもりで」
他の人の返事はなかった。互いに顔を見合わせて小さく頷いただけ。
「まず昨夜、皆さんの予定にない行動を取った人物がいたことは確実。その人は華斗くんを気絶させた」
面目ないことだが、僕も黙っている他ないだろう。
「おそらくその人は、睡眠薬のパッケージを処分しようとしていた。四方くんの部屋にはなかったから。かと言って、自分の部屋に持ち帰ることはないはず。探せばすぐに見つかってしまう。窓から外に捨てたということもない。私は今朝、外へ出て屋上へ登る前に、建物の周りを調べました。夜中に外へ出て、遠くに捨ててきた、というのも考えられない。私はずっと起きていて、出て行く人がいないか気を付けていたから」
驚愕。そこまでしていたとは。それなのに真倫さんの、徹夜を全く感じさせないこの美しい顔はどうだろうか。
「本来なら、昨夜のうちに皆さんの身体検査をして、部屋を調べて、建物の周りも捜索するべきだった。ただ私は、そんなことでは見つからないだろうと思っていたから、しなかっただけ。では次に、機会の問題。華斗くんを気絶させた、つまりトイレかシャワー室に、行く機会があった人は誰か」
真倫さんはそこで5人の顔を見回した。みんな微妙に目を逸らしている。
「正確には、行って、部屋に戻れた人と言うべき。廊下に撒かれた粉の件があるから。それと関係なく、行って戻れる人は……三井さん、五条くん、六車さん」
六車さんは「ひっ」と小さな声を出して、真倫さんを見た。疑われることはわかってるはずなのに、改めて名前を呼ばれて動揺したのか。三井さんと五条くんは目を逸らしたまま。
「五条くんと六車さんは一緒にトイレ付近の灯りを見ているけれど、狂言という可能性もある。それから三井さんは……2時よりも前に行動を起こし、トイレで睡眠薬のパッケージを処分していたところを華斗くんに見つかりそうになって、というのは考えられる」
「処分なら、もっと前にすると思いますけど」
三井さんは反論。しかし面白くなさそうにそっぽを向いたまま。正統派美人らしくない。
「今は可能性を考えているの。六車さんは2階へ上がった後、三井さんを起こしに行かなかった。そうね?」
「は、はい……」
真倫さんが訊くと、六車さんは声を震わせながら答えた。悪女らしくない。
「では三井さんがその時1階にいたとしても気付かれなかったということ。そして二宮くんについては」
二宮くんが顔を上げて真倫さんを見る。何を言われるかもうわかってます、という顔つき。
「昨日のうちに縄梯子を密かに回収すれば、2時よりも前に行動を起こし、女子トイレから自分の部屋に戻ることができたはず」
「はあ」
反論の代わりに二宮くんはため息をついた。ちょい悪らしくない。しかしこれでは4人のうち誰でもできたということになってしまい、話が一歩も進んでいないのでは……
「ところで昨夜、正確には未明に、ここで確認したことだけれど、当初のシナリオでは犯人を特定する手掛かりが不足していた。二宮くんだけにはできないという状況を作り、実はできたということだけれど、それを明確に示す証拠が何もない。縄梯子は証拠の一つだけれど、それも偽装かもしれない。つまりミステリ劇としては不完全。さて一色くん」
「はい?」
監督は目を閉じて俯きながら腕を組み、おとなしく聞いているふりをしつつ居眠りしているようにも見えていたが、顔を上げて返事をした。
「あなたがこの台本を見たら、どう思う?」
「うーん、疑問があったらあなたに相談しようとしますやろな」
「しかし私に挑戦しようというのだから、できないわね」
「それはそのとおり」
「自力で台本を手直ししようとするかしら」
「さあ、俺もミステリーの決まり事を全部理解してるわけやないし……」
「ではここにいない四方くんはどうかしら」
「どういうことです?」
「彼はこの台本で納得したと思う?」
「さあ……」
「私はそうは思わない」
真倫さんがきっぱりと言いきると、そっぽを向いていた三井さんと五条くんも、真倫さんを見た。
「皆さんご存じのとおり、彼は演劇に対して非常に真摯で熱心。意識朦朧のふりをするだけでは嫌だから、睡眠導入剤を飲むと言ったくらい。そうね、二宮くん?」
「あ、はい……え、そしたらまさか……」
「彼はそれでも満足せず、台本を修正しようと考えたのよ。もっとミステリ劇らしくして、私を満足させるために。これは私一人のためだけに演じられるはずだった劇だけれど、もっと完成度を高めようとした」
「そしたら……俺らに黙って、一人で? 睡眠薬を大量に飲んだのも自分で?」
二宮くんだけではなく、もちろん他の4人も驚きの表情。
「しかしそれでは誰も華斗くんを気絶させることができない。睡眠薬のパッケージを処分することも。だから協力者が必要だったはず。一緒に台本を修正し、共犯者と言うべき行動をする人が」
「誰なんです?」
「皆さんは演技がお上手だから、一人だけ知らないふりをしているのね。でも私には素と見分けが付かない。二宮くん、あなたかもしれない」
「いや俺は……違います、俺は……」
「そういう動揺も演技かもしれない。だから、この劇が修正されているのなら、明白な証拠が用意されているべきと考えるの。推理の根拠となり、共犯者を明確に示す証拠が」
真倫さんこそ、素晴らしい演技……探偵の演技。もしかしたら、これらの全てが僕に見せるための劇かと、一瞬考えてしまった。僕が気絶させられることまで台本に含まれているとしたら、ものすごいことだが……
「つまり、睡眠薬のパッケージ。それを見つけ出すことが鍵。すぐにはわからないけれど、探偵がしっかりと考えれば気付く……そう準備されていたはず。ところがハプニングが起きてしまった。華斗くんがトイレのために起きて……」
いや、やっぱり台本には含まれてへんかったんか!
「しかし共犯者も劇に慣れているから、アドリブで対処したの。華斗くんを気絶させた。彼が部屋に戻って、廊下の粉に気付くと、劇を中断しなければならない。だから彼を足止めする必要があった。同時に共犯者は、探偵に対してヒントを残す別の方法を思い付いた」
「ヒント?」と三井さん。真倫さんの探偵の演技に見入っているようだ。
「華斗くんは女子トイレに倒れていた。しかし彼は男子トイレから出て、キッチンとシャワー室を覗いて、その後で気絶させられたということだった。であれば彼を気絶させた人は、わざわざ女子トイレに彼を引っ張り込んだということになる。それは、共犯者の帰り道だったから? 二宮くんが部屋へ戻るには、女子トイレを経由する必要がある」
二宮くんは何も言わなかった。反論の素振りすら見せない。
「それとも別の意味があったのか……私は今朝、華斗くんが目覚めてから話を聞いて、ようやく気付いた。本来なら昨夜のうちにわかっていなければならなかったのに……」
それから真倫さんは僕の方を見て、とても優しい表情で「さっき脱いだスウェットパンツを持ってきてくれる?」。表情と言葉のギャップに軽く驚かされるが、僕は席を立って、机に置いたバッグからスウェットを取り出し、真倫さんに手渡す。彼女は自分のロングパンツのポケットから白い手袋を取り出すと――どうしてそんなもの用意してるんですか――右手に嵌め、立ってスウェットを伸ばして胸の前から垂らした。
それからスウェットのポケットに手を入れる。僕が履いている時にそんなことをされたら、と思わず想像してしまい、股間がむずむずしてきた。
彼女はポケットの中を探り、ゆっくりと何かを引っ張り出してきた。手を顔の前に真っ直ぐ伸ばして、それを皆に見せる。薬のパッケージ――ブリスターパックと呼ばれるものだった。名前はサイレース。4錠分が空になっている。
「これが、探すべき証拠品。隠し場所としては、なかなか巧妙だったわ。朝まで気付かれなければ、そのまま演劇部に返す物だから。これをちゃんと調べれば、四方くんと共犯者の指紋が付いているはずだけれど、そこまでする必要はあるかしら? ……一色くん」
他の4人が一斉に監督を見る。しかし、台本の手直しをする共犯者といえば、彼が適任なのは当然だった。監督はまだ無言。
「劇が始まる2時より前、おそらく1時頃にあなたは四方くんの部屋へ行って、打ち合わせをし、睡眠薬を飲ませたのね。2時過ぎ、五条くんがドアを開けて声をかけてきたら――中は暗くて、あなたがいるのに気付かなかったでしょう――部屋を出て1階へ下りた。シャワー室で薬のパッケージを処分しようとしていたら、たまたま華斗くんが起きてきて……」
「彼を気絶させた後、俺はどうやって部屋に戻りましょうか」
監督は落ち着いたものだった。考えてみれば彼も元々役者で、これまではずっと「ハブられた人」を演じていればよかったわけだ。
「もちろん縄梯子で。昨日のうちに回収して……おそらく夕食を待っている間だと思うけれど、それを使ってシャワー室の窓から自室へ戻った。窓は女子トイレと対称の位置に付いているから、二宮くんの部屋で可能なら、あなたの部屋でも可能なはず」
「でも屋上にあったんでしょ? 二宮の部屋の上の」
「五条くんに起こされた後、他の人が四方くんの部屋へ行っている間に、あなたは二宮くんの部屋へ入って、窓から屋上へ放り上げたのよ」
スウェットを穿くから、と言って遅れて出てきたのはそのためか。監督は「ふっ」と息を吐いた。悪役が観念した演技というところ。
「アクション派の面目躍如と言いたいところやけど、ニノが言うたとおり、かなりヤバかったですわ。縄梯子があんなに登りにくいとは。屋根に投げ上げんのも、一発OKは奇跡みたいなもんで……まあそんなことより、先に志尊くんに謝らなあかんかったなあ。ほんまにすまん。アドリブにしてもあんなことしてしもうて」
「あ? いえ、はあ、まあ……」
いきなり謝られたので、僕こそアドリブが利かない。
「あれは君に対するやっかみもあったんや。俺はずっと前から葉色さんのファンやったのに、つい半年前に知り合った君が、彼女にやけに大事にされとるんを見て、悔しゅうなってしもうて。それでちょっといてこましたろと思うて、キュッと……柔道とかの絞め技で、〝落とす〟ていうの知っとるか。あれや。頸動脈の血を止めるんやけど、何度かやったことあるし、今回も慎重にやったつもりなんや」
「頚動脈洞反射ね。それも一色くんが共犯者と私が考えた根拠の一つ」
真倫さんの言葉に、監督は「あ、やっぱり?」と苦笑いする。
「正確には行為ではなく、あの後『あんなひどいことして』と言ったのが」
「それはどういう……」
「華斗くんに何があったのか、私以外誰も知らないはずだから。私は彼が気絶させられたと言っただけで、どうやってかは言っていない。なのにその言葉は……」
「なるほど、やはりアドリブではあきませんな。この隠し場所も昔見たミステリードラマからの借り物やし。ほんまはシャワー室の、予備の洗剤の箱の中に隠す予定やったんです。新品に見せかける工夫がしてあって。ただそのせいで開けるのに時間がかかるのが難点で」
「そうだったの。気付かなかったわ。そちらの方がよかったかもね」
「それは残念」
「四方くんに睡眠薬をたくさん飲ませたことについては?」
「あれは四方が勝手にやったんです。ほんまです」
監督は急に真剣な顔になり、眉根を寄せながら言った。
「1時過ぎに俺があいつの部屋に忍んで行った時には、既に飲み終わってて。『瀕死の演技がしたい』『医学部の知り合いに聞いたら、4錠ならギリ大丈夫』と言うてましたが、薬の効き目なんか個人差あるのに……どうしてもやりたいからって熱望するんで、仕方なく続行しましたけど、めっちゃ心配しました。あなたが救急車を呼んでくれてよかったです。後でもっぺん怒っときますわ。やりすぎやって」
「そうしてください。私からも言っておきます。私のためにそんなに真剣にならないでって」
その後、僕ら二人は朝食を摂らずに合宿所を辞去した。外は昨日より少し涼しく爽やかだったが、真倫さんの表情は冴えなかった。寝不足のせいだけではなさそうだ。
「解決できてよかったですね。まさか演劇部が真倫さんに挑戦してくるなんて」
僕がそう言っても返事せず、頷きもしてくれない。
ボックスの前まで来て、真倫さんが立ち止まり、ようやく表情を和ませたかに見えたのだが……
「ミステリ研実践部は、今日で解散するわ。もう活動しない。今までどうもありがとう。とても楽しかった」
そして僕をその場に残し、真倫さんは一人でボックスに入ってしまった!
僕はしばらく呆然としていたが、慌てて後を追い、ボックスに駆け込む。そしてミス研の部屋のドアを叩いた。
「真倫さん! どういうことですか、解散って。ねえ、真倫さん!」
しかしドアの鍵は閉まっているし、応答もない。中に人の気配もしないのだった。まるで密室から抜け出してしまったよう。
僕はその場に1時間も立ちつくしていたが、やむなく真倫さんと話すことを諦め、マンションの自分の部屋へ戻った。そしてアルバイトに行ったが、彼女のことが気になって仕事に全く集中できない。それどころか、足が震えるほど不安になってきた。
昼過ぎに、体調が悪いと言って仕事を切り上げさせてもらい、ボックスに行ったが、ミス研の部屋の鍵は掛かったままだった。
夜にもう一度見に行ったが、部屋には灯りも点いていなかった。
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