5-5 彼女のベッド
「気が付いたのね、よかった」
真倫さんは今までに見たことがないほど優しい表情。まるで女神のよう。いつものクールとは程遠い。僕は見とれてしまい、声も出せない。さっきのは、気の迷いだ。彼女が僕を襲ったはずがない。
「大丈夫、心配しないで。でもしばらく動かないでね。すぐに救急車が来るから」
逆光で顔が暗いのによく見えるのは、さっきまで目を閉じていたからか。暗順応。もしかしたら僕に明るい光を見せないよう、わざと遮ってくれているのか……
「ここは……どこですか。僕はどうして……」
「それは後で教えてあげる。それよりも先に答えて。頭は痛い?」
「いえ……痛くないですが……」
「身体はどう? 痛いところはある?」
「別に……どこも……」
「わかったわ。でも、起きてはダメよ。動いてもダメ。まだ待っていて」
「あの……救急車が来るって、どうして……」
「それも後で教えてあげる。外を見てくるけれど、君はここから動いてはダメよ。いい?」
「わかりました……」
僕が答えると、真倫さんはひときわ柔らかな笑みを見せ、立ち上がった。その時に僕は、彼女が白いドレスのような服を着ているのに気付いた。半袖で、尊い二の腕は半分しか見えず。スカートの長さは膝丈。振り返る瞬間に裾がふわりと翻り、中が――白い太腿が見えた。もしかしてあれがネグリジェというものだろうか。いや、そんなことを考えている場合ではない……
彼女がいなくなると、天井の灯りが直接目に入ってきて、眩しい。目をしかめる。
しかしここはいったいどこなのか。そこかしこに見えるタイルからして、トイレと思われるのだが、色が……男子トイレの水色じゃない。だったら女子トイレと考える他ないが、僕はどうしてその床に寝ているのだろうか。自分の意志で入ったわけでは、決して……ないと言い切れない? いや、ない。言い切っていいって!
救急車のサイレンが聞こえてきた。本当に来たんだ。大学構内に入れるんだ。なぜ真倫さんは呼んだのだろう。いや、僕が倒れているからだろうが、そんなにひどい状況なのか? 頭も身体も痛くないと、さっき答えた。そのとおりなのに。
サイレンの音が大きくなってきて、突然止まって、外の方で声や人の動く音がして……なぜこんなによく聞こえるんだ。ああ、そうか。真倫さんがトイレのドアを開けていったんだ。それにシャワー室のドアも窓も開いているから、ここまで抜けてくる。もしかして女子トイレの窓も開いているのかな。少しばかり風が吹いているようだから。
やがて足元の方から――廊下の方から、静かに急ぐ足音がして、白いヘルメットに水色のウィンドブレーカーを着た人たちが入ってきた。救急救命士か。
二人で僕の両脇にしゃがみ込み、「頭を持ち上げますよ」「ここ痛くないですか」「手足のしびれはないですか」などと言ってくる。見た目でわからない怪我があるかどうかのチェックだろう。「大丈夫です」と繰り返し答える。自分ではもう起きても問題なさそうな感じなのだが、後で脳内出血なんかが判明すると怖いし、何らかの兆候がないかを調べてくれていると思うので、おとなしく従う。
質問と答えの合間に、足元の方を見る。開け放たれたドアから覗き込むようにして、真倫さんが立っている。着ているのは白いドレス風だが、腰回りがくびれていないので、やはりネグリジェなのだろう。クールと言うよりは清楚。しかしいつの間にやらピンクのカーディガンを肩に掛けている。
救命士の一人が立って、真倫さんと小声で何やら話す。「ケイドウ」何とかという言葉は聞こえたが、他は聞き取れず。
「では搬送しなくても……」
真倫さんが言いかけた時、「葉色さん」と誰かの声がして、真倫さんと救命士が右の方を見た。男子トイレの前辺りから、誰かが話しかけたようだ。二人の姿が消える。話し声はすれども、何を言っているかはわからず。僕のそばにしゃがんで待機していた救命士も、立って外へ。ドアから外へ身を乗り出すようにして、会話を聞いている。
「わかりました。行きます」
それだけははっきり聞こえた。たぶん救命士の声。外を覗いていた救命士の姿も消える。静かに急ぐ足音が、だんだん小さくなっていく。
ほったらかされた。いつまでここに寝てたらええんや。と思ってたら、真倫さんがまた入ってきた。そして僕の顔の横にしゃがむ。まばゆい笑顔、そして白いすねに目が眩む。
「もう起きていいわ。手を貸すから、ゆっくり起きて」
真倫さんは僕の首と肩に手をかけ、ほとんど抱き上げるように!上体を起こしてくれた。彼女の甘い香りを堪能してしまった。
それから手を引いて立せてもらい、「足元はふらつかない? 大丈夫?」と心配される。また「大丈夫です」と答えながら、肩を貸してもらって、ゆっくり歩き出す。ほとんど彼女の肩を抱いているようなものじゃないか。何て細い。それに柔らくて……
廊下に出ると灯りが点いていて、玄関ホールの辺りに人がいるのが見えた。左手、外から赤い光がちらちらと射し込んでくるのは、救急車が回転灯を点けながら停まっているからだろう。
そちらの方へ歩いて行く。玄関ホールに着くと同時に、階段を救命士が下りてきた。担架を運びながら。そこに寝かされているのは、四方くんだろうか?
「少しだけ、待っていて。一人で立っていられるわね?」
真倫さんにまた心配されて、「はい」と答える。真倫さんは救命士と共に外へ出て行った。救急車を呼んだ責任者として、何か相談をするのだろう。同乗するかとか。
大広間のドアの前に立っていたのは、監督だった。昼と同じ、Tシャツにスウェットパンツ。不機嫌そうな、あるいは眠たそうな顔をしている。
「何があったん?」と訊いてみる。
「わからん」
声もどっち付かず。気が付くと、階段の方に4人。二宮くん、五条くん、三井さん、六車さん。二宮くんと五条くんはTシャツとスウェットだが、三井さんと六車さんはパジャマらしきものを着ている。表情は一様に、心配そう。足りないのは四方くんなので、やはり救急車で運ばれようとしているのは彼なのだろう。
「何があったん?」と二宮くんに訊いてみる。
「いや、それが……」
「君には、後で私から話すわ」
振り返ると、いつの間にか真倫さんが玄関に戻ってきていた。その後ろ、外で救急車のハッチがバタンと閉まり、夜中には少々耳障りなサイレンを鳴らしながら、走り去った。テールライトが見えなくなり、音がだんだん遠ざかる。
「皆さんには、これから説明するわ。会議室で待っていて」
真倫さんがクールな声になって言った。表情すらさっきと違っている。監督は小さくため息をつき、「わかりました」と大儀そうに言って歩き出し、玄関ホールの鍵ボックスを探る。階段のところにいた4人も会議室へ向かう。
僕はまた真倫さんに肩を貸してもらい(足は全く大丈夫なのだが)階段を登って、自分の部屋……かと思ったら、何と6号室へ連れて行かれそうになる。
「え、どうしてです?」
「君の部屋には戻らない方がいいの。現場を保存しないといけないから」
「現場って……何があったんです?」
「後で話すわ。君はもう少し休んでいて」
半ば強引に、6号室に連れ込まれた。そしてベッドに寝るよう言われる。二段ベッドの下段。でもそこは、さっきまで真倫さんが寝ていたはず! ブランケットが足元で丸まり、シーツに皺が残っている。本当にいいのだろうか?
躊躇する僕を、真倫さんは看護士のように優しくベッドに寝かせ、ブランケットを首元まで引っ張り上げてきた。あああ、真倫さんの香りが! 一晩中でも嗅いでいられそうと思った妄想が、現実になろうとしている。
「朝まで寝ていて。後は私が処理するわ」
そして真倫さんは部屋の灯りを消してしまう。しかし出て行かずに、ベッドの横に座った(見えないけれど、椅子がそこにあるようだ)。暗闇の中で僕を見守ろうとしているのか。
こんなの、興奮して絶対寝られへん、と僕は思ったが、覚悟を決めて目を閉じる。頭を空っぽにすればいいのか。それとも羊をいくつ数えれば眠りに落ちるのか。
などと考えていたが、真倫さんの香りのするベッドは不思議と心が安らかになり、頭の中で羊を百も数えないうちに、僕は眠りに落ちてしまったようだ。
次に目を開けると、朝になっていた。たぶん、朝になっている。周りの雰囲気がそんな感じ。カーテンが閉まっていて、その隙間から光が漏れて、部屋を薄明るくしているのだろう。
一晩のうちに3度も目が覚めるというのは経験がなくて、それぞれの後に何かあったが、何やったっけと考えているうちに、「起きたのね」と声がかかった。一気に頭が覚醒する。真倫さんの声!
慌てて声の方へ顔を向け、上体を起こす。真倫さんがベッドの横に椅子を置いて、僕の方を見ながら座っていた。それで思い出した。僕が眠りにつくのを見守ってくれていたのだった。
その時からずっとそこに座っているかのようだが、違っているところが二つあって、一つは笑顔の種類。女神のように優しげではなく、〝葉色真倫〟のクールな笑みだった。そしてネグリジェからブラウスとロングパンツに変わっている。ネグリジェのデザインがどんなのだったか思い出せないのが、なぜか惜しいと思ってしまった。
「おはよう。でも、まだみんな寝ていると思うわ」
「おはようございます……昨夜はあれからどうなったんですか」
「四方くんは心配ないわ。今日の夕方には退院できるらしいから」
「彼は……病院に送られたんですよね? 何があったんです?」
「後で説明するわ。その前に、教えて欲しいことがあるの」
「何です?」
説明はなぜかいつも後回しになってしまい、全く聞けていない。しかし僕は真倫さんに従うべきなのだ。なぜなら僕は、彼女にとって……
「君の昨夜の行動。何時に起きて、下へ何をしに行ったの?」
「ええと、確か2時過ぎに起きて、トイレです。終わってから、キッチンで水を飲もうとして……いや、ちょっと待ってください」
昨夜、2度目に起きた時のことは、思い出した。真倫さんのとてもいい香りの記憶と共に。いや、そんなことを反芻している場合ではなくて、最初は……ちょっと混乱していたが、だんだん思い出してきた。暗闇の中の手探りの記憶と共に。
「水は飲まなかったんです。キッチンへ入る前に、人の気配を感じて……灯りは点けませんでしたが、キッチンと、それからシャワー室を覗いて……」
「女子トイレは?」
「え? いや! 絶対入ってません。信じてください!」
焦って、大きな声で否定してしまった。他の人に聞こえたら、と思ったが、よく考えたら隣の部屋には誰もいないはずなのだ。
「もちろん信じるわ。でも君は女子トイレに倒れていたの」
「そうなんです。でも、シャワー室を覗いて、気のせいかと思って、キッチンで水を飲もうと……で、その後の記憶がないんです」
「そう、わかったわ。じゃあ、みんなが起きたら真相を話すから」
え、何があったかわかってるんですか? 僕が寝ている間に話し合いが持たれたはずだけど、それで全てが明らかに……
でも、じゃあどうして僕に質問をしたんだ。それが何かの鍵になっているのだろうか。しかし真倫さんはもう口を開かなかった。僕は……
あの、着替えは、どこですればいいですか?
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