5-4 合宿所の夜
午後からは2回目の読み合わせ。今度はだいぶ感情がこもっている。ただしト書きは相変わらず監督が読むので、まだ少し時間がかかる。
最後にもう一度確認をして、終わると会議室を出て大広間へ、監督が玄関横の鍵ボックスから鍵を取って開ける。2階の宿泊室も含め、全ての鍵がそこに入っているそうだ。
大広間は会議室四つ分よりももっと広い。それを可動式の壁で二つに仕切れるようになっているが、今回はそのまま使う。ただし、端っこに寄って舞台の大きさのスペースだけ。声をどれくらい張ればいいかのチェックを兼ねるらしい。上演場所はここではないが、もっと広いところを想定するので、会議室ではダメだそうだ。
明日は音響や照明の人が来て、音や光のタイミングを考えながらやる。台本には書き込みがどんどん増えていくらしい。今日のところは音や光のきっかけは、監督が口答で指示。5人以外の台詞もあるのでなかなか大変だ。真倫さんなら手伝えそうなのに、黙って見ているだけ。
しかし、目の前の状況はだいぶ〝演技〟らしくなった。みんなほとんど台詞を憶えている。ときどき、確認のためかちらりと見るくらい。読み合わせの前から、つまり昨日のうちに概ね頭に入っているのだろう。
特に四方くんは完全に憶えているようで、台本はまさに〝持っているだけ〟。彼の〝探究者〟の台詞が明らかに一番多いのに、たいしたものだ。所作もほぼ完成している。ただし、そう思うのは僕がド素人だからで、本人や監督はまだまだこれから何十回もやって仕上げるぜという感じなのだろう。
その他の人の演技では、五条くんの〝奇人〟ぶりがいかにもいい感じ。しかし幕間に「次はちょっと違う感じで」などと言っているから、試行錯誤中か。六車さんは台詞の少ない〝無口〟さんだが、表情と所作だけで腹の内が伝わってきて、怪しさも十分、「実は犯人なのでは」と思わせるのがたいしたもの。
もちろん他の二人、二宮くんの〝いかさま師〟も三井さんの〝女王〟も、容姿からしてはまり役なので、本番はどんなすごいことになるのかと見て確かめたくなった。
ってこれ、いつどこで上演するんだろう? まさか来月の学園祭でやるのか?
6時頃に終わるのかと思ったら全然終わらず、8時過ぎにようやく終わった。途中、真倫さんは監督や役者から意見を求められ、答えていたが、僕は何もせず。休憩中にお茶の用意を手伝ったくらい。言葉もほとんど発しなかった。家でテレビを見続けている時でももう少し独り言を呟くだろう。
しかし退屈はしなかった。普通ならまず見ることのできない〝メイキング〟を見学して、だんだんとできあがっていくのがわかるからだろう。もちろん、まだ荒立ちの段階で、脇役はいないし音楽も照明も大道具も小道具も衣装もない。まだ序の口のはず。もっとも、舞台に立っているのは三役級だけど。
終わってから夕食の準備。僕と真倫さんは帰るのかと思ったら、監督が「ぜひ食べて」と誘ってくる。カレーライスだが、昼のうちに三井さんが野菜を切った上に炊飯器のセットまでしていたらしく、3、40分もあればできるとのこと。
「ただし志尊くんは皿がないので、小さい茶碗でわんこそばみたいに何杯も……」
「そんなアホな!」
ボケにはちゃんとつっこまなければならない。「カレーは飲み物やからマグカップでええわってボケ返すんや!」などと監督はさらにボケる。本当にアクション映画の監督だったのだろうか。全編ギャグだらけだったのではないか。
「それと、今夜はついでに泊まっていきよ」
「え、なんで? 家はすぐ近くなんやけど」
「でも葉色さんは泊まっていきはるで。前からそういうことになってる」
それならそうと、真倫さんも誘う時から言ってくれればいいものを。
「でもお泊まりセットもパジャマもないし」
「用意しているわ」
真倫さんの声に、みんなが一斉にそっちを向く。一様に驚いているが、一番驚いたのはもちろん僕。彼女のトートバッグから歯ブラシとTシャツとスウェットパンツ、それに新品のブリーフ! Tシャツは貸衣装だろう。スウェットは演劇部員と同じ。そして歯ブラシとブリーフは「あげる」だった。また妙なプレゼントをもらってしまった。
夕食の準備の間に、宿泊室を見せてもらう。2階に13室あって、全て二人部屋(二段ベッド)。演劇部員と真倫さんは部屋が決まっているが、僕のがまだ。しかし案内してくれた監督と五条くんに、真倫さんは「私と同じ部屋でいいわ」と平然とのたまう。二人の表情が凍り付く。いや、もちろん僕も!
「いやしかし……お二人はそういう関係なんですか?」
「急に用意してもらうのだから、使う部屋は少ない方がいいと思って」
「俺らかて今は一人一室ですし、明日からは人も増えて全部屋使うんで……」
だから気にせず志尊くんにも一人部屋を、と監督が勧める。真倫さんは「そういうことなら」と承諾。いやいや、焦ったのは僕の方ですよ。しかし「羨ましい奴」という感じで監督と五条くんから睨まれてしまった。
結局、部屋割りは以下のとおり。左半分に女子、右半分に男子を固めてあるのは、意図だそうだ。
合宿所2階平面図
┌───┬───┬───┬───┬───┬───┬───┐
│ ② │ ④ │ ⑥ │ 階│ ⑧ │ ⑩ │ ⑫ │
│ 六 │ │ 真 │ │段│ 五 │ 僕 │ 二 │
│ 車 │ │ 倫 │ │↑│ 条 │ │ 宮 │
├──=┴──=┴──=┴─┘ └=──┴=──┴=──┤
│ │
├──=┬──=┬──=┬─=─┬=──┬=──┬=──┤
│ ① │ ③ │ ⑤ │ ⑦ │ ⑨ │ ⑪ │ ⑬ │
│ 三 │ │ │ │ 四 │ │ 一 │
│ 井 │ │ │ │ 方 │ │ 色 │
└───┴───┴───┴───┴───┴───┴───┘
=…ドア
丸数字は部屋番号。名前のないところは空き部屋。
五条くんにシーツとブランケットを持ってきてもらい、ベッドメイキングをしているうちに、カレーのいい匂いがしてきた。9時前に完成。大盛具だくさんカレー。デザートにフルーツみつ豆も付いている。缶入りのアレだろう。久しぶりだ。それもまた合宿らしい感じ。
昼同様に会議室で食べるが、やはり真倫さんと席が離された。二宮くんの代わりに三井さんが僕の隣に来て、「ビール飲もう?」と誘ってくる。500mlの大きい缶を持って。冷蔵庫にそんな物まで入れていたとは。
「いいんですか、飲んでも」
「未成年の五条くんとアルコールアレルギーの四方くんは飲めないけど、他はみんな飲んでるわよ、ほら」
目の前の六車さんも缶を持ってにっこり(ただし350ml)。彼女は先月20歳になったそうだ。向こうでは監督と二宮くんも飲んでいる(500ml)。しかし真倫さんが飲んでないのに、僕だけ飲むのは……
「あー、開けちゃった。泡がこぼれちゃう。はい、飲んで飲んで」
三井さんが口元に無理矢理押し付けてくる。服にこぼされたら、借り物とはいえ申し訳ないので飲むことにする。飲めない口ではない。
「ほーら、ぐっとぐっと! すごいすごい、飲めるやん。今日の粗立ち見てて、楽しかった?」
一気を煽ってくるのかと思ったら、いきなり話変わってるし。
「初めて見たけど、思ってたより全然面白かったわ」
「そうなん、よかった。私も粗立ちから部外者の見学がいるなんて、久しぶりで緊張したわ。新入生の入部希望者には見せたことあるけど、完全部外者は初めて」
「真倫さんは部外者やないの?」
「なんで彼女のことそんなに気にするん。実は下僕?」
顔は正統派美人やのに、言い方はきついな。やっぱり関西人やわ。
「いや、単なる助手」
「ほんなら今は彼女のこと忘れて、私のこと考えてよ。見られててドキドキしたから、これって実は恋かも」
「そういうのも舞台の台詞みたいにさらっと言えるんやな」
「台詞とちゃうねん。本気」
「志尊さん、本気にしないでくださいよ。彼女、タイプの男の人にはみんなに同じこと言うんです」
六車さんが変なフォローをする。僕は三井さんの好みのタイプなんか。ビール吹きそうやわ。
「またもう、
「そんなこと言って三井さん、七尾さんのことはどうするんですか。彼、本気になってますよ? 今夜も押しかけてくるかも」
「彼はあかんわ。演技は中途半端、恋愛も中途半端、ついでに大学の勉強も中途半端。本気が全く感じられへん。だから私は新しい刺激が欲しいねん」
「そんなふうに彼氏を次々に取り替えてたら、三井さんこそ中途半端になりますよ」
「六っちゃんこそ、優しい女の子のふりして志尊くんに気に入られようとしてるんちゃうの。志尊くん、彼女みたいなタイプこそ気を付けなあかんよ。見た目とのギャップで男の心を掴む天才やから」
「三井さんこそ綺麗なのに馴れ馴れしくしてギャップを作ってるじゃないですか。自分のこと棚に上げて、私のことを悪く言わないで欲しいです」
「おう、何か
監督がまた割り込んできた。ビールをがんがん飲んでるのか、顔が真っ赤。しかし僕はさっきから五条くんが無口になってるのを気にしている。我関せずとばかり黙々とフルーツみつ豆を食べて。何か怪しい。まさか?
「あの、お二人とも、もしかしてさっきからずっと小芝居を?」
「おう、正解正解、よう見破ったやんか」
知らん顔をしているかに見えた二宮くんまで割り込んでくる。五条くんが耐えきれなくなったか爆笑。やっぱりそうだったのか。
「もう、五条くんが合わせてくれないからよ。アドリブはまだまだね」
三井さんが急に拗ねた感じになって言う。しかも標準語に戻って! 五条君はまだ笑いながら「すいません」。そして六車さんが笑顔でフォロー。
「志尊さん、実はこれ、去年の劇のバリエーションです。本来なら一色さんじゃなくて五条くんが仲裁するように見せかけて、話を混乱させていくんですけどね。でもこんなすぐに見破るなんて、本当に素質ありますよ」
「だって僕がそんなにもてるわけないから」
「逆説的やなあ。さすが探偵の助手。推理力あるわ」
二宮くんがまたおいしいところを持っていってしまった。ところで僕はさっきからなぜか眠気を感じ始めたんだけど、どうしたんだろうか。ビール一缶で酔うはずはないんだけど。
真っ暗な中で目が覚めた。何も見えないのに目が覚めていると感じるのはおかしいじゃないかと一瞬考えてしまったが、それこそ寝ぼけてるだけだろう。暗闇だって、目を開けているのは感覚でわかる。
それはそうと、僕はいったいどうしたんだ? 何があったか思い返す。演劇部の合宿に来たんだった。夜まで練習を見て、夕食をゴチになって、泊まっていけと言われて……
妙に眠いのでシャワーを最初に使わせてもらって、宿泊室でベッドに腰掛けたところまでは憶えているのだが、その先はもうわからない。一瞬で眠りに落ちたのか。
何時かと思ったが、暗すぎてスマートフォンを探すのも一苦労。2時過ぎ。変な時間に目が覚めた。飲み会で酔っ払って帰ったら、こうして夜中に目が覚めることはまれにあるが、昨夜はビール1缶しか飲んでないはずで、どうしてこうなったのか。
それはともかく、喉が渇いているのにトイレに行きたいという状況になっている。アルコールの利尿作用のなせる技ということは知っている。トイレに行って、その後キッチンで水でも飲むことにしよう。
部屋を出る。廊下はほぼ真っ暗。部屋と階段の位置関係はかろうじて憶えている。
階段の方から薄緑色の光が射している。非常口の表示か。それを頼りに歩く。階段まで来たが、その先にも部屋があって、6号室には真倫さんがいるはず。ちょっとドキドキするが、もちろんノックしに行ったりしない。
1階に下りる。トイレへ向かう廊下はやはり真っ暗。しかし灯りのスイッチがどこかわからない。壁に手を付いて歩けば何とかなるだろう。会議室2の前を過ぎ、トイレのドアを探り当てる。入って壁のスイッチを発見。灯りを点ける。眩しすぎて思わず目を細める。
用を足しながら、昨夜のことをもう一度思い返してみたが、真倫さんが用意してくれていたブリーフが、僕がいつも使っているのとサイズがぴったり同じなのに驚いた、ということくらいしか思い出せない。
ああ、もう一つ。シャワー室は市民プールの更衣室にあるような、隣との間に壁があってカーテンも付いてる準個室が四つで、女子が使う時はドアに鍵を掛けるけど覗きに来ないでよと釘を刺されたんだった(誰が言ったんだっけ?)。一番奥の個室だけ窓が付いてるんだけど、おかしいだろ、それって。どうして覗きを誘発するような造りなんだよ。
まあ僕は真倫さんのシャワー姿を覗くつもりはなかったし、彼女が入る前に寝てしまったはずで、トラブルがあったかどうかは知る由もない。
手を洗い、灯りを消してトイレを出て、キッチンで水を、と思っていたら、なぜか人の気配を感じた。
僕以外に誰かいる?
キッチンか、シャワー室か、女子トイレか。
しかしどこにも灯りは点いてない。キッチンの入り口は常時開けっぱなし、シャワー室は使用後の換気のためかドアを開放中、女子トイレのドアは閉まっている。どこに誰が潜んでいるというのか。
キッチンを覗く。誰もいない。シャワー室を覗く。誰もいない。女子トイレ……はさすがに覗けない。誰かが使用中に気分が悪くなって倒れたとしても、灯りが勝手に消えるはずがない。
それでも誰かいるように感じるが、寝ぼけておかしな妄想に囚われているだけなのか。僕が寝ている間に隣の部屋で怪談でもやっていて(合宿でやりそうなことだ)、僕はそれを無意識のうちに聞いていて……うーん、わからん。
気のせいにしておこうと思いつつ、キッチンで水を飲もうとしたら、いきなり後ろから誰かに羽交い締めにされ、口を塞がれた。温かい手の感触。幽霊じゃない、間違いなく人間だ!
しかし声も上げられず、抵抗もできないままに、僕は――
――もう一度目が覚めると、今度は灯りが点いた部屋の中にいたが、光源は僕に覆い被さった誰かの姿で、ほとんど遮られていた。誰……って、真倫さんだ。それはなぜかはっきりわかる。ボブカットで、整った顔立ち。今夜はなぜかいつもより美しく感じる。
どうなってるんですか、いったい。僕は……僕は、真倫さんに襲われたんですか?
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