3-6 美少女棋士の部屋

 翌日は土曜日にもかかわらず朝9時という早い時間から(そうでもないか)南瀬銀沙さんの住むマンションを訪れた。大学からはけっこう離れた、烏丸からすま北大路きたおおじ。事情により名は秘すが、9階建てのわりあい高い建物だ。

 京都市内は景観を保全するための建物の高さ制限が厳しく、叡山大学のある左京区ではほぼ全域が15メートルまでで、高くても5階建て。北区のこの辺りでも31メートルだ。10階建てがいくつかある中、9階建てというのがちょっと解せないが、それはさておき。

 真倫さんと共にマンションに入ろうとするとスーツの男性に呼び止められた。もちろん私服の刑事であるのは知っている。住人以外が入る時にはチェックするのだ。

 学生証を見せて(さすがにこの時は二人とも本名を名乗った)訪問先と来意を言うと、刑事はわざわざ玄関ホールに入ってインターホンで南瀬さんの部屋番号〝909〟を押し、「お客さんです」と告げた。

「はい、聞いてます。どうぞ」

 自動ドアが開く。刑事は後ろで他の人の〝共連れ〟を阻止するかのように立っていた。エレベーターに乗り、9階へ。909号室は東南角の一番よさそうな部屋だった。

 呼び鈴を押す。女性の一人住まいを訪れるのは僕にとって初めてのことだが、横に真倫さんがいるのは心強いのかどうか。

 すぐにドアが開き、笑顔の女性が出てきて「こんにちは、ようこそ」と挨拶。うむ、4月にチェックしたとおりの美少女ぶり。小顔で目はぱっちり、鼻筋も通っている。さらさらの長い髪をちょっと茶色に染めて、女子大生アイドルのよう。

 しかし女流プロデビュー時はこうではなかった。髪はおかっぱで眼鏡をかけていて、真面目なクラス委員長という印象で、でも素地はよさそうだから今後に期待という感じだった。それが今やこれだもの。大学生になって化粧が上手になったというだけで、変われば変わるものだ。でも僕らを迎えるためにわざわざ化粧したの? ファンでも将棋関係者でもないのに。

 そんな僕の観察をよそに真倫さんは挨拶をして名乗る(もちろん偽名)。背筋を伸ばして手をお腹の前で組む、あの格好いい立ち方。銀沙さんも見とれている。

 中に入るとめっちゃ広い。10畳くらいありそう。キッチンも入り口横じゃなくて別にあるし。その他、中の様子をいろいろ説明してたらきりがないが、本棚に将棋の本がぎっしり詰まっていて、その前に立派な脚付き盤、上に駒袋と駒台が置いてあるところがさすがに棋士の部屋という感じ。

 さて、話を聞くためにちゃぶ台のように小さなテーブルを囲んで座る。南瀬さんはお茶まで用意してくれていた。

 そして「名字じゃなく名前で呼んでくれませんか」と言い出す。

「友達だけじゃなく、将棋関係の人もみんな名前で呼ぶので。関東では〝銀ちゃん〟でしたけど、こっちに来てからは〝お銀〟とも呼ばれてて」

 かげろうお銀じゃあるまいし。でも本人が呼ばれたがってるんだからそれでいいか。

「とにかくこの度は大変なことになっているのに、お話を聞くために押しかけて大変恐縮です」

「いえいえ、私の方こそ将棋部の人たちや警察に迷惑をかけていると思っていて。それに探偵さんまで」

「早速だけれど、送られてきた手紙を見ることはできる?」

「全部警察に渡すことにしたので、手元には写真しか残ってないですけど」

 スマートフォンで見せてくれた。罫入りの便箋に、罫を全く無視して将棋盤の図面、その下に「あと34手でシケイ」。つまり最初の一通。便箋の写真も見せてもらう。白封筒や茶封筒ではなく、水色の横長の洋封筒だった。宛名も横書き。レターセットのよう。なるほど、最初はファンレターと思うのも無理はない。

「送り主に心当たりはないのね」

「ええ、警察にはそう言いました。ファンはだいたいこういうポップな封筒で手紙をくれるんですよ。ただ自宅に来るのは少なくて、将棋連盟気付が多いですけど」

「手書きが多い?」

「そういえばそうですね。気持ちを込めるにはやはり手書きなんでしょうね」

「返事を出すことは?」

「以前は可能な限り返してましたけど、タイトルを獲ってからは激増したので滞りがちです」

「ところで、実は私たちは手紙の件ではなく、別の件で来たの」

「あら、そうなんですか?」

「将棋部に高価な〝名人駒〟があるのを知ってるわよね。あれが紛失したので、調べて欲しいと玉田部長から依頼されたの」

 銀沙さんが驚いているが、僕も驚く。言わないでと言われたはずなのに。しかし真倫さんには何か考えがあるんだろうから、任せておく。

「知りませんでした。そうだったんですか」

「駒を見たことはあるわよね?」

「はい、入部した時に。ただ他の新入生よりも先に、私だけ見せてもらいましたけど」

 他の人は4月半ばの新歓コンパの日だったが、彼女だけは入学式の日、4月の頭だと。その時には現役部員だけでなく、OBもたくさん立ち会ったそうだ。大きく引き伸ばした写真(本棚に置いてあった)も見せてもらった。事実上の〝入部歓迎会〟だろう。

「今度の部内タイトル戦はその駒で指すことになっていたらしいけれど」

「ええ、そう聞いてました。けっこう大袈裟ですよね、専用駒なんて」

「プロではしないの?」

「いえ、タイトル戦の時はやっぱり特別な駒を使いますよ。連盟から持っていく場合と、スポンサーが用意してくれる場合がありますけど」

 ここで僕から補足……タイトル戦は地方で開催することがあるが、そのとき地元の将棋ファンが持っている高価な駒を貸してくれることがある。それが〝スポンサーが用意する駒〟だと思われる。真倫さんはいつもどおりクールに「ありがとう」と言ったが、銀沙さんは「志尊さんってどういう人なんですか?」と訊いてきた。ダメだ、その名前はまだ呼ばれ慣れない。

「実はクイズ研もしてて」

「クイズ研ですか! 面白そうですね。今度見に行っていいです?」

「ああ、どうぞ……って言っても、夏休みは金曜日しか活動してないけど」

 場所も不定と言ったのだが、気が向いた時に行くからメールアドレスを教えてと言われ、僕のと交換してしまった。

「それはそうと、名人駒がもし見つからなかったら、私のを使うことにしてもいいんですけど」

 これには真倫さんも少し驚いたようだ。

「どういうこと?」

「タイトル獲得兼大学進学の記念にって、ファンからプレゼントされた駒があるんです。入学式の後の……名人戦の解説会の時だったかな。中古ですけど、高価な物だそうで。タイトル戦にファンが提供するみたいに、私に使って欲しいって」

「対局で?」

「いえ、家で研究する時に」

「それを部に提供してしまったら、あなたはどうするの?」

「私は自分で買ったのがありますから」

 銀沙さんは盤のところへ行って駒袋を取り、さらに本棚から駒袋を二つ持ってきた。三つをちゃぶ台の上に置く。銀色、赤、そして緑。

「銀色のが私の駒で、赤がもらった高級な駒です。まあ、人からもらったのを別の人にあげるのは、くれた人に申し訳ないかもしれませんけど、使わずにしまい込んでおくよりはいいですよね」

 銀沙さんはそう言って含み笑いした。桂木くんの言ってたとおり、ファンからたくさんプレゼントがあるらしい。

「緑の駒袋は?」

「これは部から貸してもらったんです。休んでいる間に使っていいって。リモート対局の時に盤に並べて欲しいってことですかね。全然使ってませんけど。でも私のを部に提供するのは、そのお礼も兼ねてと思って」

「ファンから他に何かもらったものは?」

「いろんな物をもらいましたけど、一番高いのは、この部屋ですね」

 そして今度はっきり声に出して笑った。僕は唖然とするばかりだ。マンションの部屋をもらうって、将棋のタニマチっちゅう次元やないぞ。愛人かよ。あれ、真倫さんはそれほど驚いてないな。

「すいません、もらったっていうのは嘘です。正確には家賃を大負けしてもらってるだけなんです。京都に住むために連盟を通じてマンションを探してもらったら、ここを紹介されたんですけど、オーナーが将棋ファンらしくて」

「なるほど、それで9階建てなのね」

「そうなんですよ! 気付いてたんですか。探偵ってやっぱりすごいですね」

 何やと! 将棋盤に合わせて9階建てで、各階9部屋なんか。アホやな、そのオーナーは。

 それから銀沙さんは親切にも、自分で買ったという駒を見せてくれた。値段を真倫さんが訊いたら言いにくそうにしていたが、「15万円くらい」と曖昧に答えた。

「本黄楊の彫り埋め駒です。本当は盛り上げ駒が欲しかったんですけど、高くて手が出せませんでした。書体は菱湖りょうこです」

「水無瀬じゃないんですか」と僕はつい訊いてしまった。

「子供の頃から菱湖の方が好きなんです。その次が錦旗きんきで、水無瀬は3番目ですかね。でもファンには言ったことないです」

 銀沙さんは今度はにんまりと笑った。表情が豊かで、ファンが多いのも理解できる。


 帰り際に真倫さんは棋具を売っている店を銀沙さんに尋ねた。

「私は将棋会館でしか買ったことがないんですけど、棋具店から案内をいくつももらってて、そのうち行かないといけないって思ってたんですが」

 銀沙さんはその中から京都市内の店を紹介してくれた。場所は伏見区。市内中心部にはなく、そこが一番近いそうだ。

 それを聞いてどうするのかと思っていたら、真倫さんは「今から行くわよ」。

「僕も付いていくんですよね」

「当然よ。君と一緒じゃなければ意味がないわ」

 それもクーデレですか。そのうち人前で言うようになるかもしれないなあ。

 地下鉄とJR奈良線を乗り継いで稲荷駅へ。伏見稲荷の最寄り駅。

 教えられた棋具店まで徒歩10分。入ると壁際のガラス戸棚には脚付き盤がずらりと並び、中央のガラスケースには駒やその他の棋具。もちろん将棋だけではなく囲碁もある。

 真倫さんはそれらには目もくれず、奥にいた中年の店主のところへ行って、「1万円の駒と20万円の駒を見せてもらえますか? できるだけ見た目が似ているものがいいんです」。

「ほう、面白いこと言わはりますなあ」

 店主は「変なのが来た」と思ってるに違いないが、おくびにも出さず、ガラスケースのところへ行って、「書体が同じ方がええやろ」などと言いながら、桐箱を二つ取り出した。一つは1万円弱でもう一つは20万円超。ケースの上に並べてもらい、真倫さんはじっとそれを見つめる。そして「どうしてこんなに値段が違うんです?」と店主に質問。

「そらあんた、木質も違うし、駒師も違うし、仕上げも違うし」

「私には違いがわかりません」

「まあ指したらわかりますわ」

 手触りや、指した時の音が違う、という意味か。指先の感覚が鋭ければ重さの違いも……それはさすがにないかなあ。

「手入れというのはどうするんですか?」

「基本的には布で乾拭からぶきや。椿油を付けると思ってる人がよういてるけど、あれは最初のうちだけにする方がええ。付けすぎたらべたつくし、匂いがきつうなって。最近はオリーブ油がええと言う人もおるけど、匂いはええけどやっぱり付けすぎはようない。それから……」

 店主の講釈が始まってしまった。暇なところに美人が来たからだろうか。しかし真倫さんは熱心に聞いている(ように見える)ので僕も付き合わなければならない。

 ようやく長話が終わると真倫さんは「ありがとうございました」と店主に頭を下げた。

「話だけさして、何も買わへんのかいな」

 京都人特有の嫌味っぽく聞こえるが、店主は笑顔なので、単なる冗談だと思う。しかし2回目は本物の嫌味になるはず。

「女流棋士の南瀬銀沙さんに頼まれて、お話を聞きに来たんです。そのうち彼女が買いに来ますから」

「ああ、そうどすんか! 銀沙ちゃんにはいっぺん来て欲しいと思ってましたんや。来てくれはったらサインもろうて壁へ飾らな」

 店主の機嫌がよくなった。真倫さんは人の心を操るのもうまい。

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