3-2 女流プロ棋士
「大学の将棋部はアマチュアの集まりじゃないの?」
「いや、女流プロが大学の将棋部に所属するのはまれにあることなんですが……」
「すいません、僕が解説していいですか」
真倫さんの疑問はもっともなのだが、それに対して玉田部長が困惑するのもわかる。将棋部員の多くは子供の頃から将棋をやっていて、プロ将棋界の事情にも通暁している。プロ棋士や女流プロ制度がどのようなものであるかをよく知っているので、知らない人との知識ギャップをうっかりしてしまうのだ。クイズ研にとっての早押し機と同じである。
そして僕はそのギャップを埋めるためにここにいるのだから、役割を果たさなければならない。真倫さんと部長が二人して僕を見るが、真倫さんがクールな表情で「お願い」。その視線に絶大な信頼を感じてしまう。
「まず将棋のプロ制度についてですが」
部長が「そこからか」という呆れ顔で僕を見るのもわかるが、そういうものなのである。
プロ棋士の集まりである日本将棋連盟が、次代のプロ棋士を養成するための〝奨励会〟(正式名称:新進棋士奨励会)を運営している。有望な子供たちが試験を受け、合格すると会員になって、〝例会〟で会員どうしで対局する。勝敗の成績によって級位・段位が上がり、四段になると〝プロ棋士〟。
また奨励会の下部組織に〝研修会〟がある。奨励会よりも入会資格が緩いが、一定の成績を挙げることで自動的に奨励会に昇格することもできる。
ただし女子に限り、研修会で一定の成績を満たすと〝女流プロ棋士〟(女流棋士と略すことも多い)になる資格を得る。中学生、高校生くらいでもなれる可能性があるが、もちろん実力はプロ棋士に遠く及ばない。
そういう若手女流プロ棋士が大学生になると、〝将棋の勉強のために〟将棋部に入部することもある。そこにアマチュア強豪がいたりするので。
ものすごくざっくりした説明だが、真倫さんにはこれで十分ではないかと思う。
「つまり女流プロとは言っても、強いアマチュアと同じくらいのレベルなのね。だからアマチュアに交じって指しても差し支えないと」
「そういうことです。プロ棋士は四段からですけど、女流プロは2級からですし。もちろんもっと強くなれば研修会から奨励会に上がって、プロ棋士になることもできますが、今のところ事例はないです。ただし、強い女流プロなら、松竹梅の〝梅〟のプロ棋士に勝つこともあります」
ようやく
「それで、南瀬さんが入学して、将棋部に入ってくれたんです。高校1年で女流プロになって、今の実力的には部内のトップグループの一人です。女流プロとしても人気と実力があるんですが、それが裏目に出たというか……」
「人気と実力と言うからには、タイトル戦のことも説明しておいた方が」
これは僕からの口添え。部長は「ああ、そうやな」。
「部内のタイトル戦やなくて、女流プロのタイトル戦です。桜花戦というんですが、彼女は予選を勝ち抜いて、今年3月からの三番勝負に勝って、タイトルを獲ったんです。4月頃に大きな話題になったんで、学生ならみんな知ってるかと思ってました」
いや、それほど大きくないと思うよ。僕の周りでは少なくともクイズ研以外で彼女の話題が出たことはないから。もちろん僕は挑戦者になった時点で(クイズにするために)チェックしてたし、4月の例会では他の人が早速出題した。ただ、その後は特に話題がないので、忘れかけていた。他のタイトル戦で活躍しなかったから。
「……まあそれはさておき、今月の頭から彼女宛に脅迫状みたいな手紙が来るようになりまして」
「脅迫状みたいな?」
真倫さんが「みたいな」を強調して尋ねる。
「ええ、はっきりとそうかはわからへんのですけど、内容的にはそういうもので。えーと詰将棋はどれくらいご存じです?」
「感覚的にはわかるわ。チェスにもプロブレムがあるから」
「ああ、なるほど。それで、昔の有名な詰将棋に『死刑の宣告』というのがありまして」
それは僕も名前と作者だけ知っている(もちろんクイズのため……)。しかし部長が簡単に説明してくれた。幕末に赤池嘉吉という人が作った35手詰めで、最後に4枚の桂馬〝
「7月1日に、彼女のマンションと、ここのポストに手紙が届きました。便箋には図面が印刷してあって、それが『死刑の宣告』の1手目を指したものなんです。文章も印刷で、棋譜の1手目と『あと34手でシケイ』と書いてあったそうです」
ポストというのはクラブボックスを使う各クラブのために設置された郵便受けのこと。クラブポストとも呼ばれる。集合住宅のと同じ集中形式。ただし本物の郵便物が配達されることはなく、教務部学生課からの通知や、他の部からの連絡が入れられるのみ。
「書いてあったそうということは、他の人は見ていない?」
「ええ、ポストに入ってたのも、宛名が『将棋部 南瀬銀沙様』となってたんで。4月から何通もあったんですよ、ファンレターが。出すのはうちの学生だけやないと思いますけどね。で、その時もただのファンレターやと思ったんですが」
2日後、つまり7月3日にも同じようなのが届いた。図面は3手目まで進み、棋譜も3手まで、そして「あと32手でシケイ」。
以降、律儀に2日おきに――マンションへの郵便は配達日指定になっていた――内容が更新されたものが届いた。手数を進めることで、カウントダウンしているわけだ。1週間経って、つまり7手進んだ時点で、彼女は部長に相談した。部長は他の主要な部員(主に上回生)と相談し、警察に届けることを勧めた。
「ずっと以前に、人気の若手プロ棋士に脅迫状が届いて、警察が護衛に付いたことがあるんですよ。当時その棋士は高校生やったかな。学校の行き帰りだけやなく、対局の時には将棋会館まで付き添ったんです。結局、実害はなかったみたいですけど、彼女の場合はストーカーを心配した方がいいかと思って」
「今日の時点では21手まで進んだということね。でもそれなら、最後の35日目だけが心配なのでは?」
8月4日だ。ちょうどフィードバックの最終日。
「いや、だんだんと脅しを強くしようとするかもしれへんやないですか。少なくとも彼女と警察はそう考えたんですよ。それで、先週から彼女は部活動を休んでるんです。正確にはネットで指すだけにしてますが」
おや、それでどうして部内がピリピリするのかな。女流プロが来ないのなら、逆に活気がなくなるとか、緊張感がなくなるような気がするが。
「講義には出席している?」
「ええ、警官が行き帰りに付き添って。それと、大阪の関西将棋会館で対局がある時にも付いて行くみたいですね」
「日本将棋連盟という組織には何か相談しているのかしら」
「したと彼女は言ってましたが、具体的に何か対策が取られているかは知りません」
「わかったわ。確かにこの事例は私ではなく警察が捜査した方がいいわね。けれど、部員に聞き取りをする時に、盗難の件を伏せておかないといけないのなら、この件について話を聞くということにしてはどうかしら?」
「うーん、確かに他に問題がないのに探偵が話を聞くというのは不自然やと俺も思ってて、どうしようかと考えてたんですが、そうするしかないですか……」
部長は首を捻りつつも承諾した。しかし部員より先に棋具係に話を聞かないといけない。ようやく二人の出番になったというわけ。
真倫さんはまず女子の方に声をかけた。佐藤香子さん。長い黒髪で、前髪を眉の下で真っ直ぐに切り揃え、目が細い。いかにも真面目そうという印象。読書女子系。
「棋具係になった経緯を教えてくれる?」
そこからか、という気がする。
「2回生がすることになっていて、二人のうち一人はなるべく女子という決まりがあるんですけど、2回生の女子は私しかいないので」
何とも消極的な理由。次に発見の経緯。いきなり飛ぶなあ。
「昼食後に歩夢くんと待ち合わせて来たんです。二人で鍵を取りに行って、部室に行ったら他の部員が二人待ってました。指しにきたんです。歩夢くんが鍵を開けて、4人で入って、私と歩夢くんはすぐロッカーの前に行きました。歩夢くんがロッカーのダイヤル錠を開けて、私が金庫のダイヤル錠を開けて、中を見たら駒がなくて……」
「ちょっとだけいい?」
つい口を挟んでしまった。香子さんが怯んだような表情になる。そんなに心配しなくていい。不審なものを感じたんじゃなくて、たぶん真倫さんが気付かないことがあると思って、指摘したいだけなんだよ。
「駒はもちろん駒箱に入ってるんやんな?」
「はい、そうです」
香子さんはきょとんとした表情になった。何を当たり前のことを、と思っているはずだが、そこが盲点。
僕から真倫さんに説明する。将棋の駒は、まず駒袋に入れ、それを駒箱に入れて保管する。駒袋は布製の小さな巾着、つまり紐で口を閉じる袋。駒箱は縦横10センチくらい、高さ7センチくらいで、被せ蓋、つまり枡形の器にそれより少し大きな枡形の蓋を被せるもの。
「……で、寄贈された時は桐箱に入ってたん?」
これは部長への質問。「よう知らんけど、たぶんそう」という答え。桐箱は平たい箱で、駒の表面が見えるように一面に並べる。高級品を店で売っている時は概ね桐箱入り。その箱は、部室のどこにもないらしい。
「わかったわ。つまり駒が盗まれたというのは、駒箱ごとという意味なのね。少しかさばって、上着のポケットに入れていると目立つ、という感じかしら」
「そうです」
「チェスの高級な駒はジュエリーボックスのような箱に入っているから、大きくてポケットには入れられないわ。でも君が言ったような大きさの箱なら、人目があってもうまくごまかせば盗むチャンスはありそうね」
「そう思います」
将棋部の3人にも聞いてみる。「そうでしょうね」と同意した。
「ちなみに駒箱や駒袋も高い物?」
「いや、そうでもないです。もちろん、高級駒を安物の箱や袋に入れるわけにはいかへんので、それなりの物でしょうけど、合わせて5千円もせえへんでしょ」
箱や袋の値段は誰も気にしたことがない、というのが部長の答えだった。
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