2-5 大講義室
昼食の後、12時半にC号館前へ。キャンパス南部、教養部構内の南の果てに近い。その分、緑が多い。昼休みだけに当然ながら閑散としている。
真倫さんは既に来ていた。朝と違って、肩に大きなバッグを掛けている。「自転車ありがとう」と言って鍵を返してきた。
「サドルが高すぎませんでしたか」
「別に、気にならなかったわ」
ええっ、僕より10センチくらい背が低いのに、脚の長さは同じくらいあるんか。ショックやな。
それを押し隠して、一緒に建物に入る。廊下の灯りが消えていて薄暗い。C101大講義室は入り口の近く。両開きの扉は開いていて、入るとがらんとした広い空間……のはずなのだが、手前の方の席になぜか一組の男女が座っている。カップルか。
「うわ、何やお前ら」
男の方がすぐに気付いて、こちらをなじる。あるいは大きな独り言かもしれないが、何やお前らとは失礼だろう。君らが昼休みにここを借り切ってるわけでもあるまいし。
「気にしないで。部屋を見に来ただけなの。ただ、すぐには終わらないけれど」
真倫さんは教壇の方へずんずん進みながら、平然と言う。僕も付いて行く。男女は何をしていたかと見ると、弁当を食べていたようだ。おおかた、男のために女が作ってきたのだろう。弁当箱がそれっぽい。
リア充で羨ましいことやけど、どうせなら外で食べろや。高校生なら屋上、大学生なら中庭のベンチが定番やろ。
「気にするに決まってるやないか……」
男が呟き、女が弁当箱を片付けているが、男も手伝った方がいいと思うぞ。その間に真倫さんは教壇に立ち、講義室内を見渡す。立ち姿は背筋が伸びていてかっこいい。語学の講師が彼女のようだったら、欠席する男子学生はいないだろう。いかん、彼女のペースに乗せられてしまっている。
「華斗くん、中段の真ん中に座ってみて」
真倫さんから指示が出る。大講義室の席は、左、中央、右の3ブロックに分かれていて、間に階段がある。それぞれのブロックは上下2段に分かれていて、間は通路。
で、中段の真ん中というと、中央ブロック下段の一番上の、真ん中の席、ということになろうか。僕が階段を登っている間に、弁当男女が講義室を出て行く。
「他に空いてる教室はどこや……」
いや、中庭に行けって。
下段の一番上に到達。長机と跳ね上げ椅子の間を歩き、真ん中の椅子を降ろして座る。長机は7人掛けで、前から8列目。上段にも8列あるので、7×8×2×3=336人が座れるということだ。もちろん、一時期は密を避けるために隣と必ず一つ空けて座るよう指示が出たこともある。7人掛けに4人しか座れないので、4×8×2×3=192人に定員が減ったわけだ。
ところで昨日、真倫さんはちょうど真ん中の辺りに座って哲学の講義を聞いた、と言っていた。ここが指定席だったということか。教壇とは7、8メートル離れているが、彼女の顔ははっきりわかる。彼女もこちらの見え方を確認しているようだ。
「次は一番上に」
もちろんその真ん中の席だろう。立って椅子を畳み、階段へ出て上がって、最上段の真ん中へ。うん、やはり15メートルくらいあるだろう。彼女の姿はだいぶ小さくなった。少なくとも表情は読めない。黒板に何か書くなら、字をかなり大きめにしてもらわないと読みにくい。
こんな後ろの席で講義を受けたことは、僕にはないな。どんな講義室でも、前から3列目か4列目に座ることにしている。ちなみに京都大学や東京大学では、席は必ず最前列から埋まっていくという噂がある。頭のいい学生はそれだけ勉強熱心ということだ。
「一番左の端に座ってみて」
親切にも指を差してくれた。彼女から見て左、僕から見て右。そちらへ移動する。端は窓際で、机の上が明るい。教壇までの距離は2メートルばかり伸びただろうか。しかしさほどの違いはなさそう。角度もそれほど変わらない。同じ端なら、最下段からの方が見にくくなるだろう。
次に、反対側へ移動するよう指示が出る。端まで行く。やはり窓があり、机が明るい。教壇の見え方も、さっきと左右が逆になっただけで大差なし。
ちなみに講義室の出入り口は教壇に向かって右側の下にあるので、ここが部屋の一番奥ということになる。非常ベルが鳴ったら、避難するのにちょっと焦るかもしれない。
「いいわ。しばらく外へ出ていて」
妙な指示が来た。出ようとしたら、「扉を閉めて」って? 何をするつもりですか。
「準備ができたらスマホのメッセージで知らせるから」
訊くなと言われているかのようだが、素直に従う。一応、人が入らないよう、扉の前で見張る。さっきの男女はもう戻ってこないだろうし、次の講義にはまだ30分くらいあるから誰も来ないと思うけど。
しばらくしてスマートフォンにメッセージ着信。『教壇から最上段を見て』。
ふむ。さっき真倫さんは教壇から僕がどう見えるかを気にしていたようなので、今度は逆の立場で確認したいということか。しかししばらく待たせたことには何の意味があるのか。
講義室に入り、最上段を見る。真ん中の辺りに彼女がいるが……長い黒髪に、少しだけ紫色のメッシュが入っているだろうか。黒縁の丸い眼鏡をかけ、口元にはマスク。グレーのゆったりした丸首シャツに若草色のカーディガン。下はわからないけど、大人コーデを意識してロングスカートと予想。机に片肘を突いて、教壇の方を見ている。表情は不明。
彼女の変装であることはわかってるんだけど、どういう趣旨なのかなあ。僕が外へ出ている間に着替えたんですよね? ヅラと服をバッグに入れてきたんですよね? カーテン閉めなかったんですか。外から見られなかったですか。
で、教壇へ行って、どう見えるか確認すればいいと。歩いていって、壇から真正面を見上げる。講師になった気分。でもこんなガラガラの教室で講義をするのはイヤだ。
メッセージ着信。『私だとわかる?』。そう訊かれても、最初からわかってるからねえ。少し考えて返信する。
『少なくとも顔は判別不能です』
こういう答えでいいかな。僕の視力はさほど悪くはないけど、はっきりとあれが真倫さんと言いきるのは無理。よく知っていれば雰囲気でわかる程度。人物の認識って、そういうものだろう。
またメッセージ。『何歳くらいに見える?』
返信する。『25、6歳ですね』
『ありがとう。外で待っていて』
『先に帰ったらいけませんか?』
『君が待っていてくれると嬉しいの』
ぐさっ。ついにクーデレ発言来た。僕が要求したことだけど、それは探偵役として話している時だけでよくて、メッセージにする必要ないのに。
しかたない。『待ちます』と返信して外へ。よく考えたら彼女はまた着替えようとしてるわけで、そうなると見張りが必要なんだよな。って、内側から鍵を掛けられるはずだよ、ここ。まあいい。せいぜい5分くらいだし。
ただ、さっきの姿でも別に学生としてそれほど不自然じゃないんだけどなあ。着替える必要あるのか。
3分ほどで真倫さんが出てきた。ジャケット姿に戻っている。ふむ、さっきより何歳か年下に見えるのは不思議。ジャケットは就活学生または新入社員→22、3歳というイメージがあるからか。
「もう少し年上に見えると思ったけれど」
外に向かいながら真倫さんが言う。アラサーに見えて欲しかったですか。
「すいません。最初から誰かわかってるので、補正がかかったんやと思います」
「そう、じゃあ先入観なしの初見なら、もう少し上に見えるかもしれないのね」
「だと思います」
「それくらいの歳の人が講義室にいたらどう思う?」
「学生として? さあ、別に気にしませんけど。女の人はよくわかりませんが、男ならもっとおっさんに見えるのはいっぱいいますよ」
僕の答えに対して真倫さんは無言。何を気にしてるのかよくわからない。
並んで歩くと、自転車置き場に来てしまった。どうして彼女が付いてくるのか。
「本部構内まで乗せてくれる?」
何を言い出すかと思ったら。
「いや、構内で二人乗りはさすがにまずいですよ」
公道の二人乗りも道交法で原則禁止ですけどね。京都府は2万円以下の罰金または科料だったはず。しかし二人乗りしたいなんて……もしかして、デレてる?
「わかったわ。じゃあまた明日。12時にボックスに来て。お弁当を用意しておくから」
は? お弁当?
どうしたんですか、いったい。まさかさっきのカップルに触発されたんじゃないでしょうね。全く気にしてなさそうだったのに。
「この調査に関係があるんですか?」
「もちろん」
「まだ何もわかってない気がしますが」
「私はわかったの」
マジで?
「ほんなら、今からでも教授に知らせることができます?」
「いいえ、明日、詳細を確認してから」
「明日って、哲学の講義の時に……現行犯で捕まえるつもりですか」
「そうなると思うわ」
「僕は二限は講義に出ないといけないんですけど」
「もちろん私が一人で」
「その顛末を話すために、お昼にボックスで?」
「そう」
一緒に弁当を食べなければならない理由にはなっていない気がする。しかし、断るための積極的な理由もない。学食は安いとはいえ昼食代が浮くのは助かるし、一度くらいはリア充気分を味わうというのも……いや、彼女を相手にそういう気分に浸れるかどうかはわからないけど。
「じゃあ、失礼します」
三限は講義があるので行かなくてはならない。真倫さんは立ち止まったまま僕が自転車に乗るのを見ている。何となく去りがたい。けど、二限の前は僕が見送ったんだよな。
「明日のお弁当、楽しみにしていてね」
ぐさっ。去り際に無表情で言われて、刺さってしまった。自転車がふらついてこけそうになり、何とか立て直す。
さて、真倫さんは今日の調査で何を見出し、いかなる結論に至ったのだろうか?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます