2-6 手作り弁当

 翌日は朝から気が重かった。

 生まれて初めて同年代の女性が手作りした弁当を食べるという、考えようによってはかなり嬉しいイベントのはずなのに、なぜこんなに気が進まないのか。

 おそらく僕の中で真倫さんの地位がはっきりしていないからだろう。好きでも嫌いでもない。かといって、どうでもいい女性というわけでもない。

 公平に見て、彼女の容姿は美人の部類に入る。真倫さん以外の扮装の時、即ち三笠芙美さん、春月沙羅さん、北白川美砂さんの時でもそう。どんなタイプでも一定の美的レベルを出せるのは、元がいいということ。

 問題が彼女がほとんど常に演技をしていることだ。つまり〝素体〟である麻生雅子という人物が、どういう性格の持ち主であるのか。それがわからなければ、僕は彼女をどのように扱うべきか、決められない……と考えている。

 このような中途半端な状態で、彼女の手作り弁当を食べて、どんな態度でいればいいのか。「おいしい?」などと訊かれようものなら、どう答えればいいのか。

 いや、別に「まずいのに無理に『おいしい』と言う」演技はしなくていいとも思っているけど。

 演技……そうだ、僕自身のこともある。彼女に対抗して、僕もなのだろうか。彼女は僕に何を求めているのか。ミス実のパートナーであり、偽名〝志尊華斗〟を与えられているからには、そのキャラを演じてしかるべきか?

 では志尊華斗とはいったいどういうキャラなのか。探偵・葉色真倫を助ける役割――主に雑学的知識で補佐するのだろう――であり、彼女のクーデレぶりを単純に楽しんでいていいのだろうか。

 それともホームズに対するワトスンのように、いずれはホームズから精神的に依存されたりするのか。

 だいたい、彼女と知り合いになってまだ1ヶ月も経ってないのに、どうしてこんなことで僕は悩んでいるのか。会った回数も、まだ両手に足りないくらいだ。

 要するに「そんな状態で彼女の手作り弁当をいただいてしもうてええんか?」ということについて、僕は葛藤しているのだろう。もしかしたら実につまらないことかもしれない。友達に相談しても「ええやん。彼女が食べさしたるて言うんやったら、気軽に食べときや」「食べたから何せえとも言われてへんのやろ」などと笑われるだけかもしれない(あるいは黙って刺される可能性が無きにしもあらずだが)。

 とにかく朝からこんなことばかり考えていて、講義を聞くにも身が入らなかった。リアペを提出する講義でなくてよかったと思うばかり。何も感想が書けなかっただろう。ノートにちょこちょことメモが残っているが。聞こえた言葉を半自動的に書いたせいか、つながりが全く思い出せない。

 事件は哲学に関することだけに、彼女とのこの妙な関係を哲学的にどう解釈すればいいのか、関戸教授に教えて欲しいくらいだ。


 二限が終わり、自転車をとろとろ漕いで、西部構内のクラブボックスへ。12時に来てと言われたが、二限は12時までなのだから、移動で5分くらい遅れるのは構わないだろう。

 と思っていたら、ミス研の部屋には鍵が掛かっていた。中の灯りも点いてない。ノックをしても反応なし。いったいどうしたことか。

 スマートフォンにメッセージの着信音。真倫さんから「12時07分に着く予定。待っていて」。細かいな。彼女は例の大講義室に行ってたはずだが、講義を最後までとか?

 そして予告どおり12時07分に彼女は現れた。……のだが、一緒に来た人がいる。女性。学生ではない。かなり年上。まさか彼女の母親? どうしてそんな人に引き合わされなきゃいけないの。

「遅れてごめんなさい。紹介は中でするわ」

 真倫さんが鍵を開ける。その間に女性は僕に向かって優雅に一礼。僕は「こんにちは」と礼を返す。改めて観察すると、上品な顔立ちで、40歳から50歳くらい。長い髪を後ろで束ねている。痩せ型だと思うが、身体の線がわからないようなゆったりしたベージュの長袖ブラウスと、ブラウンの裾の広がったパンツ……何だっけ、ガウチョパンツか。誰かがクイズを作ってたな。

 部屋に入るとエアコンが効いて涼しかった。点けっぱなしで出掛けてた? ああ、弁当が傷まないように、ってことね。うわ、でか! まさかお重とは思ってなかった。3段重ね!

「では、紹介するわ。こちら、ミドリカワミドリさん」

 出たよ、また回文名前。ミドリさんが「初めまして」と笑顔で頭を下げる。僕もそれに合わせる。

「リョク、3本ガワ、スイよ。君ならそれでわかるでしょう」

 ああ、名前の漢字ですか。緑川翠ですね。そして真倫さんが僕を翠さんに紹介。

「志尊華斗くん。私の友人でパートナーです」

 うわ、来た、ホームズがワトスンを紹介する時の言葉。ミス研に関わったのをきっかけに、全話読み直したせいで憶えてたわ。翠さんは「まあ、パートナーですか」と笑顔。もしかして恋人の意味に取ったんじゃ? 違うんですって!

 しかし否定する暇は与えられず、真倫さんが翠さんに席を勧める。長机の向かいへ。僕は真倫さんの横。ますます誤解を受けそう。

「あの、お二人はどういうご関係で」

 真倫さんが重箱を開いている間に、翠さんに質問。横目にちらりと見えた重箱の中身は、幕の内風ではなく普通の弁当らしいもの。つまりおにぎり、卵焼き、唐揚げ、ウインナー、焼き鮭、ピーマン肉詰め、ポテサラ、レタスなど。そして1人1段だった。

「今日初めてお会いしましたんよ」

「はあ」

 柔らかい京都弁だった。そして真倫さんに説明してもらいたがっているようだ。真倫さんが僕に割り箸を渡しながら言う。

「彼女が代理出席者よ」

「え、どういうことです?」

 しかし真倫さんは僕を無視するかのように、翠さんに「どうぞお召し上がりください」。翠さんは両手を合わせて「あらまあ、豪華なお重やこと。いただきます」と言い、卵焼きに箸を付けた。その笑顔は、娘が初めて作った弁当を賞味する母親のよう。

「真相は、彼女の娘さんが履修登録をして、彼女が出席していたの。翠さん、私から彼に話して構いませんか?」

 翠さんはまだ卵焼きを食べていたが、口元を手で隠し、飲み込んでから「おいしいわ、この卵焼き。お上手ね」と真倫さんの料理の腕を褒めた。真倫さんは「お口に合ってよかったです」と謙遜。お世辞かどうか、僕はまだ箸を付けていないのでわからない。それどころではない。

「どうぞあなたからお願いします。さっきお話ししたとおりですから」

「華斗くんも食べて」

 いや、話を聞くまで喉を通りそうにないんですけど。しかし真倫さんは黙って割り箸でポテサラを少し摘まみ、口に入れる。僕が何か食べるまで話してくれないのだろうか。しかたない、じゃあ、ピーマン肉詰めを。

 ……あかん、めっちゃおいしい。

 ソースが絶妙。これはケチャップじゃなくオイスターソースがベース。一緒に白米をがっと食べたくなる。だからおにぎりも摘まむ。綺麗な俵型。他と大きさも揃ってる。塩気は強からず弱からず。おかずと合わせるのにちょうどいい。

「彼女の娘さんは去年入学して、哲学の講義を取ったの。でも期待していたのと違ったので、途中で脱落。単位も落としたんですって。ただ、たまたま関戸教授のことを翠さんに話したので、翠さんが興味を持ったの。教授は彼女とこの大学の同窓なんですって。文学部の」

「ああ、なるほど……」

 言われてみれば年の頃が同じくらい。いや翠さんの方が少し若く見えるか。でも教授も若見えだよな。しかし、18歳くらいの子供がいてもおかしくない世代。

「それで娘さんにもう一度履修登録をしてもらって、代わりに翠さんが出席しているの。もちろんリアペは娘さんの学籍番号と名前で提出しているわ」

 娘さんの名前は何ですか。まさか回文名前……は無理か。いや、とにかく文学部2回生の女子がそれなんですね。イニシャルは憶えてないけど。

「しかし、そういうのも代返っていうんですか?」

「そうね、替え玉という方が正しいかしら」

「でも教授は気付かなかったんですか。娘さんの代わりにお母さんが出ていれば、さすがに……」

「もちろん、わかったに違いないわ。大講義室の一番後ろの席で、眼鏡をかけてマスクを着けていても、学生らしくない年齢であることくらいは」

「そうすると、昨日はそれを確認していた?」

「ええ、そう。ただ、だからといって学生でないとは限らない。教授が気付いたのはリアペの内容からじゃないかしら。他の学生とは全く違っていると」

 そして真倫さんは翠さんに「いかがですか?」。

「唐揚げも上手に揚がってますわ。うちの娘なんか料理の手伝いもしまへんのに」

「いえ、リアクションペーパーという、講義の後に提出する紙のことです」

「ああ、それ。娘から書き方は一応教わりましたけど、私の頃にはなかったし、学生らしいことはよう書きませんわ。そやから思ったとおりに感想を書きました。カンくんは昔から理屈っぽい話し方をする子で、それは今でもちいとも変わってへんのですけど、意外とわかりよいんが不思議ですわ。主人も聞いたらきっと面白がると思います」

「カンくんとは関戸教授のことですか?」

「ええ、関戸ひろしですけど私も主人もカンくんて呼んでて」

 カントカン! 教授も回文名前だったのか。

「ご主人も同窓だったんですか」

「ええ、そう。主人と私は高校も同じで、家はこの近所です。主人は工学部ですけど、文学部でちょっと浮いてる感じのカンくんを私が紹介したら、えらい仲良うなってしもうて。今でも年賀状やらメールやらやりとりしてるみたいですけど、何や私だけ仲間はずれにされてるみたいで、そやから冷やかしに来たんです。平日の10時過ぎなんて、暇ですさかいに。あら、何の話やったかしら。そうそう、何とかペーパー。何でもええから書けいうことやから、毎回長々と書きましたけど、あんなん私だけですやろなあ」

「でも……それなら教授は、それを書いた学生を呼び出して訊けばいいだけやないですか」

 つい、口を挟んでしまった。翠さんは「そうですわなあ。なんでですやろなあ」。

「リアペの内容は成績に反映しないんでしょう? だったら呼び出す理由がないじゃないの」

 ウインナーを食べた後で真倫さんが言った。切れ目が入っているが、タコさんではない。

「あー、そういうこと……いや、でも、そんなことにこだわる必要は……」

「哲学的に考えたのよ。そういう例外を認めるべきではないと」

「それやったらさすがと言うか、何と言うか……そしたら、講義の前か後に呼び止めるとかすれば」

「教授にとって講義のルーティンは完全に決まっているのよ。時間厳守。研究室と講義室の間に寄り道もしない。翠さん、そうですよね?」

「ええ、そうですんよ。それは学生の時から同じでしたわ。もう呆れるくらいきっちりしてて。要するにあなたに、自分の代わりに私を呼び止めて、話を聞いといてもらいたかったんですやろなあ」

「だから代返者を見つけるという理由で私たちに依頼したのよ。それで一つ君に確認。教授は代返者を見つけてどうすると言っていたの?」

「どうって、落第……いや、違う……」

 落第は僕が言い出したのだった。教授は聞いた瞬間、意外だという感じを見せた。ではなく、がどのような素性の人物かを知りたかったのか!

 改めて教授との会話を説明すると、真倫さんは「納得したわ」。

「そもそも教授が今さら代返者を見つけて欲しいなんて依頼してくるのが、不自然だと思ったのよ。毎年何人かはいるに決まっているのに、どうして今年だけって」

「いつもは裁量で見逃してたけど、今年はルールどおりやることにしたという理由が付けられるんですね、この場合は」

「そういうこと」

 それから真倫さんは焼き鮭を箸で一欠片ひとかけら切り取り、おしとやかに食べてから言った。

「探偵としては、依頼者のそういう〝ホワイ〟も気になるのよ」

「でも……本当にをしてる人は、どうするんですか? 代返者を探せと言われたら、やってる全員を探さんとあきませんよね? 翠さんだけやなくて」

「そうね。それはこのあと二人だけで話しましょう。目星もついているし。今は翠さんとお話がしたいわ。試験はどうされるおつもりですか?」

「もちろん受けますけど、答えの他に私が講義を受けてることを正直に書こうと思うてますんよ。読んで、落第にしてもうても構へんよって。そやから、その時まで私が娘の代わりに出席してたとは、カンくんに言わんといてもらえまへんやろか。後でびっくりさせよと思うてましたさかいに」

 翠さんも負けず劣らずおしとやかに食べながら言う。しかし京女らしい〝いけず〟な面もちゃんとあるようだ。笑顔でこういうことをさらっと言うところが。

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