2-4 執務への質問

 話すだけ話すと岩本さんはさっさと帰ってしまった。彼はミス実のメンバーにならないようだ。僕に対して終始、珍しいものを見るような目つきだったなあ。やはり憐れな生け贄か何かに思われてるのか。

 さて、哲学科事務室で調べてきたことをようやく報告。真倫さんはすぐ近くにいるのに横を向いて、気のない感じで聞いているのだが、クーデレ的演技であると察する。逆に、こっちの目を真っ直ぐに見られてたら、話しにくくてかなわない。

「1回生を除いたのはよかったけれど、を省くのはちょっと乱暴ね。どうせ残り3人なんだから、それもリストに含めておけばよかったのよ」

「そうですかね」

「例えば他の学部に同学年の友人がいるとか、同じ高校出身の後輩とかも考えられるでしょう」

「はあ、そうですね」

 とりあえず明日も事務室に行って、残り3人の情報もメモってくることにする。何となく嬉しい気がするのはなぜだろう。

 しかしイニシャルや所属がわかったからといって、あまり意味がないと思えるんだよな。それより、リアペの謎だ。さっき考えたことを、真倫さんに言ってみる。

「いい着眼点ね。つまり、講義には出ているけれどリアペに自分の名前を書かず、代返を依頼した人の名前を書いて提出しているか、もらったリアペを依頼した人に渡して自分は提出していないかもしれないと」

「それだと探すのは難しいですよね。代理の人はリストの中にいないんやから」

「探すのは代理出席者じゃなくて、代返依頼者なの?」

 同じことだと思うのだが、何か違いがあるのだろうか。

「どっちにしろ、リアペの提出時に学生証をチェックするとかでない限り、探せないんやないですか」

「後から提出する時は、確か学部事務室のポストに入れるのよね」

「そうですよ」

 ポストと言っても郵便受けではなく、事務室の窓口の横に置いてあるファイルトレイ。哲学に限らず、文学部に関係する講義のリアペを後で提出する時は、そこに入れておく。トレイは5時に事務室の中に引っ込めるので、翌朝まで提出できない。提出されたリアペは事務員が講義毎に仕分けし、各学科の執務がそれを取りに来る。

 つまり提出者の学生証をチェックするなら事務員に頼む必要があるが、そんな面倒くさいこと絶対に受けてくれるわけがない。それに本人が提出するのは必須じゃない。ついでに友達の分を持ってくる、なんてしょっちゅうあるはず。

 だからリアペの指紋を採って、そこに教授、執務さん、提出者以外の指紋が検出されたとしても、代返をしているという証拠にはならないだろう。

「学科事務室に直接提出しに来る人がいるかは、訊いた?」

「訊いてません。でも代返者がそんな大胆なことしますかねえ」

 しかしその人が講義に出ているかどうかは執務さんは知らないわけで、バレる可能性は低いか。

「明日は、私も一緒に訊きに行くわ」

「そうですか」

 しかし一人で行く方が嬉しい気がするのはなぜだろう。

「今日も三限の後の休み時間に、事務室へ行って執務に挨拶してきたのよ」

「そうでしたか」

「ずいぶん若いと思わなかった?」

「思いましたよ」

「執務は20代と40代以上が多くて、30代が少ないの。理由はわかる?」

「わかりません」

 なぜここで推理ごっこを。

「若い人は、教授や准教授の伝手で来るの。就職しなくても困らないような良家の子女が、形だけ仕事をするために」

「そうらしいですね」

「結婚するといったん辞めるけれど、子供が大きくなって暇ができるとするの」

「ああ、仕事の要領がわかってるし、頼む方も頼みやすいから」

 なるほど。つまり東洋文化学科のオバフォー執務も、再就職組ということか。

「ところで君は哲学を受講した?」

 話が急に変わった。

「しましたよ。1回生の時に」

「私も受講したの。1回生の時」

「そうでしたか。1年違いですね」

「面白いと思った? 哲学の歴史をざっと概観するだけだったから、私はつまらなかったわ」

「僕も期待してたのと少し違いましたけど、とりあえず全回出席しましたよ」

「論理学の方が具体的で面白かったわ」

「それは僕も取りました。自然科学系の単位が欲しかったので」

 哲学は人文学だが、その一部を抜き出したような論理学は自然科学に分類されている。歴史的経緯では、大昔(古代ギリシャあたり)は知的なことは何でも哲学だったのだが、時代が進むと細分化して、論理学や数学などの自然科学系が分かれていった、ということのはず。分かれたのはニュートンの頃という説もある。彼は自身を哲学者と考えていたそうだから。

「哲学の講義は、どの辺りの席で聞いたの?」

 また話が戻った。

「けっこう前の方でしたよ。一応文学部やからやる気を見せとこうと思って」

「私はちょうど真ん中の辺りにしたわ」

 3年前ってリモート講義だったのでは? それとも一部は講義室でやったんだろうか。

「それもやる気があるような感じがしますね」

「教壇から、そこより後ろの学生の顔が見えるかしら」

「さあ、どうでしょうか」

 大講義室はひな壇形式で、一番後ろなら教壇から15メートルは離れているだろう。しかも高さがある。講義にはプロジェクターと黒板を併用していたはずで、部屋の灯りは点いたり消えたりした。見えにくいに違いない。

 しかし、教授が学生の顔なんて観察してるのだろうか。

「……何を気にしてます?」

「君が気にならないのなら、別に構わないのよ」

 それは探偵っぽい台詞ですね。僕が何か見落としてると言いたい? 何だろう。いや、そもそも僕が真剣に取り組むのがおかしいのであって、基本的には真倫さんに全部お任せしたいんだけど。

「今日はこんなところですか。明日は哲学科事務室に一緒に行くんですね? 何時にしますか」

「いつが空いてるの?」

「火曜日は二限だけです」

「私は三限しか空いてないわ。じゃあ、まず一限の終わりに事務室前に来て」

「はい」

 それはいいけど、「まず」って?

「それと昼休みに大講義室を見るから付き合って」

「わかりました」

 意図は不明だけど、とりあえず了承しておく。

「昼食も一緒にする?」

「……いえ、友達と一緒に行くことにしてるので」

 意外なお誘いを受けて、少し動揺してしまった。本当は一人で行くのだが、食堂で彼女と一緒にいるところを誰か(特にクイズ研の連中)に目撃されるのは、かなり困る。大変申し訳ありません。

「じゃあ、12時半にC号館の前で」

「わかりました」

 このあと夕食を一緒に、とは言われなかった。この女子高生風ファッションでは食堂に行けないからかもしれない。


 翌日、一限が終わってから哲学科事務室の前で待っていると、3分ほどして真倫さんが来た。工学部の建物はけっこう離れているのに、どうやって3分で来たのだろう。まさかバイクか。

 ところで今日の服装は、昨日とは大違い。ライトグレーのジャケットに白い開衿ブラウス、下はジャケットと同じ色のスラックス。まるで就活中のよう。そういえば6月なのに彼女は就活しないのだろうか。

 事務室へ入る。執務さんは「休み時間じゃない方がいい」と言ったにもかかわらず、休み時間に僕らが来たものだから、少し驚いているようだが、不機嫌になったりはしない。すぐに穏やかな笑顔になる。今日も美しい。

「お願いしておいたものは?」

「はい、用意しておきました」

 真倫さんはあらかじめ執務さんに何か頼んでいたらしい。手渡されたのは、3人のイニシャルなどが書かれたメモ。なるほど、追加分ね。僕から頼めなくて残念。

「リアペのファイルは机の上に出したままですか?」

「いえ、帰る時にちゃんと鍵付きキャビネットに入れます」

「リアペをここに直接持ってくる学生はいますか?」

「いますよ」

 と、ここでドアにノック。執務さんが「はい」と答えると、男子学生が入ってきて、執務さんに何やら紙を手渡す。執務さんは笑顔で「はい、承りました」。男子学生はとても嬉しそうだが、出て行く前に一瞬だけ僕の方を見て「お前、邪魔」という感じを醸し出す。僕だって好きで邪魔しに来たわけではない。

「哲学の講義以外でも」と真倫さんが質問の続き。

「はい」

「学生の顔や名前を憶えていますか?」

「顔は憶えている人もいます。何度も来る人もいますので。名前は……」

 と、またドアにノック。執務さんが「はい」。男子学生が入ってきて「コピー機使っていいですか?」。へえ、コピー機があるの。複合機だな。PCからプリントアウトやスキャンもできるだろう。男子学生がコピー機を使っている間に、さっきの続き。

「……名前は、憶えてる人も憶えてない人もいます。リアペは、なるべく講義名しか見ないようにしていて」

「でも渡しに来るついでに雑談する人もいたり」

「いますね」

「自分のことをアピールする人もいるんじゃないですか」

「いますね」

「そういう人のことなら憶えていることも……」

 と、コピーをしていた学生が「終わりました」。執務さんが紙の枚数を数えて、学生がお金を払う。有料か。ていうか、学部内に共用コピー機があるのに、そっちを使わないんだ。ここだと執務さんに会えるからだろうな。

「……憶えていることもありますか?」

「ありますね」

「中には文学部以外の学生も」

「いますね」

「下の事務室に提出せず、わざわざここまで上がってきて」

「大変ですよねえ、4階なのに」

「他の人が提出したリアペを見せて欲しいと言ってくることは……」

 と、またドアにノック。ほんま、せわしないところやな!

 また男子学生。あんたら、絶対執務さんに会いに来るのが主目的やろ。見え見えすぎるわ。しかし執務さんも慣れたもので(慣らされたのだろう)、常に笑顔で丁寧に接している。

「……ありますか?」

「何の話でしたっけ?」

「他の人が提出したリアペを見せて欲しいと」

「それはさすがにないですね」

 以上で真倫さんの質問は終了したらしい。「お忙しいところどうもありがとうございました」と丁寧に礼を言う。執務さんは「ご苦労さまです」。僕も礼を言ったが、ここまであからさまにリアペの提出者について尋ねているのに、代返の調査をしていることに気付いてないのだろうか。

 あと、僕と真倫さんを、学生カップルを見守る先輩のような目つきで微笑ましく見るのはやめて欲しいんですが。

「ああ、すいません、あと一つだけ」

 出て行きかけた真倫さんが、衝立越しに執務さんに声をかける。僕は真倫さんの背中に追突しそうになった。髪からいい香りが……

「はい?」

 自席に戻っていた執務さんが腰を浮かせているのが、衝立の向こうに透けて見える。

「執務の仕事を教授から紹介されたそうですが、どなたですか?」

「法学部のT教授です」

「ああ、存じています。他にも何人か紹介されているようですね。工学部にも一人おられて、私もよくお世話になっています」

「そうでしたか」

 なるほど、真倫さんが執務の就職事情に詳しいのはそのせいか。

 事務室を出ると、二限開始のチャイムが鳴った。僕は講義がないが、真倫さんはあるはず。

「遅刻しますよ」

「君の自転車を貸してくれる?」

「え、バイクで来たんじゃないんですか?」

「走って来たに決まってるじゃないの」

 そのわりには、この蒸し暑い季節に(しかもジャケットを羽織ってるのに)汗すら掻いてなかったように思うけど。急いで建物を出て、自転車置き場へ行き、鍵を渡す。真倫さんが安全運転で走って行く。15分以内なら遅刻にならないからだろう。それなら歩いても間に合うはずだけど、まあいいか。

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