不治の病に冒されている妹と約束するお姉ちゃんの話

よなが

本編

 綺麗なままで死にたいと聞いて笑った。

 いかにも不治の病で苦しむ少女らしい願いだったから。

 

 史織しおりは二十歳を迎えずに死ぬ。

 

 それこそフィクションの中の悲劇のヒロインめいた宿命ではないか。残された時間で、誰か心優しい青年と大恋愛でもして、それでまぁ、奇跡が起こって回復したり、しなかったり。家族の絆。友情。そういうのも当然、入ってくる。

 そうした物語のキャッチコピーはどんなのだろう。

 泣ける。感動必至。涙が止まりません。そんな言葉たち。

 ふざけるな。

 毎年毎月毎日毎時間毎分毎秒、飽きもせずこんなクソみたいな売り文句を掲げたフィクションがぽんぽんと世に出されては、それをありがたく口に入れて汚れた舌と歯で味わい、まるで地獄の釜のような胃で溶かし、最後には掃き溜めにさよならする人がいるのを私は憎んでいる。憎んで、憎んで、憎んで……ほっとしている。

 ああ、私じゃなくてよかったって。

 病に冒されているのは史織で、私ではない。

 

 死にたくない。

 フィクションの中じゃ、きっとそんな本心を物語中盤か後半かで涙ながらに吐露して、言われた側は黙って抱きしめるぐらいしかできないのだろう。あるいは、もう死んだっていいとでも言うのかも。

 一瞬の幸せを永遠にしたがる。べつに病床に伏していなくても、そんなふうに切に祈ることってある。

 

 二歳下の史織は七歳の頃から入院し続けている。病名だなんてどうでもいいでしょ。勝手に想像しなさいよ。とりあえずは現代医学の敗北(予定)。

 生き残る予定の私が勝者かと言えば、そうでもない。史織の病気が発覚してから、私たち家族の中心は彼女で在り続けている。彼女が太陽だ。悪しき陽炎で私を歪め、燃やして焦がす。周囲の声に惑うのをやめた私は惑星にあらず。太陽系の外にある一つの恒星。そんな傍観者になることもできず。


 史織が死んだ後の私たちの世界ってどうなっちゃうんだろう。

 彼女が十五歳を迎えてから、暇さえあればそれを考えている私がいる。したいことリストでも作ろうかな。史織は作っていないんだけどさ。

 あの子のいなくなった世界では、私はこれまでにできなかったことができると思う。我慢していたことが、後ろめたく感じて諦めていたことが山ほどある。抑圧。足枷。呪縛。なんだっていい。

 とにかく妹が死んではじめて、私はやっと「姉」という立場から解放されて、自分を生きられる気がする。心待ちにしている。でも、早く死んでほしいだなんて口が裂けても言えない。言うわけない。


「お姉ちゃんは、わたしに早く死んでほしいでしょ?」


 そんなわけで、史織にそう言って微笑まれた時は、思わず変な笑い声が出てしまった。

 

 七月中旬。外は馬鹿みたいに熱いのに、馬鹿みたいに涼しい病室。ようするに全部が馬鹿げた世界で、史織は私に訊ねてきた。

 いやいや、質問なんかじゃない。確認なのだろう。わかっているけれど、念のため。そんな感じ。


「半分は当たっている。耳が痛い」

「嘘つき。百点満点のくせに」

「ほんとに半分は不正解だって。いい? 一番良いのはこう。ある朝、起きたら史織が元気になっている。わぁ! 神様からの素敵な奇跡! 拍手喝采。みんなの注目の的。でね、史織は取材を受けてこう言うの。『お姉ちゃんのおかげなんです。お姉ちゃんがいつもそばにいてくれたから。お姉ちゃん、大好き!』って。最高で最強の仲良し姉妹の誕生。……ねぇ、聞こえている?」

「ううん、聞いていなかった」

「ま、いいけどね」


 沈黙。気持ちとしては浮ついたものがあった。

 やっぱり知っていたんだって。史織は頭がいい。私の血のつながった妹にしておくにはもったいないな。他人だったら関わらないで済んだかな。クラスメイトにいたら、わざわざお見舞いにいったかな。どうだろう。行かなかったと思う。


「あのさぁ……史織は、私のこと憎い?」

「好きだよ」

「そういうのいいから。言ってよ」

「いつ死ぬかわからないから、ちゃんと話してってこと?」

「ちょっと違う」

「どう違うの」

「いつ死ぬかわからないのはみんな同じじゃん。私は毎日、会う人全員に、後悔のないように本音をぶつけてこいって頼んでないよ」

「なるほど」


 か細い声。ほんとにわかっているのかな、こいつ。


「私はさぁ……結局のところ、怖いんだよね。あ、史織が感じている怖さとはべつ。比べないで。私さ、あんたを失ってから好きになるのが怖いの」


 青白い顔をした史織が小首をかしげる。

 私でもへし折ることができそうな細い首。言わずもがな、手首や足首はもっと細い。乳首は私より色素が薄い。たまに体を拭くときに、つんつんと触ってみるけど、ちゃんと反応する。生きているんだよなぁって感心する。うっすい胸はたぶんもう膨らまない。


「お姉ちゃん、生きている今のわたしのことを好きじゃないんだ」

「そりゃそうでしょ」


 開き直って言う。


「自慢の妹だって紹介できないし。けど、私より勉強も運動も何もかもできて、可愛い妹だったらそれはそれで嫌だな。たぶん嫉妬する。首絞めちゃうかも」


 宙で首を絞めるジェスチャーをしてみる。史織は笑う。


「わたしは好きなんだけどな、お姉ちゃんのこと」

「え、マジか。でも同じかそれ以上に憎くならない?」

「それは……そうかも」

「でしょ。はぁー、私たち姉妹じゃなかったよかったね」

「もしそうだったらわたしね、お姉ちゃんに恋する」

「ほわい?」


 ついうっかり流暢な英語が飛び出してしまう。


「ダメかな」

「いや、いいんじゃない。うん。それが肯定される社会は近いらしいし。個人の性的嗜好は尊重する」

「その近いってのは十年後ぐらいのことじゃない? だったらわたしにとっては千年後と変わらない」

「そういうセリフは史織が言うと重みが違う。一グラムと千トンの差がある」

「お姉ちゃん……いつもの頼んでいい?」

「このタイミングで? なんか意味深」

「ダメ?」

「いいよ。私はまだお姉ちゃんだから」


 たぶん彼女が欲しい答えじゃない。

 でも私はある種の抵抗としてそう返事をする。そうして私はゆっくりと、史織を焦らすように、自分の服を脱いでいく。下着もとる。涼しい部屋が寒い部屋になる。


 史織は十四歳になってから私の裸を見たがった。

 もしかするともっと前から見たかったのかもしれない。

 最初の一カ月、私は彼女に自分の身体を触れさせなかった。正確には腕や足といった普段でも触れられる場所は許したけれど、そうではない部位を許してしまうのはいけないよう思った。

 たとえ彼女が余命わずかなヒロインで、私がその姉という脇役であってもなお、そんな簡単に秘部に、たとえば指を這わすのを許さないしっかり者なのだ、私は。

 でも、二カ月目に「お願い」と頼まれ時は「しゃーなしだからね」と返していた。その時の史織の顔は今にも泣きそうだったから。


「わたし……やっぱり好きだな、お姉ちゃんのこと」


 私の臍を指でくりくりしながら史織はしみじみと言った。


「なんだ、身体目当てか」

「ちがうと言い切れないなぁ。でもね、ここにいるのがお姉ちゃんじゃなくて、とびっきりセクシーでスタイル抜群の美人だとしても、知らない人相手だったらドキドキしないと思うの。むしろ、何を見せつけているんだぶっ殺すぞってなる」

「物騒な言葉遣いはやめなさい」

「……ここ、触るね?」

「いちいち訊くのもやめなさい」


 前に私が「いきなり触らないでよ」と言ったのを覚えているからだ。わかっている。でも訊かれたら訊かれたで恥ずかしいのだ。

 妹相手になにやっているんだって正気になってしまう。アンケートをとったことないからい知らないけれど、普通の姉は妹に性器を触れられる機会はないはずだ。

 年が離れていて、お風呂に一緒に入って、身体を洗ってあげる、そんなシチュエーションでもない限り。そういえば、史織と一緒にお風呂って入ったことないな。それともずっと昔に一度あったかな。

 物心つく前に。私たちの親がごく普通の家族を、幸せを信じていた頃に。


「お姉ちゃん、何を考えているの?」

「帰ったらアイス食べようって」

「……意地悪」

「今更何言っているのよ。あっ、こら、そこを摘まむな!」

「わたしの指で感じてくれないの?」


 どっからそういう知識を仕入れるんだか。……私の貸した少女漫画か。ちょっぴり過激なやつ。お母さんに怒られたっけ。


「わたし、お姉ちゃんをせるまで死ねないな」

「綺麗なままで死にたいんじゃなかったの?」


 何千年生きるつもりなんだ。いや、私が先に死んじゃうか。って、ちがう。先に死ぬのはおそらく史織だ。史織なんだ。誰がいつ死ぬかわからないって、ついさっき偉そうに口にしたけれど、でもそう思い込んでいる自分にうんざりする。


「まあね。ねぇ、お姉ちゃん……」

「なんて声を出しているのよ」


 私の男友達が聞いたらもれなく発情する、そんな声。女友達だってひょっとしたら。


「キス、したい」

「ほわっと?」

「お姉ちゃんとキスしたいです……」


 そんな、バスケがしたいですみたいな感じで言われても。表情としては、今の史織のほうが落ち着いているけれども。


「ここに来る前、辛子味噌入りタンタンタンメン食べてきたからパス」

「タン、一個多くない? 大丈夫、舌を入れはしないから」

「タンだけに……ってそうじゃなくて。ガチめの要求?」

「熱中症ってゆっくり言ってみて」

「小学生か。小学生男子が好きな女の子か」

「たった数回しか小学校行っていないからわからない」

「あ、そう。私は数千回顔を合わせている妹のことがわからん」


 話しながらも私の身体を指でなぞっていた史織の動きが止まった。「服、着て」とため息交じりに言う。私は「はいよ」と従うことにした。


「しよっか。キス」


 服を全部着終わって、さぁ、いつでも帰るぞという状態になってから私は史織にそう言った。


「どうして?」

「あんたのお姉ちゃんはひねくれものなの」

「けど今の顔、わたしにとっては一番お姉ちゃんらしく見えるよ」 

「そ。とにかくね、あんたのことが好きじゃないってどんなに思っても、それを言葉にしてみても、それでも……そんな顔されたら離れたくないって感じちゃうわけ。この子を独りにしたくないなって。私がとびっきりのイケメンだったら、うんと強く抱きしめて愛を囁いて、幸せな時間を与えるのにって」

「すぐに病気で死ぬのに? 意味ないよ」


 閉口する。それ、ジョーカーじゃん。どうしようもない。

 史織が微笑む。私はたじろぐ。

 これまでに何万回も心で問い続けたことをもう一度問う。

 なんであんたはそんなに優しく、綺麗に微笑むことができるの?


「でもお姉ちゃんが相手だったら意味があるし、価値もある」

「なんとまぁ」

「キスして。恋人のようなキスをお願い。それでわたしに……夢を見させて」


 せめて、と私は思う。祈ってしまう。この子が死ぬときは夢を見るように死んでくれと。苦しまずに。音も光も失わずに。その記憶の中に私を留めたまま。どうか眠るように死んでくれ。ろくでなしの神様でもどうか些細な願いを一つ叶えなさいよ。

 そうじゃないと私は史織がいなくなってから、悔やんで、悔やんで悔やんで、それから彼女を狂おしいほど好きになる。そんなの残酷じゃん。残された者にとって酷すぎる仕打ちだ。


 私は史織の唇に自分の唇を重ねた。

 穏やかに。この静けさを守るように。逸る鼓動は気取られないように。


「独りにしたくないって、言ったよね?」


 唇を離した後、史織は上目遣いで私に訊く。キスの感想、一つない。私はしかたなしに肯く。


「ダメ元でお願いしていい?」


 真剣な目つき。私は妹が何を頼もうとしているか察した。


「ごめんね、史織」

「まだ言っていない」

「――――あんたといっしょに死んであげられない、ダメなお姉ちゃんでごめん」


 崩れた微笑みにやっと彼女を目にした気がした。


「そっかぁ。そう、だよね」

「試してみる?」

「何を?」

「ここで私の首をぎゅーっと絞める。それで無事に殺せたら、あとはまぁ、流れで、さ」

「無事に殺すって変なの」

「いい記事になるよ。美しい姉妹愛。狂った姉妹愛。いずれにせよ、愛ってきっと書いてくれる。そういうの好きでしょ、みんな。死と愛について、なんであいつら馬鹿みたいに好きなんだろうね。泣けないよ。私は泣けない。いいかげん、不治の病だったり記憶障害だったり、その他のおかしな病気だったりに頼って人を感動させるのやめてほしい。そんなの……現実でお腹いっぱい」

「ふふっ、頭を押さえて何言っているの」


 私は力なく笑う。泣きそうになるのを堪えた。必死で耐えた。気づきたくなかった。

 この子を失いたくない。ずっとお姉ちゃんでいたい。


 今度は史織から私にキスをしてくる。強引に押し当ててくる。味のない唇。そう遠くない未来に色を亡くしてしまう唇。


「じゃあ、こういうお願いはどうかな」


 唇を離した代わりと言わんばかりに、額をぴたっと私のそれに合わせた史織が密やかに言う。


「これからは、病室に来てくれた日には必ずキスする。ただするのは味気ないから『好き』って言って。それでわたしもお姉ちゃんに『好き』って言うから。ストリップショーはおしまいにして、そっちのほうがいい」

「ショーをしたつもりはないけど」


 それに私はまだ一度もないのにいいんだろうか。


「約束してくれる? わたしの大好きなお姉ちゃん」


 私は額を離して、右手の小指をすっと彼女に向ける。指切りげんまん。遥か昔、今となっては白亜紀とそう変わらない遠い日に、ベッドに横たわる史織と交わした約束を覚えている。

 元気になったらいっしょに遊ぶ。なんで叶わない約束しちゃったかな。ほんともう……なんでなんだよ。

 

 私たちの指が絡む。お決まりの台詞は途中で切れてしまう。


「お姉ちゃん?」

「み、見るな! 馬鹿、アホ、おたんこなす! どじまぬけ!」


 滲む視界、回らない舌で私は罵声を浴びせる。目元をこすって彼女を見た。史織は困ったように笑っていた。そんな笑い方もできたのねって、また一つ彼女を知る。


 私は妹にあとどれだけのことを教えられるんだろう?




 綺麗なまま死ねそうにないかもと聞いて笑えなかった。

 十六歳の冬、史織の意識は虚ろなことが多くなった。




 キスを百回したら彼女といっしょに死ぬことを決めていればよかったのかな。そんな後悔を私にさせないよう、彼女は百三回目のキスのときに私に「生きて」とお願いしていた。彼女自身より先に死なないことはもちろんのこと、ドジを踏んで、しょうもない死に方するなと。

 広い世界を見て。小さな病室じゃ叶わないことをたくさん叶えて。

 そんなことを真面目に言ってきた。だから「しゃーなしだからね」と震えた声で返事してやった。そうしたら笑った。史織は笑っていた。

 

 


 私が彼女のお願いを反故にして、心変わりし、いっしょに死ぬことを選ぶ前に、史織は死んだ。季節は春。嵐の後のよく晴れた日だった。


 そして私は生きることにした。



 

 時が過ぎていく。

 季節は廻り、世界は回る。

 



 たとえば麗らかな陽気の下で、重くなった瞼の裏に、微笑む史織をふと思い浮かべる時、彼女を天使に喩えるほど私は落ちぶれていない。彼女は精一杯にこの世界を生きた一人の女の子であり、私の最愛の妹で在り続けるのだから。

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不治の病に冒されている妹と約束するお姉ちゃんの話 よなが @yonaga221001

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