29:名残

 世界の数は無限に等しい。俺たちの言う『異界』とは単なる「異なる世界」だけでなく、『こちら側』が辿らなかった運命の行く先――並行世界と呼ばれるものも含む。どれだけ些細な出来事でもそこから世界が分岐していくと考えるならば、到底人には把握できない数の『異界』が生まれているということになる。

 そして、それらの『異界』は常に『こちら側』と近づいたり離れたりしながら巡っているのだという。異界潜航装置は、『こちら側』に限りなく近づいた『異界』にアンカーを打って扉を開くという仕組みだ。故に、俺たちが一度観測した『異界』を再び観測することは、一部の例外を除いてあり得ない、と言っていい。

 だから、俺はとっくに諦めていたつもりだったのだ。

 数年前、『異界』の扉を開く実験の末に、ごっそり消えた上の世代を探すことなんて。

 俺とあいつ――リーダーがそこに居合わせなかったのは単なる偶然に過ぎない。あいつがあの日に限って遅刻しなきゃ、きっと、俺たちも親父たちと一緒に『異界』の彼方に消えていたことだろう。それが果たしてよかったのか、悪かったのかは、未だにはっきりとしたことは言えない。

 いや、正確に言うなら、「俺は」よかったと思っている。

 戻り道のない旅路なんて正直考えただけでぞっとする。『こちら側』に築いた全てを捨て去ってまで行く道理が無い。俺には妻もいれば子供もいるわけで、何にも代えがたいそいつらを置いて一人だけ好き勝手に消えていくなんて真似、できっこないのだ。

 だが、あいつは俺とは違う。

 あいつはそもそも『異界』に用があって異界研究者を志した身だ。だから、本当は師である親父たちと一緒に行きたかったのではないか、と思うことがある。もちろん、あいつ自身がそう言ったわけではないから、何もかも俺の勝手な憶測でしかないのだが。

 ともあれ、無限に増え続ける『異界』のどこかに消えてった奴を探すなんて、土台無理な話だ。

 ……そう、思っていたのだ。異界潜航装置を用いた、異界潜航サンプルによる観測を開始するまでは。

「何もかもが『縁』なのよ、旅人さん」

 かつて、黒いとんがり帽子の魔女は、Xにそう言った。一つとして同じでない『異界』を旅しながら、何度もXと顔を合わせている、絵に描いたような魔女。何もあの女がXを追いかけているわけではなく、一度、出会ったことにより結ばれた縁がお互いを引き合わせるのだという。

「目に見えるものではない、けれど確かにそこにある。一度結ばれれば分かちがたいもの、それが縁ってものなの。だから、これからもよろしくね」

 と、魔女はディスプレイの向こう側で笑っていた。

 もちろん、それが真実かどうかなんて俺に確かめる術はない。もしかしたら好きでXを追って来ているのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

 ただ、異界研究者として念のための予防線こそ張っているが、俺という個人は魔女の言葉を内心で信じつつある。信じたい、と言い換えるべきかもしれない。

 俺はとっくに諦めていたから別に構わないが、もし、魔女の言葉が事実だというなら、今もなお諦められずにいる、あいつが報われるに違いないのだから。

 Xの視界を映すディスプレイの向こうには『異界』がある。

 今日の異界はどこか懐かしさを感じる夕暮れの街。今より少しばかり昔の様式の建物が並ぶ住宅街を歩いていたXの視線が、公園に向けられる。住宅街の中にぽつんと存在する、ちょっとした遊具が置かれているだけの、本当に小さな公園だ。

 とはいえ、Xが本当に見ようとしたのは、公園ではなく、そこにいた子供の姿であったに違いない。

 遊んでいた小学生と思しき子供たちが、帰宅を促す放送に合わせるように、地面に投げ出していたランドセルを背負い、めいめいに別れの言葉を告げて駆け出していく。『こちら側』に限りなく近い『異界』の光景、それだけといえた。Xが特別目を留めるようなものでもない。

 しかし、その子供たちの中に、見覚えのある姿があったのだ。

 白いワンピースに麦わら帽子。その下から長い黒髪を揺らしている、ブランコに乗っている少女の後ろ姿。公園で遊ぶ子供たちに混ざっていながら、放送に急き立てられてその場を去ることはなく、去り行く子供たちにほっそりとした手を振って。

 次の瞬間、その後ろ姿が、空気に溶けるように消え失せた。

「……っ」

 俺の横でディスプレイを見つめていたリーダーが、目を見開いている。

 そう、顔も見えなかったけれど、あのワンピースと帽子には見覚えがある。そして、俺はあくまでXが目にしたその姿でしか記憶していないが、きっと、こいつはもっと「確信」に近く、その後ろ姿を記憶しているに違いないのだ。

 何せ、それは――こいつにとっての、たった一人の「片割れ」であるはずなのだから。遠い昔に『異界』に消えてそれっきりの、片割れ。

 かくして、子供たちの気配がすっかり消えた。Xは空っぽになった、静かな公園に足を踏み入れる。さほど背の高い方ではないXだが、それでも子供たちの背丈に合わせて作られた遊具はXの目から見ると随分と小さく見える。

 その時、きぃ、とスピーカーから音が聞こえてきた。

 Xの視線がそちらに――先ほどまで白いワンピースの少女が座っていたブランコに向けられる。

 風が吹いているようには見えないのに、ブランコがわずかに動いているのだ。そこに座っていた誰かの名残であるかのように、どこか寂しい音を立てて、揺れていた。

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