28:方眼

 ディスプレイに映るのは、壁だ。

 今回、Xが降り立ったのは、四方をコンクリートの壁に囲まれた空間だった。天井には等間隔に灯りが埋め込まれており、しらじらとした光を投げかけている。

 スピーカー越しには何かの音が聞こえている。ざわめきの波のような。壁の向こうで多くの人がめいめいに何か声をあげている、ような。だが、Xの目に映るのはどこまでも無機質な壁、それから壁に切り取られた穴しかない。

 ぐるりと視界が巡る。それぞれの壁には、人ひとりが通れそうな四角い穴がある。穴は不思議と真っ暗で、向こう側を見通すことはできない。しかも、どれも全く同じ壁の同じ穴に見えるため、果たして元々どの方向を見ていたのかもすぐわからなくなる。それともXにはわかるのだろうか? 案外わかりそうだな。あいつ、何かよくわからん勘持ってそうだもんな。野生動物か何かか?

 ともあれ、その場に立ち止まっているだけでは観測にならない、と考えたのだろう。Xはサンダル履きの足を踏み出し、四方の穴の一つをくぐる。

 闇色の膜を越えた先は、元いた場所とそっくり同じに見える、四方を壁に囲まれた部屋だった。壁の穴も同じ。Xは入ってきた穴を振り返り、そこが闇に閉ざされていることを確認する。それから前を向いて、今度はXから見て左側の穴を選んでくぐる。

 その先もまた、四角い空間。まるで、同じ部屋をぐるぐると巡っているかのようですらある。

 これは、もしかして、同じような正方形の空間が方眼状に延々と続いているのではないか?

 とはいえ、仮に規則性がわかったところで何になるのだ、と言われると首を傾げざるを得ない。この空間が何のために存在しているのかもわからないのだ。Xもわずかに首を傾げる気配。

 それでも立ち止まることはせず、今度は右手の穴をくぐる。想像通り、次もまた四方を壁に囲まれた同じような空間で、俺にはまるで変化があるようには見えなかったのだが、Xはぴたりと足を止める。

「……わずかに、甘い匂い、が、します」

 押し殺したXの声がスピーカーから聞こえてくる。異界潜航装置はXの視覚と聴覚をトレースしているが、嗅覚や味覚、触覚はトレースできない。いや、トレースすることは不可能ではないらしいのだが、それを俺たちがどう受け取ればいいか、という点が解決されていないため実装されていない。

 故に、Xは律儀にも自分が感じているものを声に出す。己の耳を通して、俺たちに聞かせるために。

「不愉快な類の、胸が焼けるような」

 そこまで言ったところで、Xの視界が揺らぐ。ディスプレイに映る壁が、穴が、ぼやけた輪郭に見えてくる。Xは己の異変に気づいたらしく、己の手を持ち上げて視界に映す。手を握って開く、だがその輪郭はやはりぼやけて見える。それどころか、徐々に視界が狭まってくるのを感じる。

「……、毒……?」

 ぽつり、Xが呟く。俺たちには感知できない「甘い匂い」にXの感覚を狂わせる何かがある、ということか。ディスプレイの監視はリーダーに任せて、異界潜航装置のコンソールに取りついているエンジニアと新人、それから二人の後ろからコンソールを覗き込むドクターの方を見る。

「Xの状態はどうだ」

「このデータだけでは断定できないが、奴の推測はおそらく正しい。この部屋に入ってから、意識体が突然異常をきたしているのは確かだ。目には見えない何かがXに作用してる」

 ドクターの返答と同時に、Xが動き出したのを横目で捉える。この部屋に長くとどまるのは危険と考えたに違いない。ふらつく視界で、それでも可能な限り真っ直ぐに。穴の一つを選んで、闇をくぐる。

 またもや同じように見える部屋がディスプレイに映ったところで、「匂いが消えました」とXの声が告げる。だが、歪んだ視界はそう簡単には戻らないようで、しきりに目を擦っている。

 そのまま、一歩を踏み出しかけて――、その足を引っ込める。

 何かがあるようには見えない。今までと同じ、ただ、がらんとした四角い部屋でしかない。少なくとも俺にはそう見えた。だが、Xは何を考えたのか、己の履いているサンダルを脱いで、部屋の真ん中に向けて投げ放つ。

 すると。

 現在Xが立っている場所からほんの一歩前方の天井が落ちてきて、投げ放ったサンダルを押しつぶした。一度落ちた天井はするすると音もなく登っていき、無残な姿となったサンダルだけが残された。

 わあ、と、遠くのざわめきが強くなった気がしたのは、気のせいか、否か。

「罠、ですね」

 ぽつり、とXが呟く。こいつには何か見えてたのか? もしかして、天井に違和感があったとか、そういうことか? 後でよくよく画像データを見返す必要がありそうだ。それにしたってXの判断には舌を巻く。

 Xの視界が天井を――視界の感じからするに、落ちてきた天井ではなく、落ちずに残った安全地帯にあたる、壁に沿った辺りの天井を見つめる。等間隔に並んだ灯りは、Xに何を語ってくれるわけでもないのだが。

「……監視の、気配。灯りに、カメラでも、仕込んでますかね」

 Xは声に出して分析する。つまり、Xの一挙一動が監視されてるっていうことか。常に聞こえているざわめきのような音声は、Xを監視している何者かたちの声だというのか。確かにそれなら、Xの行動に合わせてその響きに変化が生じるのもわかる。わかりはする、が。

「いつものことだけど、異常な勘の良さよね」

 リーダーがやや呆れすら込めて言う。客観的に観測している側である俺たちはともかく、Xは『異界』の只中でそれを体験しているのだ。思わぬ出来事に遭遇すれば冷静さを失っても何もおかしくはないのだが、Xはどうも危機を前にすると逆に頭が冴えるタイプなのか、酷く落ち着いて己の立たされている状況を分析するところがある。

 そして、同時に。

「気に入らない、ですね」

 ――時折、妙な剣呑さを滲ませるのだ。

 見られているのが気に入らないのか、試されているのが気に入らないのか。もしくはそのどちらもか。Xは多くを語らない男だが、その少ない言葉に込められたものから覗くのは、冷静さの一方でちらつく刃のような気配だ。奴の基準で「気に入らない」ものを排除することに躊躇いがない、そういう類のもの。

 ここから先に進むのに危険が伴うのはもはや明確で。

 それでも、Xは裸足で床を踏む。落ちてくる天井を避けて、次の穴へと。

 観測は続く。どれだけ続くかもわからぬ方眼の終わりなど知る由もなく、しかしその足取りに迷いはない。それどころか、どこか決然とした調子すらある。

 もし、これを「観て」いる連中の前に辿り着くことができたら、こいつは何をしでかすつもりなのだろう?

 興味はあるが――、そうはならない方が幸福かもしれない。Xにとっても、Xを観ている連中にとっても、Xの行動の一部始終を見せつけられる俺たちにとっても。観測している身でなんだが、そう思うことくらいは、許してほしい。

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