27:渡し守

 Xが瞼を開くことで、闇を映していたディスプレイが明転する。

 Xの視界いっぱいに広がっていたのは、水面だった。重たい曇り空の下、延々と続く水面。ゆったりとした流れが見て取れるから、川、だろうか。見渡す限り水面ばかりで岸が見えない巨大な川の只中で、Xはどうも木で作られた小舟に乗っているようだった。Xの視点が己の座る場所に向けられて、無骨な手が小舟の底を叩く。

「アヒル、ではない……」

 ――アヒル?

 怪訝に思うのと同時に、潜航装置の監視をしているエンジニアが噴き出した。何がツボに入ったのかわからんが、堪えきれない笑いを漏らしながら背中を丸めている。俺はこいつの笑いどころがいつも理解できずにいる。

 笑い上戸のエンジニアは置いといて、ディスプレイに視線を戻せば、Xの視界がぐるりと巡り――視線が、ぶつかる。

 じっとXを見ていたのは、舟の後ろに立ち、櫂を握っている人物だった。ぼろぼろの衣をまとい、目深にフードを被っているが、かろうじて覗いている目がXを見据えている。

 顔立ちの印象は酷くぼんやりしていて、どういう顔をしている、と一言で表現できない。それが男か女かもわからないし、若いのか老いているのかもわからない。Xの目から見てそういう形に見える、というだけで、実態はまるで異なるのかもしれない。『異界』でXが出会う者は、得てしてそういうものだ。あくまでXの目を通して「そう見える」だけでしかない。

 そう、何もかも、何もかも、『異界』の姿はXの主観に過ぎない。そのことを、観測している俺たちも頭では理解しているつもりだが、時折すこんと意識から抜け落ちることがある。

「あの、すみません」

 Xの声がスピーカーから聞こえてくる。決して大声を出しているわけではないが、不思議とよく響く声。それは酷く静かな『異界』において、異物のようにも思われた。きっとX自身も俺と似た感想を抱いたに違いない。僅かな沈黙と、ごくりと唾を飲み下す音は、これ以上、静寂を破って声を出すことへの躊躇いのようにも思えた。それでも、Xは言葉を続ける。

「ここは、どこですか。……この舟は、どこに、向かっているのですか」

 それは、櫂を握る船頭への問いかけ。しかし、船頭は何も答えなかった。口を閉ざしたまま、漕ぐ手を止めることはない。

 舟はだだっ広い水面を行く。櫂が水を捉える音が、静寂の中に一定のリズムを刻んでいる。

 Xは「あの」ともう一度船頭に話しかけたが、返事がないどころか、声が聞こえているようにすら見えなかったため、Xもアプローチを諦めたようだ。しばらくは船頭と、船頭の痩せた手が握る櫂を見つめていたが、やがて視線を外し、舟の縁から身を乗り出す。

 川はもの言わずただ流れゆくばかり。Xの目に映る水面は、お世辞にも綺麗とは言い難い淀んだ色を湛えており、底はまるで見えない。どのくらい深い川なのだろうか、舟の上から見る限りでは全く想像がつかない。

 ただ、舟の進行に合わせて揺れる水を見つめていると、深く、深く、吸い込まれていくような心地がする。

 昔、川には河童がいて、川べりで遊んでいたら引きずり込まれるぞ、なんて脅されたことを思い出していた。あれは子供だけで川で遊ぶのは危険だから、と大人が作った話ではあったのだろうが、事実の一面を示してはいるのかもしれない。水というのは、古くから今に至るまで何故か人を引き込むものがある。俺はそう思っている。

 Xはしばらく水面を見ていた。ただ、魚の姿ひとつ見えず、どれだけ見つめていても変化らしいものはない。どこまでも静かな水面。

 船頭は何も語らない、水面も何も語らない。自ら進むことも戻ることもできない以上、Xにできることは何もなかった。水面から視線を外して顔をあげた、その時だった。

 突然ディスプレイの視界が傾ぐ。何だ、と思っていると船の縁についていたXの手に何かが絡みついている。それは黒々とした、細い毛の束。それこそ、人の頭から抜け落ちた、髪の毛のような。それは、今まで何一つ変化が無いように見えていた水の中から現れていて、音もなく舟に張り付いたそれが、手首に絡んだと思えば腕を這いあがってくる。もう片方の手でそれを引きはがそうとするも、そちらの手にも毛が絡みついて離れてくれない。

「――っ、ぐ」

 水を吸ったそれが、身体を絡め取り、やがては喉元に至る。首を強く締め上げられているのか、声ともつかない苦悶の響きがスピーカーから聞こえてくる。

 霞む視界を通して見れば、水面から突き出しているのは毛だけではなかった。ぶよぶよと、醜く膨らみ崩れた、人間の手が。いくつも、いくつも、手招き、掴み、Xをこちら側に引き込もうとして――。

 ぐらり、Xの体が傾ぐ。このままでは水の中に引き込まれてしまう。今すぐ引き上げるべきではないか? とリーダーと視線を交わした、その時だった。

 こーん、と。高らかに響いたそれが何なのか、俺には一瞬わからなかった。

 どうも、櫂が船体を叩いた音だったらしい、ということは、次の瞬間、Xに向かって伸びていたそれらが櫂によって薙ぎ払われたことでわかった。水を纏った櫂は、まるでそれ自体が鋭利な刃物であるかのごとく、恐るべきそれらを切り裂いてゆく。

 かろうじて開いている目――Xは自分がどうなろうと観測を続けようとするから、意識して目を開こうとしていたに違いなかった――に映る船頭の横顔は、相変わらずぼんやりとした印象で、何一つ意識に焼き付いてくれない。

 だが、襤褸切れのような衣を翻し、長い櫂を振るい、なおもXを引きずり込もうとする毛や手を切り払い、叩きつけ、水の中へと還していくその姿は、どこか古い物語の一幕を見ているかのようでもあった。つまり、そのくらい現実味が薄い、ということだ。

 川の底から現れたそれらは船頭の反撃に諦めたのか、ずるずると舟から離れていく。そして、その全てが水の中に沈んでいったところで、舟の上にはまた、静寂が戻った。何事もなかったかのように。

 Xはその場に座りこんだまま、動けずにいた。静けさの中に、荒い呼吸が響く。嫌な音が混ざっているところから、もしかすると喉をやられたのかもしれない。それでも視線はあくまで船頭を見つめている辺り、この男の苦痛への耐性と、己がどうなろうと与えられたタスクを遂行しようとする意志を感じずにはいられない。

 船頭はしばしぼんやりとした顔でXを見つめていたが、やがて舟を漕ぎだす。

 Xは痕の残る手首をさすりながら、舟の進行方向に視線を向ける。

 いつの間にか、重く立ち込める雲の間から、光が差し込んでいた。

 薄明光線、もう少し詩的な表現を使うなら天使の梯子。Xの目には、聖書の一節のように、実際に天使が上り下りしている様子が見えているわけではない。けれど、生ける者を引きずり込む淵にぽつりと浮かぶ舟と、その深淵に差し込む一条の光芒には、何か特別な意味があるかのように思えてくる。

 舟は行く。何も語らぬ船頭と、Xを乗せて――光の射す方へ。

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