24:ビニールプール

 明晰夢って言葉がある。

 これは夢であると自覚しながら見る夢。アタシはどうも、この明晰夢ってやつと縁深い。それは大体とびっきりの悪夢で、夢だとわかってるなら覚めようと働きかけたり、そうでなくとも夢の中を好きにできりゃいいんだけども、そうはいかない。

 だから、案外アタシが見てるのは「夢」のようで全く別のものなのかもしれない。そういう見解を示したのはリーダーだったはずだ。

「古来から、夢は『異界』の入口に一番近いとされている。特に『異界』の知識庫を覗き込めるあなたの場合、覚醒時には意識的に目を向けないようにしているあれこれが、睡眠時の意識を手放している時に、自然と目に入ってしまっている可能性が高いと思うの」

 ――そう、夢を通じて『異界』と接続している可能性もある。

 アタシもまあ、その可能性を考えなかったわけじゃない。いくら薬で誤魔化していても、それはアタシの意識の上でちょっと楽になってるだけで、根本的な解決ではなく。アタシの頭がちょっとヤバい場所に繋がってるという事実がなくなってくれるわけじゃない。

 だから、夢と思っているこれが一つの『異界』であり、眠ってる間に意識一つで迷い込んでいる、としても何にも不思議じゃない。アタシの異界潜航装置だって、元をただせば同じような仕組みなんだから。

「とはいえ、これは想定外なのよね……」

 さて、アタシは今、広々とした水面の上にいる。見上げる空は真っ白で、これ空っていうかもしかしたら天井かもしれない。まあ、目に見えているものから断定はできないってこと。

 で、アタシがいるのは水面に浮かんだ黄色い何かの上だった。正直これが何なのかはわかんないけど、下手に動くと滑って水の中に落ちそうなので大人しく座っていることしかできない。いくらちょっと泳げたところで着衣じゃやっぱ難しいし、そもそもこの水が見た目通りの「水」である保証もない。

 まあ、こういうよくわかんない状況それ自体はアタシの夢にはよくあることだ。何ならいつもの夢より俄然平穏ですらある。

 なので、唯一想定外なのは。

 アタシの横に、Xが体育座りしていることだ。

 Xはちぐはぐな色の目でじっとアタシを見ている。その手に『こちら側』では常につけているはずの手錠がないとこを見るに、やっぱりここを『異界』と認定してるんだろうなあ、少なくともアタシの頭は。

 まあ、こいつがアタシをどうこうするとは全然思えないので、肩の力を抜く。Xはやると決めれば手錠をしてたってやるだろうし、それ以外の時には絶対にやらない。そういう奴だと思っている。

 このXがアタシの妄想なのか、それともほんとにアタシの夢に迷い込んだX本人なのかは知ったことじゃない。ただ、アタシを見つめて所在なさげにしているさまは、それこそ指示を待っている時のXそのものであった。

「あー、別にいいわよ、喋って。どうせアタシとあんたしかいないんだし」

 Xは許可を出さないと喋らない。『異界』ではリーダーが「自分で判断しろ」と指示しているから自発的に喋るが、『こちら側』では別に禁じているわけでもないのに頑として口を開かない。

 どうも、これに関してはX曰く「自分が口を開くとろくなことにならない」ということで、基本的に大人しく従順なXの数少ない自己主張――もしくはわがままの一つだ。多分、過去に色々と嫌なことがあったのだろうな。

 ともあれ、Xは許可を得たと判断したらしく、ひとつ小さく頷いて、それから口を開いた。

「ここは、どこですか?」

「それがわかりゃ苦労しないのよ。オーケイ?」

 Xはこくりと頷いた。物わかりがよくてよろしい。

「ただ、多分『異界』なんじゃないかと思うのよね。アタシ、寝てる間に変な場所にいる夢をよく見るんだけど、どうも意識だけで『異界』に行ってるんじゃないかって話でね」

「なるほど……?」

「それは、言ってることはわかんないわけでもないけど微妙に腹落ちしてない方の『なるほど』ね?」

 その口癖やめた方がいいと思うわよ、やめらんないから口癖って言うんだろうけど。

「あんたも、寝てる間に迷い込んじゃったのかもね。いつもの通りなら何もしなくても覚めるから、ぼーっとしてりゃいいわよ」

 逆に言えば、どれだけじたばたしてところで目が覚めない、ということでもある。明晰夢なんだから少しくらい好きにさせてくれたっていいのでは、と思うのだけど、上手くいかないもんよね。

 もし「いつもの通り」でなかったら? 目が覚めなかったら? それはアタシの知ったことじゃない。このだだっ広い水面の上で、二人きり、延々と揺蕩っている、それだけ。

 すると、Xが不意にアタシの名前を呼んだ。そういや、Xからしっかり名前呼ばれるの初めてかもな。虚空に逸らしかけていた視線をXに戻す。

「どうしたの?」

「……その、あなたは、『異界』の知識を持っている、と聞きました」

「誰から――、って、そういや新人が言ってたか」

 あいつはXに対してはやたらと口が軽い。とはいえ、Xが外に言いふらさない――Xはそういう性格じゃないし、仮に言いふらしたくとも外界と接触する手段がない――ことをよくよく理解してのことだ。あと、Xは知っといた方がいい、とも思ったんだろうな。あいつは余計なことはしない、その点において信頼している。

「その知識を用いて、異界潜航装置を作った、とも」

「そうよ。知りたくて知ったんじゃないけど、一度知ってしまったことを知らなかったことにはできないし、せいぜい有効活用してやろう、と思って。どうせ、いつか自分が必ず通る道なんだから、試行回数は多い方がいい」

「……どういうこと、ですか?」

「あー」

 夢の中だからって喋りすぎたな。アタシも新人のことは言えないってことだ。とはいえ、ここにいるのがXだけであるというなら、言ってしまってもいいか。どうせ、他のスタッフは――監査官も含め――知ってることだし。

「アタシがこのプロジェクトにいる理由は、『いつかのアタシ自身のため』だから。アタシは『異界』に行きたい。もっと正確に言うなら、この知識をアタシに与えた奴を探しに行くつもりでいる」

「それは……、どうして、ですか」

「そりゃあもう、アタシの人生めちゃくちゃにした奴にご挨拶の一つや二つしないと嘘でしょ? 何なら、ばっちり責任取らせてやるんだから」

 流石に、ここまではリーダー以外には話してなかった気がするけど、まあいいや。どうせ相手はXなんだし。

「取り返しがつかないことを嘆いてても仕方ないでしょ? なら、今の自分にできることをするしかない。そういうこと」

 Xはぱちぱちと瞬きをして、それからうつむき、難しい顔をしながら手で片目を隠すようにした。見えていない方の、人より淡い色をした片目を。

「……取り返しが、つかない、ことを」

 あ、これ、もしかして地雷踏んじゃったかな。珍しくめちゃめちゃ動揺してるじゃんこいつ。

 とはいえ、別にXがどうであろうと責める気はないし、正直知ったことじゃないと思ってる。ただ、その一方で気になることはあったから、更にもう一歩踏み込んでみる。

「実はあんたのその目も、アタシの知識と似たようなものかしら? 自分のものではない、誰かさんから与えられたもの」

「……っ」

「あ、図星っぽい」

 これは本当に想像に過ぎなかったのだけど、完全に根拠がないってわけじゃない。その目が『異界』に由来してるらしいというのは既にわかってたし、それでいてX自身は『異界』について無知であるから、X自身が『異界』に縁のある存在ではないらしい、ということ。

 ともあれ、Xの反応はアタシの仮定が百点満点でないとしても、結構な割合で当たっていることを物語っていた。言葉にはならないにせよ、激しい動揺が目に見える。言葉は少ないし表情にも乏しいのに、めちゃめちゃわかりやすいんだよな、こいつ。それでよく殺人鬼なんてやってられたわよね。

「まあ、どうだっていいんだけどね。アタシはアタシ、あんたはあんた。あんたが嫌ならこれ以上は何も言わない」

 元より話しすぎているのだから、とっとと口を噤むべきだったとは思うのだけど、夢だからいいかなって思っちゃったのよね。あとは、そう、アタシとXは別物だとわかっていても、何とはなく感じる「同類」の匂いに気が緩んだというのもある。

 Xはそれ以上何も語らなかった。要するに、言いたくないし聞きたくもないってことなんだろう。リーダーならここで容赦なく踏み込んだ気がするし、聞かれればXはきちんと答えただろう。だがここは研究室ではないし、嫌なら嫌で構わない。そういうこと。

 アタシはXから視線を外して、大きく伸びをする。座ってる場所がどうにも不安定だから、伸びをするにも少々気を遣う必要があるわけだけど。

「しっかし、ここ、どういう場所なんだろな」

「……プール、では、ないですか」

「プール?」

「端が見えます」

 Xがつい、と指さした先には、確かにぼんやりと水面の終わり、向こう岸が見えた。やけにカラフルな岸。人工物の気配。プール、なるほどね。数多の『異界』を越えて今もなお健在のXらしい、極めて現実的な分析だ。

「あと、これは……、その、これ、何て言えばいいんでしょう」

 無骨な手が、てちてちと座っている場所を叩く。自分でも黄色いそれの表面を触る。僅かにざらりとした手触りのある、しかし基本的にはつるつるとした硬いもの。曲線を描くそれは、すぐ横辺りから盛り上がっており、アタシの頭の上の辺りまで伸びていて――。

 あ、もしかして。

「アヒルちゃんかこれ」

 黄色い、アヒルの玩具。お風呂とかに浮かべる、あれだ。

「それです」

「それかぁ……」

 生真面目に頷くXに、溜息まじりに天を仰ぐ。

 だだっ広いプールに浮かんだ、巨大アヒルちゃんの上におっさんが二人。外から観測する者があったとすれば、そりゃめちゃめちゃシュールな光景であったに、違いない。

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