17:砂浜

 履き古したサンダルが、白い砂を踏む。寄せては返す波が、Xの裸足を濡らしている。

 今日の『異界』は、見渡す限りの海と砂浜だった。それ以外のものは何も見えない。波が砂を濡らした、その境目に沿うようにXはひたすらに歩いていく。

 ただただ平坦な、青い海が描く水平線と、白い砂浜による地平線。唯一そこに「高さ」をもって存在するのがXただ一人であるということが、砂に落ちる影からもわかる。

 雲一つない青い空から降り注ぐ陽光が肌を焼いているに違いないが、Xは何を言うでもなく、黙々と歩き続けている。Xにはそれが致命的なものでないと判断する限り、多少の問題を踏み倒して進むところがある。

 このまま、『潜航』の制限時間が来るまで歩き続けるつもりだろうか。

 退屈な――けれど、いつ何が起こるかわからない、ということをよくよく知っているだけに、目を離すこともできない――観測が続く。

 Xは休息らしい休息をとることもなく、淡々と、変わらないペースで歩む。

 どうやら、『潜航』している意識体には当人がそれと認識する肉体の性能が反映される、らしい。死刑を宣告されてから八年ほど経つはずだが、その間も身体を鍛えることをやめずにいたXは、今もなお優れた身体能力を誇る。更に『異界』においては自己暗示にも近い「自分には可能である」という意志によって、『こちら側』の肉体よりももう少しだけ高いスペックで振舞えるのかもしれない、と分析したのは異界潜航装置を作ったエンジニアだったはずだ。

 だから、『異界』におけるXは、歩き詰めでもほとんど疲れらしい疲れを感じていないのかもしれない。ただ、リーダーから与えられた「可能な限りその目と耳とで観測する」というタスクを愚直にこなしている。

 その時、だった。

 わずかに、Xが息を飲むような音がスピーカーから響いた。

 ずっと変わらなかった視界に、変化が生じたのだ。

 行く手の砂浜の上に何かがある。それはごく小さな点のように見えたが、しかし今まで何一つX以外の存在を認められなかった白い砂の上に、確かにそれ以外のものがある。Xの歩む速度が速まったのがディスプレイの動きから伝わってくる。

 それが単なる点でないことはすぐにわかってきた。歩を進めてゆけば、ひとつ、またひとつと見えてくるものが増えてきて、やがてXの目がそれの正体を捉えたときには、それは思ったよりも大きく、また数多いことが理解できたのだった。

 どうやら、それは船の残骸のようだった。

 正確にはそれ以外のものも転がっていたようだが、最も大きなものがそれだった、ということ。折れたマスト、壊れた船体。それが、一つではなく複数。もはや船としての形を成していないが、それでも転がっているものの材質から、おそらく船だったのだろうと想像できるようなものもある。

 サイズもまちまちで、ボートのような形のものから、もっと大きな、数十人の人間が乗って動かすようなものまで。どれもこれも、壊れて使い物にならないということだけが一致していた。

 一体、この船はどこからやってきたのだろう。海と砂浜こそあるが、しかし、Xの視線が届く限りでは、それ以外のものが見えない。船を造れるような場所も、その材料だって、一体どこにあるのか。そもそも、それを作り、使う者の姿だってないのだ。

 己で分析できないにせよ、自分の目を通して僕らが『異界』を観測し、分析していることをよくよく理解しているらしいXは、その船の残骸をひとつひとつ丁寧に見て回る。ある船の腹の辺りに回り込んでみれば、荷を運んでいる途中に座礁したのか、きらきらと輝く貨幣や宝飾品が壊れた箱から飛び出しているのを見つけた。とはいえ、Xはその手の光物には興味がないのか、他の船の残骸と同じく、単に観測しただけで終わった。持ち出したところで持ち帰れない、というのもそうなので、Xの判断は正しいのだが。

 人、もしくは生きたものの気配はない。そう、海と砂浜はあれど、海の生き物の気配すらない。ただ、波に洗われ、削り取られ、崩れゆく船の残骸だけがそこにある。それだけはXの視界越しにもはっきりとわかった。

 観測を続けているうちに、いつしか傾いていた太陽は、海の向こうに沈んでいこうとしていた。それに合わせて空も色を変えていく。澄み渡った青から、グラデーションを描き、焼け付くような赤へと。海と、波に洗われる砂浜もまた赤く染め上げられていく。

 そして、こちらもそろそろ時間切れだ。時間のカウントは今日は僕の役目だ。本来、監査官の仕事でないといえばそうだが、このプロジェクトに――そもそも異界研究者という人種そのものに、人手が足りないのは事実であるから。

「リーダー、そろそろです」

「了解。じゃあ、引き上げの準備を――」

 逸らされかけた彼女の視線が、一転してディスプレイに釘付けになる。

「……っ、待って」

 僕もまた、リーダーの視線を追う形でディスプレイを見て、はっとする。

 世界が、割れていた。

 夕暮れに赤く染まった空と海に、音もなくひびが入り、ぽろぽろと崩れていく。そして、割れて開いたその向こうには、同じように海が広がっていたが、しかし、その海は強い陽光に照らされた青い海。Xが立っている『異界』の景色とはまるで異なっている。

 割れたその向こう側の海には、船の影が見える。立派な帆を広げた船は、Xが立っている場所に転がる役目を終えた残骸とは明らかに違う、今この瞬間に人を乗せて海を行くもの。

「ここは、船が隠される、、、、場所なのね」

 ぽつり、リーダーが言った。僕はXの目を通して映る『異界』の光景から目を逸らさぬままに問う。

「隠される、というのは――、神隠しということですか」

「ええ。流れ着いているのは、全て、Xが立っている『異界』のものではなく、外の世界のもの。あのひび割れを通ってこの『異界』に迷い込んでしまった船の、なれの果て」

「どうして、そう言い切れるんすか?」

 怪訝な新人の声。確かに、それは僕も不思議に思う。何せ『異界』の現象は何一つ断言できるようなものはない。無数に存在する『異界』には、それと同じだけの理がある。『こちら側』の常識を物差しにすることなどできやしないのだ。

 それを一番よく知っているはずのリーダーは「そうね、断言するのはよくないわね」と苦笑とともに言いながらも、こう、答えるのだ。

「それでも、私は、この景色を知ってるから」

 夕焼けの空に入るひび割れ。その向こうに広がる、もう一つの世界。Xの視界を見つめるリーダーの横顔は、何かを懐かしむようであり、それでいて――。

 僕はリーダーがどうしてこの場にいるのかを知っている。ただし、それはあくまで書類上の話であり、またスタッフ同士の話から漏れ伝わる程度のものであり、彼女自身の口から直接聞いたことはなかったのだと、思い至る。

 だが、きっと。

「あの子が消えたのも、こんな、割れた夕暮れの空だったから」

 リーダーが探し求めているものの一つがここにあったのだ、ということ。

 僕は、彼女の細められた目に宿る強く鋭い光に、観測の役目も一時だけ忘れて、見とれていた。

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