16:レプリカ
世界は一つではない。それは、僕が物心つく頃には当たり前のこととして身についていた知識であった。
僕の家は代々『異界』を監視する血筋であり、『異界』からの来訪者に対処したり、『異界』に関わった者を保護したりという形で『異界』と関わってきた。
だから国民のほとんどにその事実が知られていない、ということを知るようになったのは、所謂「一般」の人々の間に混ざって暮らすようになってから。
とにかく、僕にとって『異界』は確かに存在するものであり、しかし、そう簡単に触れられるものではない、という認識であった。もしくは「みだりに触れてはならない」と言い換えるべきか。
かの世界と『こちら側』とが相容れるとは限らない。話が通じたからといって、同じ論理が通じるとは限らない。『異界』と接触して帰ってきたものは限りなく少なく、『こちら側』に戻っていたとしても無事である者は皆無に等しい、という僕らの持つ統計からも明らかで。
故にこそ、このプロジェクトは過去に類を見ないものといえる。
存在を知りながら消極的な接触にとどまっていた『異界』への扉をこじ開け、『潜航』する。それは「無事に戻ってこられる」システムありきであり、極めて限定的でまだ未確定要素は多いとはいえ、安全な干渉を可能とした異界潜航装置がどれだけ画期的なのかがわかる。まだ装置の設計図はエンジニアの頭の中にしかないが、それが出力可能になれば、プロジェクトはさらなる広がりを見せるに違いなかった。
――その一方で。
時折、自分たちの立つ『こちら側』の足元が揺らぐような、そんな感覚に陥ることも、ある。
Xの視覚と繋がるディスプレイには、Xの背丈ほどの大きさをした、巨大な硝子のような球体がある。その中にはちいさな世界が広がっていた。立ち並ぶビル、その間を走るアスファルトの道路。それは、よくできたジオラマを思わせる精緻なもの。硝子の内側に込められているあたり、スノードームのようでもあった。
だが、その間を歩んでいく米粒のような人々や行き交う指先程度の大きさの車は確かに動いていて、それが作り物などではない、ひとつの「世界」であることを告げている。
そんな、小さな世界を閉じ込めた球体が、ひとつ、ふたつ……、たくさん。上も下もない、Xの目を通せば闇としか見えない空間に所狭しと置かれており、その全てが、同じ風景を球体の内側に閉じ込めている。
Xの視界を通して、球体の中に特徴的なビルとモニュメントを見つける。何とはなしに見覚えのある雰囲気だと思っていたが、どうやらこれは研究所の近辺を切り取った景色であるらしい。上空から見下ろすようなことがないから、すぐには気づけなかった。
この場所の具体的な場所を知らない――ここに運ばれた時にも周囲の景色は見えないような措置を取られていたはずの――Xではあるが、この景色が『こちら側』のそれと酷似していることには気づいたに違いない。傍らに立つ、自分よりもずっと背の高い『異界』の住人を見上げる。Xの目からは、それは、闇の中に浮かび上がりうっすら輝くシルエットのように見えていた。
「これは、私のいる世界に、似ていますね」
Xの言葉に、光のシルエットがわずかに首を傾け、男性のそれとも女性のそれともつかない、しかし不思議と心地の良い声で言う。
「そうかい? これはね、ある世界のレプリカなのさ」
「レプリカ、……模造品、ですか?」
Xでも、流石にその程度の言葉は知っていたか。彼は、その経歴とは裏腹に妙にものを知らず、良くも悪くも純粋なところがある。どちらかというと悪い意味の方が大きいかもしれない。
ともあれ、Xの言葉を受けて、光のシルエットは「そう」と頷く。
「私は、気に入った世界の一部のレプリカを作るのが趣味なんだ。それも一つではなく、複数ね。どうしてだかわかるかい?」
Xは問われて黙り込む。とはいえ、考えていたのはそう長い時間ではなかった。低い、囁くようでいて不思議とよく響く声が、スピーカー越しに聞こえてくる。
「比較、でしょうか。同じように作っても、完全に同じものになるとは、限りません、ので」
「素晴らしい答えだよ、君」
あくまでシルエットとしか見えず、表情があるわけではないが、聞こえてくる声は明らかに弾んでいて、Xの言葉が的外れでなかったことをありありと表していた。
「模倣した当初はほぼ完全に同じものに見えても、必ず何かが変わっていく」
例えば、とシルエットが長い指でさした球体は、確かに街並みにその原型はあれど、人や車の行き交いは絶えた廃墟となっていた。よく知る場所であるだけに、その、明らかに死の気配に満ちた景色にぞっとする。
「病が蔓延したのさ。何がきっかけかはわからないがね。こっちは突然上空から飛来した、巨大な生命体に破壊された」
そう言って示す球体の中の街並みは、すっかり破壊され尽くしていた。ただ、こちらは死病で滅びた街とは異なり、人々が少しずつ復興のために動いているのが見てとれる。
「これは大きな変化だがね、小さな変化だって楽しいものさ。気まぐれでいつもと違う道を通って、知らない店と出会う。偶然行き会った人に見とれる。今日に限って信号が全て青で、普段よりずっと早く到着する。そういう、ちょっとした違い。その繰り返しが、世界を元の形から変容させていく」
蝶の羽ばたきが嵐を起こす、とはよく言ったものだ。何かちょっとした要因で、世界は如何様にも変化していく。
「だから、一つだけじゃあ満足できない。いくつもの可能性を見てみたい。そうして、世界のレプリカを日々増やして、観察するのさ」
この光そのものである人影にとって、世界のレプリカを増やすというのは、観察対象の虫かごを増やす程度には容易いものなのだろう。生きている世界の違い、そもそもの視野の違い。『異界』によっては、こういう――それこそ『こちら側』でいうところの「神」に等しい存在と出会うことも、ある。
「案外、君も、本来は」
長い光の指が、硝子めいた球体の表面を撫ぜて。
「この中にいるひとり、なのかもしれないね」
その言葉には、背筋をその指先で撫ぜられたような、酷く嫌な心地がした。
ある世界のレプリカ、そう、光のシルエットは言った。だから、僕は『こちら側』をオリジナルとしたレプリカなのだと思った。当然のごとく、自分がオリジナルであると疑わなかった。
だが、確かにそれよりもずっと。無数に複製された一つである可能性の方が高いのだと、思い知る。
つまり、Xが見ている無数の球体のひとつに閉じ込められた、つくりものの世界のひとつに今まさにこうしてディスプレイを覗き込んでいる僕らがいるかもしれない、と、いうこと。
僕らが空だと思っているものの向こう側から、Xと、光のシルエットが覗き込んでいるのかもしれない、ということ。
そんなこと、考えたところで仕方がない、といえばそう。けれど、僕が、僕らの世界が、ちっぽけな虫かごの観察対象である可能性を思ってしまうと、ぐるぐると嫌な想像だけが頭を巡る。観測している側だと思っていたが、僕らは常に何か、もっと巨大なものに観測されている――。
けれど、Xは。
「なるほど」
と呟いて、改めて光のシルエットを見上げる。
「もし、私が、この中に生きる一人、なら」
つ、と。その無骨な指先が透明な球体の表面を撫ぜる。
「その、いずれかには、間違わなかった私も、いるのでしょうか」
複製された無数の球体。それは、いくつもの、僕らの言う「現実」では選択されなかった可能性。
僕はXがどうして死刑を宣告されたのかを知っている。単に「人を殺した」というだけではなく、監査という立場上、彼の本当の名前も背景も、全ての情報を与えられた上で、思うことがあるとすれば。
――きっとこの男は、どういう状況に置かれても同じことをしただろう、という確信。
己の犯した罪を顧みることなど、Xにはありやしない。極めて優秀な生きた探査機であるし、僕らの前では徹底的に殊勝に振舞って見せるけれど、その実、いくつか、人間にあるべきものを欠いている。リーダーはその欠陥をこそ「生きた探査機としての才覚」と評価しているところもあるが、僕はこの男をずっと不気味に思っている。
ただ、その一方で、Xの言葉は淡々としているようで酷く感傷的にも聞こえて、落ち着かない。
自分たちの生きる世界が、もっと巨大な存在に複製されたものである、という可能性をうすら寒く思うよりも、どこかにいるかもしれない、もう一人の、もっとマシな自分について考えずにはいられない、ということ。己の罪に反省も後悔もないけれど、そこに感傷を抱くだけの心がある、ということ。
僕はXという人間がわからない。
そして、わからなくていいとも、思うから。
答えの出ない問いかけは、あくまで、僕の胸の中だけのこと。
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