14:お下がり

「それは、何ですか?」

 Xの低い声がスピーカーから聞こえてくる。ディスプレイの視界には、確かに「何」とも言い難いものが映っていた。

 片腕の長さくらいはあるだろう、木の棒の先端に鮮やかな色の紐が絡みついている。杖のようにも見えなくもないが、用途がさっぱり理解できない。ただ、全体的に年月を経たもの特有の風合いをしており、特に持ち手にあたる部分はすっかり変色し、使い込まれていることだけがわかる。

 杖らしきものを手にした女性は、皺の刻まれた顔を笑みにして言う。

「おや、知らないのかい? これは、――だよ」

 それ、を示す言葉だけは、不思議と聞き取ることができなかった。Xが「すみません、もう一度お願いします」と頼んでも、そこだけ奇妙な音の並びとして聞こえるのは変わらなかった。

 Xによる『潜航』の中では、時折そういうことがある。おそらく、音声を聞いているXが知る言葉に当てはまるものがない、ということなのだろう。Xの知覚を通した情報だけが伝わる、という現在の異界潜航装置の仕組み上、仕方のないことではある。もう少し別のアプローチもできなくはないが、今の形が一番安定して観測できる、というのがエンジニアの見立てであったから。

 ともあれ、Xの反応を決して悪いようには受け取らなかったらしい女性は、朗らかに言う。

「この辺は初めてなんだろう? なら、知らなくても仕方ないかもしれないね。使い方を見せてあげようか」

「お願いします」

 Xがぺこりと頭を下げるのがディスプレイの動きからわかった。少なくとも、この『異界』ではその仕草が謝意の表明であるということは伝わるらしい。『こちら側』ですら同じ仕草が全く別の意味に捉えられることがあるのだ、『異界』なら尚更、認識の差異によるトラブルが起きやすい。

 と言っても、Xはその辺りの勘がやたら働くらしく、ちょっとでも「まずい」と感じた際には本来の癖や身についた仕草を意識的に抑え込んで振舞う。その手の勘の良さ、そして、勘を呼び寄せるための観察眼こそが、数多の『異界』を生き延びる「優秀な」サンプルの要件である、ということがよくわかる。

 女性は棒に巻き付いている紐を解いてゆく。ゆるやかに波打つ紐の先端には、きらきらと輝く宝石や金属の欠片が取り付けられている。棒に絡んでいたそれは、ぱっと見の印象よりもずっと長く、そして、手を触れずとも何らかの力によってふわりと浮かび上がった。

「こうするのさ」

 そう言って、女性が棒を高く掲げれば、紐がたなびき、不思議な色をした空――この『異界』の空は、オレンジから桃色へのグラデーションを描いている――に鮮やかな軌跡を描く。

 すると。

「……魚」

 ぽつり、と。Xの呟きがスピーカーから聞こえてくる。

 そう、Xの視界に映るのは、虚空から浮かび上がってきた魚だった。かろうじて輪郭だけが存在する、透明な魚。それが、紐の先端に取り付けられた宝石や金属の欠片をつついている。

 女性は棒を振り、魚を巧みにおびき寄せていく。最初は一匹だった魚が、二匹、三匹と増えていく。きらきらとした欠片を口に含むものもいれば、揺れる紐と紐の間に挟まる者もいる。イソギンチャクの触手の間に隠れる熱帯の魚を彷彿とさせる挙動だ。

「こいつらはね、きらきらと輝くものが好きなんだ。だから、こうやって、おびき寄せて、捕まえるのさ。捕まえる網は旦那が持ってるから、今は集めるだけだがね」

「捕まえて……、どうするんですか? 食べるんですか?」

 見る限り、空を泳ぐ魚たちにはしっかりとした実体があるようには見えない。Xの目を通す限り、『こちら側』の魚のように食用に堪えるとは到底思えなかった。

「まさか。こんなもん、食べても空気を噛んでるのと同じだよ。そうじゃなくて、灯りにするのさ」

「灯りに」

 確かに、紐の先端に煌めくものをつついていた魚が口を離せば、先ほどまでただ透き通っていただけだった体が、ほのかに発光しているのがわかる。どうも、口に含んだ光を体内に溜め込んでいるようだ。つまり、もっと強い光を食べさせれば、もっと強く光るということなのかもしれない。

「昼のうちにいっぱい光を食わせて、草木を編んだ籠に入れておけば、夜の灯りになってくれる。だから、あたしがこれを振って魚を集めて、旦那が捕まえる。籠に入れて、近所に分ける。代わりに、足りないものをもらって暮らしてるんだ」

 これは、母からのお下がりでね、と。女性が棒を振る。いつの間にか、集った魚が群れを成していて、透明な鱗をきらきらと煌めかせながら空を泳いでいる。

「あたしたちは、代々そうやって、長くて暗い夜を越えてきたのさ」

 ほら、もうすぐ夜がやってくるよ。

 女性が視線を彼方に向ける。藁葺き屋根の小さな建物が立ち並ぶ向こう側に。不思議ではあるが明るい色の空が、まるでそこから切れ味の良い刃物で切り落とされたかのごとく、直線の断面を持つ闇に侵食されつつある。それは星一つ見えない、ただ、ただ、漆黒に塗りつぶされた空。

 魚たちも、夜の到来に気づいたのか、名残惜しそうにしながらもひとつ、またひとつと空へと消えていく。

「あんたも、これからの時間に外を歩くのは危険だよ」

 棒が下ろされる。たなびいていた紐が、自動的に棒に絡まり、最初に見た形に戻っていく。この土地に住まう者に代々伝わってきたのだろう、不思議な漁の道具を手にした女性は、笑う。

「夜の間、うちに来るかい? 昨日ね、美味しい――をもらったんだ」

 またしても、奇妙な音が女性の唇から漏れた。前後の言葉から、食べ物の名前であろう、ということが何とはなしに伝わっただけで。

「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えて」

 そして、Xは、もう少しだけ、観測を続けるつもりなのだろう。

 僕らの知る『こちら側』とはまるで異なる『異界』の風景。けれど、そこに生きている者たちは、日々彼らなりの生活を送っているのだと。僕は、いつだって、Xの目と耳を通して知ることになるのだ。

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