11:飴色

 Xの左目は視力を持たない。

 これは何も『潜航』の結果失われたものではなく、Xが異界潜航サンプルとして選ばれたときから既にそうだった。

 単に見えていない、というだけならば、気に留めることもなかっただろう。視力を失う原因はいくらでも考えられるし、生まれつきそうである、と言われても別段驚きはしない。

 だが、どうもXの左目は特別なものであるらしい。Xにとっても、そして、Xという男を観測する俺たちにとっても。

 ――Xは、難しい顔をして寝台の上に横になっている。

 他のスタッフには無愛想ながらもやたらと丁寧に接するXだが、俺に対してだけは露骨に警戒を見せる。何故かは知らない。別に興味もない。

 ただ、やりづらいとは思う。

「大人しく診せろ」

 俺が手を伸ばすと、Xは警戒の表情を一段と濃くする。だが、反射的に手を出してこないだけ随分マシになったと思おう。最初は取っ組み合いになってサブリーダーと刑務官に引き剥がされるまでに至ったのだから。Xの手錠は何も意味をなしていない、というか、手錠を嵌めた状態だからこそ俺が同等程度に取っ組み合いができる、という事実が理解できただけだった。

 全く、別に取りやしないっていつも言ってんだろ。俺を何だと思ってるんだ。

 Xの左目の瞼を無理矢理に押さえる。ライトをかざす。

 Xの目は左右で色が違う。見えている右の目は俺とそう変わらない色をしているが、見えていない方の虹彩は遥かに淡い色をしている。網膜の病による白濁とはまた違う、「最初からそうである」とわかる、飴色の目。

 光を当てても、左目が生理的な反応を見せることはない。そういう宝石か何かのように、ただ、Xの眼窩に収まっているだけの――使い物にならない目玉だ。

「見えてるか?」

「いえ、全く……」

 当然、光に対する反応から見えていないのは十分想定できているが、念のため問い、Xもまたわかりきった答えを返す。

 俺はXから手を離し、一歩下がる。俺の手がすぐに届かない位置取りになったところでXもやっと安堵したのか、深く息をついて表情を少しだけやわらげた。だから俺を何だと思ってるんだお前は。

「相変わらず変化はないな。元より見えてないのはそうだし、特に異常も見られない」

「結局、一度奪われた影響は、肉体側には表れていないのか」

 付き添うサブリーダーの言葉に首肯する。

 そう、今回の『異界』で、Xはこの見えていない左目を奪われた。もちろん『異界』での出来事だから『こちら側』に残された肉体に直接の影響はなかった――はずだ。

 ただし、過去にも、『異界』で腕を失ったときは『こちら側』でも腕の機能と感覚を丸ごと失うという事象が起きており、『異界』の意識体と『こちら側』の肉体との影響には未知の点が多い。故にこそ、俺のような医療スタッフが常にサンプルの肉体を管理し、サンプルに異常が発生したら報告をあげる必要があるわけだ。

 今回は元々見えていない側の目であったし、『異界』でも最終的には奪われた目を取り戻していたから、影響らしい影響が見えない……、と考えてよいのか否か。俺たちはいつだって、目に見えたものから因果を推測することしかできない。

「体の方は?」

「衰弱はしてるが、見ての通り、意識は正常だし経過も良好だ。俺としてはこのくらい弱ってた方が噛みつかれる心配がなくて気が楽だが」

「それは噛みつかれるようなことしたお前も悪いぞ、ドクター」

 その言葉には軽く肩を竦めて返す。俺はただ診察をしようとしただけなんだがな。確かにXは拒否していたが、そこで無理を通そうとしたらいきなり噛みつかれるなんて思わないだろ。比喩ではなく、言葉通りに。

 寝台に横たわったまま、ちぐはぐな色の目でこちらを見据えるXを見下ろして、言う。

「だが、今回に限っては、やりすぎてるのはお前の方だろう?」

 Xはわずかに眉根を寄せるのみで、それ以上は何も言わない。医務室では例外的にリーダーの許可がなくともXは発言を許されている。問診の際に黙られても面倒だから俺がそう決めた、というだけだし、そもそも、どこまでも形式的なものだ。俺らはXに発言を禁じた覚えはないのだから。あくまでXの気持ちの問題。ルールで縛られないと落ち着かない、そういうところがXにはある。

 だから、その上でXが発言をしないということは、単に「何も言いたくない」ということを示す。

「今回に限ってはリーダーが許したが、同じことを続けられたら迷惑だ。プロジェクトの進行にも関わる」

「それは、」

 Xが重たい口を開く。掠れた声。そういえば、そろそろ水を飲ませるべきだな、と思う。まだ自由に身体を動かせるほど回復していないのだ。最低限必要な処置はしているつもりだが、こいつは本当に限界になるまで――時には、限界であっても何も言わないから、何が足りていないのかわかりづらい。

「申し訳ない、と、思っています。以降は、このようなことは、しません。絶対に」

 ぽつり、ぽつりと、放つべき言葉を選び選びのスローな喋り方。こいつらしい、喋り方。

 しかし、絶対に、、、、か。

「同じように、その目を奪われても、絶対、、って言えるのか?」

 ドクター、というサブリーダーの叱責を聞き流す。あいつリーダーは優しすぎるのだ、はっきりさせておかねばならないだろう、これは。

 唇を引き締めてこちらを睨むXを、真っ向から睨み返してやる。

「お前にとって、その目が何よりも大事なのはわかった。それこそ、お前自身の命よりもずっと、だ」

 今回の『潜航』は何もかもがイレギュラーだった。

 Xの意識体から何かが奪われるというのは、前述の通り過去にもあった。だが、左目を奪われたことで、Xが激昂したのだ。それだけは、見逃すわけにはいかないのだ、と。

 このXという男が初めて「激昂」という強い感情を見せたこと、それ自体が一番の驚きだったかもしれない。Xはめったに感情らしい感情をあらわにしない。かつて俺の手に噛みついたのだって、怒りというよりも反射的な防衛反応だ。実際、俺から引きはがされた後は、自分の短慮に後悔していたようだった。後悔するくらいなら噛むな。大人しくしてろ。

 かくして、片目を奪われたXは、初めて俺たちに逆らった。つまり、本来の制限時間を大幅に上回った『潜航』を行い、奪われた目の追跡を敢行したのだ。

 リーダーはそれを奨励はしないまでも黙認した。無理やり引き上げても以降のXの士気に関わりかねないから、満足するまではやらせてみよう、と。本当に、あいつはXにはとことん甘い。あいつだからこそXを上手く使えているのも事実なのだが、今回ばかりはそれだけで終わらせるわけにもいくまい。

 何せ、イレギュラーな『潜航』は三日に及んだ。

 Xの肉体は見ての通り衰弱を極め、俺たちもその間は研究所に詰めて観測を続ける羽目になった。

 こんな無理を押した『潜航』が続くようならば、プロジェクトが立ち行かない。他のサンプルを探すという可能性すら視野に入る。そういうことだ。

「今回は取り戻せたが、それだって奇跡のようなもんだ。戻ってこない確率の方が高かったはずだ」

 俺の言葉を、Xは無言で聞いている。聞いていない、ということはあるまい。あの馬耳東風のエンジニアと違って、こいつは一応「聞く」という姿勢は取るのだ。きちんと頭に入っているかどうかは別として。

「お前は、次にそうなったとしても。……俺たちの元で、『潜航』を、続けていく気があるのか?」

 もちろん、どこまでも仮定の話。

 仮定など実際に起こっていない以上意味がないと言われれば、それまでだ。

 だが、俺は――、Xがどう考えているのかを、はっきり聞かなければ気が済まなかった。

 Xは、極めて生真面目な男だ。しばらくは口を噤んでいたが、やがて、やや視線を落として掠れた声で言う。

「そう、言われてしまうと。同じことを、しない、とは、言い切れません。だから」

 だから、と。もう一度、同じ言葉を繰り返して、俺を見上げる。

「その時は、切り捨てていただいて、構わないと、思っています」

 やらない、とは言わない。それがXなりの誠意だということは、嫌ってほどわかった。こいつは、少なくとも俺らに向かっては嘘をつかない。先ほど「絶対、、」と言った気持ちだって嘘じゃあないんだろう。ただ、その瞬間には同じことが起こる可能性を考慮しなかっただけで。

 全く、誠意だけはあるんだ、こいつは。だからこそ性質が悪い。

「簡単に切り捨てろって言うが、サンプルの選定だって楽じゃない。選ぶのはリーダーだがな」

 それはあてずっぽうで選べるものではない。『潜航』への適性を見る必要もあるし、俺たちに逆らわないような人格であるかの見極めも必要だ。何せ、相手は何らかの理由で死刑を宣告されている連中だ、一筋縄でいくはずがない。

 その点、認めるのは悔しいが、このXって男は百点満点とは言えずとも限りなく満点に近いサンプルであって。そいつを簡単に手放すなんてことは、できやしないのだ。

「とはいえ、それは、俺たちの事情だ。お前の事情じゃない」

 俺は、Xが俺たちにとって都合のいいサンプルであってほしい、と思っているが――、結局のところ、俺たちはXを縛ることなんてできやしない。こいつが望んでしまえば、手綱を握ることなんてできやしない。『異界』の果てに消えていくのを、眺めることしかできない。それでも、それでも、だ。

「ただ、俺たちはお前を使いつぶす心づもりだ。せいぜい、従順であってくれよ。今まで通りに、これからも」

 Xの左目は見えていない。飴色の目。……どうも『異界』の理に属するらしい、目。『異界』の存在が欲するほどの何かを秘めているらしい、目。

 リーダーがそれを知っていたとは思えない。Xという人物が『異界』に縁があったと知って、選んだわけではあるまい。それとも、どこかで――言葉にならない感覚が、Xの中に秘められた『異界』への縁を嗅ぎつけたのか。

 何もかも、何もかも、俺たちは目に見えているものから因果を推測することしかできない。

 かくして、Xは俺の言葉を受け止めて、ちぐはぐな色の目を細めた。

「望むところです」

 笑おうとしたのかも、しれなかった。

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