10:ぽたぽた

 ぽたぽたと、ディスプレイの視界に落ちるのは、血だ。X自身の血。

 映るのは、血に濡れたほのかに光る石。Xが降り立ったそこは洞窟だったが、不思議と壁面や足元に転がる石がほのかに光っており、視界の確保には困らない。静かな空間に、蛍にしては大きな光がふわふわと舞い、それは何とも幻想的な光景だ。こんな状況でなければ、現実離れした美しさに見入っていたに違いない。

 だから、今日の『潜航』もつつがなく済むと思っていたのだ。だが、その予想は大きく裏切られた。

 洞窟を行くXが、突然、何者かに襲われたのだ。それは大きな犬か何かのように見えた。曖昧な表現をするのは、『異界』の事物を『こちら側』の言葉で限定できない、というのもあるが、単に俺からは視認しづらかったのだ。

 何せ、うっすらと明るい空間の中に、シルエットだけが切り取られているように見えたから。獣の形にぽっかりと塗りつぶされたような、薄っぺらい影。

 だが、その見た目に反して、そいつは確かに実体を持っていたらしく、音も気配もなく近づいてきてXを急襲した。

 荒事にめっぽう強いXでも、流石に気配を持たない相手の不意打ちを避けることはできなかったらしく、もろに爪の一撃を受けてしまった。そのまま組み突かれそうになったのを、反射的に蹴り飛ばして逃げ出したのは、流石というところだが。

「……っ、ぐ……」

 荒い呼吸。言葉にならない声。何かを堪える気配。腕で押さえた腹部から、血が流れている。Xの視界から判断する限り、傷はそこまで深くはなさそうだが、しかし深くないからといって放置すればろくなことにはならないだろう。いくらかりそめの意識体とはいえ、肉体に依存する認識からは逃れられない。つまり、「傷を受けた」と認識すれば痛みも感じるし、「血が多く流れた」と認識すれば出血多量による諸症状が出る。

 そう、痛みを感じているはずなのだ。傷が深くない、とは客観的な見立てでしかなく、主観では、身動きが取れなくなるくらいの苦痛を感じているに違いない。

 痛いと言えばいいのだ。苦しいと言えばいいのだ。もう嫌だ、助けてくれ、と言ってしまえばいいのだ。俺たちは誰もそれを咎めない。だが、Xがそうしないのは今までの『潜航』で嫌ってほど理解している。この男は、己の苦痛に対して無関心であり、酷く客観的ですらある。痛みを堪えさえすれば行動を続けられる、と判断すれば、観測を続行する。続行してしまう。

 それを俺以上に理解しているだろうリーダーは、難しい顔でディスプレイを見つめている。

「リーダー、どう見る」

 俺の問いかけに、リーダーは画面から目を逸らさぬままに答える。

「まだ、あと少し、様子を見ましょう。すぐ救助できるよう、引き上げシーケンスの準備はお願い」

 言葉の後半は、異界潜航装置に取り付くエンジニアと補佐の新人に向けられていた。エンジニアの「言われなくとも」という快活な返事を受け、リーダーは一つ頷くと観測に意識を戻す。

 俺もまたディスプレイに視線を戻す。Xは既に地面に落ちた自分の血を見てはいなかった。呼吸を整えながら、痛みを堪えながら、壁に手をついて、前を見据えて歩き始める。やはり、観測を続ける気だ。自分の体力と気力が尽きるまでは。

 俺はつい、溜息まじりに言う。

「悠長だな」

 Xを引き上げるかどうかの判断を下せるのは、リーダーだけだ。別に他の連中が引き上げたっていいのだが――実際、引き上げの操作を行うのはエンジニアや新人、時折サブリーダーだ――「誰でも」としてしまうと、それぞれの『潜航』中断の基準が微妙に異なることでの混乱が生じる。そのため、俺たちは何につけても「リーダーの判断」を最優先事項とする。そういう取り決めだ。

 だが、そのリーダーが妙にゆったりと構えているところを見ると、どうしても横からつつかずにはいられない。何せ、この女は、人並み外れてすっとろいところがある。特に、物理的に危なっかしい、というのは俺らプロジェクトメンバーの総意だ。何もないところで転ぶなど日常茶飯事、何なら異界潜航装置を破壊しかけた前科だってある。以来、装置に近づくだけでエンジニアに睨まれている。研究室を出禁にならなくてよかったな。

 それでも、この女が俺たちのリーダーを務めているのは、

「だって、ドクターも、『まだ行ける』と思ってるでしょう?」

 いつだって、酷く冷静に、状況を見極めているからだ。

 軽く舌打ち。そうだよ、その通りだ。

 こいつの言葉通り、俺も、Xならばこのまま行けると思っている。『こちら側』に残された肉体には、まだ異変らしい異変は見えなかったから。それに、他の脆弱な連中ならいざ知らず、度重なる『異界』への『潜航』を越えてきて、苦痛を意志の力で押し殺し、なおも前を見据えるこの男ならば、行けるに違いない。

「Xも、引き上げを求めてはいない。続けましょう」

 もちろん、異変が起こるようならすぐにでも中断するけれど。そう付け加えて、リーダーは口を閉ざした。

 俺も、Xの肉体の監視は怠らないようにしながら、ディスプレイをちらりと見やる。

 Xは前に進んでいく。課されたタスク――『異界』の観測を続ける。静かな世界に、荒い息をこぼしながら、それでも、両の瞼を閉ざすことはなく。淡い光に包まれた洞窟を、一歩、また一歩と歩んでいく。足元に己の血を落としながら、それでも、前へ。

 Xがどうしてそうも異界潜航サンプルとしての務めを愚直にこなそうとするのか、俺には未だに理解できないでいる。何せ、『潜航』そのものはXに何の得もない。強いて言えば『異界』を行く間は独房の中よりはよっぽど自由かもしれないが、それだけだ。刑が軽くなるわけでもなきゃ、刑の執行が延びるわけでもない。

 だというのに、Xは今日も己の限界ぎりぎりまで観測を続けるのだろう。その確信が俺にはあるし、リーダーにも、この場の全員にもあるに違いなかった。

 後でXの心身の状態を診なきゃならん俺には迷惑な話だが――、その、意味不明な執念には、それなりに、敬意を表しているつもりだ。

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