07:洒涙雨

 研究所最寄りでバスを降りる。鬱陶しい雨がまとわりついてくる。傘は嫌いだが、濡れるのはもっと嫌だから渋々傘を差す。さっさと傘より便利な雨具が生み出されないあたり、人類の知恵ってのもたかが知れている、と常々思っている。

 そもそも人類が「霊長」なんて馬鹿げていると思わないか。人類による人類のための尺度で「他と比べて優れている」と言い張る神経、その面の皮のぶ厚さに敬意を表してやまない。

 そんな、極めてどうでもいいことを考えながら、無駄にだだっ広い敷地を行く。

 研究所は、いくつかの棟に分かれている。そのうちほとんどは、ごくごく真っ当な研究棟だ。それぞれ具体的な研究テーマを掲げ、国の金を食いつぶしながらあーでもないこーでもないとやっているんだろう。もちろん、俺は実態を知らないので、案外俺らと同様に看板と偽りある研究を推進しているのかもしれないが。

 で、俺が向かうのは、おそらく唯一の「真っ当ではない」棟。

 奥まった場所に位置する、他と比べてやや小さな建造物。この建物全体が俺たちのテリトリーだ。

 入口の看板に書かれている文字を、俺はまともに読んだことがない。監査官によると定期的に挿げ替えているらしいので、つまり内容に意味などないということだ。

 それはそう、書けるはずもないだろう。

 一般には「ない」ものとされている『異界』を研究している、なんて。

「おはよう、ドクター」

 背後から耳慣れた声。振り向けば、リーダーが傘片手に小走りに駆けてくる。なお、その「小走り」とは俺の歩く速度より幾分遅いものとする。故に、立ち止まって彼女が追い付いてくるのを待つ。

「おはよう。やけに早いな」

「昨日、報告書を書き終われなくて。『潜航』の開始までに、書き終わらないと」

「そうか。俺が握ってるデータは必要か?」

「今回は定期報告だから、多分今貰ってる分だけで大丈夫。後で確認して、不足や認識違いがあれば補足してもらえるかしら」

「わかった」

 短く答えて、それきり言葉が絶える。

 元より、俺たちの間にはさほど言葉は多くない。必要な会話だけできればそれでいい、と思っているから。まあ、リーダーが勝手に喋りはじめることはあるが。

 ――例えば、こんな風に。

「今日は、あいにくの雨ね。このまま夜まで続けば洒涙雨、というところかしら」

「洒涙雨?」

 耳慣れない音。文脈から、雨の名前であろう、ということくらいは想像がつくが。この国の言語は、やたら雨にまつわる言葉が多い。

「ええ、七月七日の夜の雨のこと。本当は陰暦七日が正しいのだけど。一年に一度出会えた牽牛と織女が別れを惜しむ雨、もしくは二人を会わせまいとする雨」

 七夕の言い伝えか。リーダーは、研究の一環として『異界』に関わるとおぼしきあらゆる伝承を蒐集していた過去があるから、伝承の類にはめっぽう詳しい。一方の俺は今でこそ異界研究者に名を連ねているが、元々は単なる医者くずれでしかない。だから、リーダーの言葉はいつだって目新しさすら感じる。内容自体が遥か古に遡るものであったとしても、だ。

「そういえば、さっき、情報通信の棟の入口に立派な笹が飾ってあったわ。ドクターは見た?」

 首を横に振る。リーダーの言う棟がどれかはわかるが、全く目に入っていなかった。

 俺を見上げるリーダーは、少しだけ苦笑じみた表情を浮かべる。

「さっきちらりと短冊を見てきたのだけど、なかなかどうして世知辛かったわ」

「具体的には?」

「『今のプロジェクトが無事に終わりますように』とか『コンビニ飯以外のご飯が食べたい』とか『無事に家に帰れる世界に行きたい』とか」

「それはそれは、夢と希望に満ちてるな」

 この場合、叶うはずのないこと、という意味の「夢」だが。これを鑑みると、俺たちの職場がどれだけホワイトなのかわかろうというものだ。やっていることは、国の認可を得た人体実験だが。

 リーダーは、肩に掛けた傘をくるりと回す。色気もへったくれもない、ただ、丈夫ではあるだろう、やたらと骨の多い黒い傘。

「ドクターは、もし、願い事を書くなら何て書くのかしら」

 ――俺が?

 幼い頃、そういうものだから、と無理やりにありもしない願い事を書かされた記憶があった。結局、書かされた内容も全く思い出せないままでいる。元より思ってもいなかったことなのだから。

 だが、今の俺が、星に願うことがあるとすれば。

「……Xが、俺の言うことをよくよく聞きますように」

 X。異界潜航サンプル。俺たちに代わり『異界』を観測する、生きた探査機。

 人殺しの死刑囚、という肩書きそれ自体に特に思うことはない。あいつは『異界』に投入されるサンプルで、俺たちは奴を使って観測する側。それ以上でも以下でもない。

 だが、あの男はとにかく、俺の言うことを聞かない。俺の言うことだけを聞かない、と言い換えてもいい。

 いくら使い捨ての運用を想定されていたとはいえ、何一つ予測のつかない『異界』において、安定してあれだけのパフォーマンスを発揮できるやつを簡単に手放すなど、大馬鹿の所行だ。故に、今のプロジェクトでは、時には観測を中断してでもXの無事を優先する。その方が最終的には俺らのデータが充実すると理解しているから。

 なのに、なのに――だ。

「X、すぐ無茶するものね」

 そう、いやに従順で殊勝な態度を取るくせに、まるで危険を省みない。俺がどれだけ口酸っぱく言っても、その時は真面目に聞いてるってツラをしやがるくせに、すぐ次の『潜航』で迷わず危険に突っ込んでいく。

 死にたがり、だというなら俺だってとっくに匙を投げてる。勝手に死ね、と言っていたはずだ。だが、Xはそうではない。そうではないのだ。

『不可能ではない、と、思いました』

 そんなことをのたまう奴のしれっとしたツラを思い出し、頭が痛くなる。

 奴は、本当にヤバいとわかったときに無理を押すことはない。ただ、常に己の限界ギリギリを攻めていく。修行僧かなんかか?

 本当に、コンディションを管理する俺の身にもなれ。俺の苦労を思い知れ。常々そう思っている、のだが。

「でも、そのお願いは、ちょっと難しいかもね」

 わかっている。

 どうせこの雨は、夜が明けるまでやまないんだろう。

 つまり、俺のなけなしの願い事は、星々に届くこともないってことだ。

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