05:蛍
Xの視界を映すディスプレイは、無数の光に満ちていた。闇夜に灯るそれらは、ゆっくり明滅しながら舞い踊っている。
「綺麗ね」
ディスプレイを見つめるリーダーの言葉に、しかし、俺は素直に頷くことができずにいた。
リーダーの言葉は間違っていない。俺だって何も思うところがなければ、『こちら側』ではそうそう見られない光景に感嘆の息をついていたに違いない。だから、これはただただ、俺の心持ちの話でしかないわけだが。
ひとたび『潜航』が始まってしまえば、俺の手はいざって時にしか使われない。だから、潜航装置から一歩後ろに引いて、胸の内に渦巻く言葉にできない感情を溜息として吐き出す。
すると、囁き声が、俺の意識の中に滑り込んでくる。
「……思い出すのか、親父さんのこと」
見れば、壁沿いの定位置に立つサブリーダーが、俺を上段から睨んでいた。いや、ただちょっとでかくて強面なだけで、睨んでるつもりはないってのはよく知っている。マジで睨んでくるのはドクターくらいだ。あの人、喧嘩売るのが趣味みたいなとこあるから。
ともあれ、サブリーダーに倣って壁に寄りかかって、そちらを見上げる。
「私語は慎め、って言うサブリーダーにしちゃ珍しいっすね」
我らがプロジェクトリーダーは頭は切れるし、何だかんだ人をよく見てるし、上からの無理難題も美貌の笑顔で受け流し、いざって時の判断力もある理想的なリーダーだが、その反面ちょっと抜けてるところも多い人だ。その、ちょうど「抜けてる」部分を補うサブリーダーがいなきゃ、プロジェクトはとっくに空中分解してただろう。
一方で、口うるさいところがあるのは否めない。普段からちょっとした世間話や冗談でも釘を刺してくる辺り、もうちょっとゆるくてもいいんじゃないだろうか。……いや、リーダーがゆるゆるすぎるだけだ、と言われたら何一つ否定できないんだが。
だから、サブリーダーの方から『潜航』そのものと無関係な話を振ってくるのは極めて珍しくて、つい、驚きの声をあげてしまったのだ。
珍しい、という俺の言葉に、サブリーダーは厳つい顔にわずか、苦笑を浮かべて小声で言う。
「そんな顔されてちゃ、気になるだろ」
「俺、そんな変な顔してました?」
まあ、あんまり隠し事が得意じゃない性質なのは認める。彼女からもよく言われるよ、どうせ全部顔に出ているのだから、諦めて全部オープンにしてしまった方がお互いのためだ、と。その彼女に
ただ、客観的に見りゃ百パーセント怪しいプロジェクトに参画しているのにも、俺なりの理由があって。
その理由のうちでっかい部分を占めているのが、それこそ、今まさにディスプレイに映っているものに限りなく近い、記憶の中の光景。
「……いや、仰る通りなんですけどね。どうしても、思い出しちまいますよ、これは」
「蛍、と言っていたもんな」
「まあ、今となっちゃ、本当に蛍だったかどうかもわかんないっすけどね」
Xが見ている景色は『こちら側』で言う蛍の乱舞に似ている。だが、「蛍である」と言い切ることはできない。『異界』の事物はどれだけ『こちら側』のそれに似ていても、まるで異なる可能性を常に考慮していなければならない。
だから、親父を連れてった「アレ」だって、『こちら側』の言葉でいう「蛍」に近しかったが、何であったかは定かじゃない。異界研究者としては、そう結論付けるしかない。
ただ、あの日、蛍のそれによく似た、無数の光の群れを見た。そんな主観だけが脳裏に焼き付いて離れないままでいる。
「アレのことを一番知ってたんだろう親父だって、もう、ねえ?」
――俺の親父はもう、どこにもいない。
親父、と言ってもずっと前にお袋とは離婚していて、俺の中での親父の記憶は、それこそ親父が家を離れた、中学の途中くらいで途絶えている。
それまでは、ごくごくありふれた家だったはずだ。親父とお袋、子供は俺一人。当時はまだ、親父の両親とも一緒に暮らしていて、後から聞いてみりゃお袋はまあまあ苦労していたみたいだが、当時の俺の目からは仲の良い家族として映っていた。
ありふれた家族の、ありふれた日々が、そのままずっと続くと信じていた。
「どうして、親父だったんでしょうね」
ディスプレイに映る光が渦を巻く。Xが、光る点の一つに向けて指を伸ばす。指先に灯る光。
「その問いに、俺が答えられると思うか?」
露骨な呆れを混じらせたサブリーダーの言葉には、俺も苦笑せざるを得ない。
「まさか。……それに、今は、深い意味はなかったんだろうな、って思ってます」
か細い伝手を辿って異界研究者のコミュニティに辿り着いて、リーダーに声をかけられてこのプロジェクトに参加して、生きた探査機Xの目を通していくつもの『異界』を目にしてきて。
よくよくわかったことといえば、『異界』の事物について、『こちら側』の尺度で考えたところで無駄だってこと。
「親父自身は『選ばれた』とでも思ったのかもしれませんけどね」
塾からの帰り、すっかり夜の闇に閉ざされた帰り道、俺は道に立ち尽くす親父を目にした。
季節外れの――そもそも、俺の実家辺りで飛んでるとこなんて見たことのない、無数の蛍に囲まれた、親父を。
親父を包みこむように乱舞していた蛍は、俺の目の前で姿を変えていった。光と光が身を寄せ合わせれば、それはやがて女のシルエットに変化して、親父に向けて曖昧な形の手を伸ばした。
呆然と光の女を見上げた親父は、ゆっくりと、その手を取って。その瞬間、女の姿は崩れて再び乱舞する蛍の光点へと戻っていたが、何かを求めるかのように、親父の体にまとわりつくのだった。その規則的に明滅する光は息を殺してその光景を見ていた俺のことも誘っているかのようで、けれどそれが酷く恐ろしくて、俺は慌てて家に駆けこんで、お袋に助けを求めたのだった。
だが、お袋を連れて玄関に出た時には、蛍の姿はもう一つも見えなくて、ただ、ぼうっと虚空を見つめる親父がいただけだった。
それきり、親父はおかしくなってしまった。
常にここではない場所を見つめ、仕事にも行かず、家族ともろくに口を利かず、ふらっと消える日々が続いた。耐えかねたお袋が俺を連れて家を出たから、それから後のことはよく知らない。風の噂で、親父が消えた、という話を耳にしただけで。
親父はまだ見つかっていない。見つかることはないんだろうな、と思っている。俺は、リーダーほど楽観的じゃない。そういうことだ。
サブリーダーが、Xの視界を映すディスプレイに目を戻す。光はなおも舞い続けている。一つ一つは小さい光にすぎなくとも、無数に集えばそれは闇夜に瞬く星よりも明るい。
「あれは、お前が見たのと同じものに見えるか?」
「わかんないっすね。俺も一回見ただけですし、当時は分析なんて考えもしませんでしたし」
それもそうか、とサブリーダーが頷いた、その時だった。
映し出されていた光が大きく姿を変える。不規則な動きをしていた光が突然、示し合わせたかのように身を寄せて。
「……っ」
あの日と同じ、女の姿を象る。
長く波打つ髪、大きな胸、細い腰から尻までの流れるようなライン。目も口も見えない、凹凸だけで構成された光の女は、ディスプレイに、つまり、Xに向けて手を差し伸べてくる。かつて、俺が見た光景をそっくりそのままなぞるように。
女の顔がこちらを見ている。Xを見ているのだと理性が訴えるが、本当にそうだろうか? Xの視界越しに、
「おい、どうした?」
一歩を踏み出したところで、横から肩を掴まれて、揺さぶられる。やめてくれ、俺は今度こそあの手を――。
刹那。
ディスプレイに映り込むのはXの無骨な手。その手が、目の前の女の手を無造作に払った。
乱暴に光を振り払う手の動きに合わせて、女が形を失っていくのを目にして、我に返る。
――俺は、一体、何を考えていたのだろう?
あの女の手を取りたい、なんて、まさか。胸が激しく鳴っている。背中に冷たい汗が伝う。
「大丈夫か。すごい顔色だ」
サブリーダーが俺の顔を覗き込んでくる。俺は額にも滲んでいた汗を拭って、かろうじて頷く。
「少し休め」
「そう……、っすね」
「リーダーには俺が言っておく。しばらく、ここを離れた方がいい」
ありがたいことだ。きっと、俺はここにいるべきじゃない。Xの見ている光景を、共有すべきではないのだ。
頭を下げて、研究室の扉をそっと開く。
後ろ髪を引かれないといえば嘘になる。だって、あの光の女は、親父を「連れて行った」アレそのものだと、気づいてしまったから。
だが、俺は、まだ。
親父の二の鐵を踏むわけには、いかないのだ。
扉を閉ざす。長い廊下を行く。
ダイエットはお預けだ。今日くらいは、何も考えずに好きなものを食べよう。とびきり美味いもののことを考えて、それから「ダイエットするんじゃなかったの」と頬を膨らませる彼女のことを考えて。
俺は、まだ『こちら側』にいるのだと、俺自身に言い聞かせる。
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