04:触れる
人には、触れてほしくないもんの一つや二つ、あって当然だ。
俺が思う「一般」に比べるとよっぽど開けっ広げなプロジェクトの面々にだって、そう簡単には触れられたくない何かしらがある、ってのは流石にわかる。俺自身がそうであるように。
きっと、俺たちとはまるで別の道を辿りながら、奇妙な巡り合わせでこの場にいるXにだって。
――だから、今日の『異界』がXの触れてはならんところに触れちまったんだろうな、ってことくらいは、想像できる。
「X、気分は……、よくないみたいね」
寝台に座るXのツラを見て、リーダーが苦笑いとも何ともつかない、ただ「困った」という感情だけが伝わる表情をする。発言を許可されたXは、少し焦点のずれた目を瞬かせて、それから静かに言った。
「体調には、問題、ありませんが。……気分がよいか、と問われれば、それは」
言外に、否、と告げるXの眉はきつく寄せられている。
ディスプレイ越しに目にした光景を思い出す。Xが己の身をもって体験した『異界』の光景を。そこでの出来事も含めて、ありありと。
それは、部屋だった。
どこにでもあるような、生活感に満ちた、マンションの一室。
俺たちのプロジェクトは『こちら側』ではない世界を十把一絡げに『異界』と呼んでいるが、そのうち半分くらいは『こちら側』とそこまで大きく変わらない見かけの世界だったりする。
エンジニアに言わせてみると、『こちら側』からどこかのタイミングで分岐した並行世界は、特に世界との間の距離が近く、アンカーを打ちやすいのだ、と。真偽はともかく、肌感覚としてわからなくはない話ではある、が。
ぶっちゃけ、エンジニア、感覚でものを言うから、もうちょい説明の努力をしてほしいとはいつも思う。ただ、あの人、誰もが認める根っからの天才肌だし、ついでに仔細まで聞くとこっちの頭がやられる可能性があるから、積極的に要求はできないんだよな。
とにかく、今回の『異界』は『こちら側』によく似た世界だった。実際には全く違ったのかもしれないが、常にない短時間の『潜航』でXの視界を通して観測できた限りはそう、という話。
「そうね、答えがわかりきった質問だったわ」
リーダーはわずかに目を細める。そういう顔するとほんとに見とれるくらいの美人なんだよな、という感想が浮かぶものの、何せリーダーなのでそれ以上の感情が湧くことはない。Xもまあ俺と同意見なんだろう、リーダーを見上げる表情は、眉根を寄せている以外に普段から変わった様子もない。
「実際に『潜航』しているのはあなただもの、『異界』においては何よりもあなたの判断を優先する。けれど」
けれど、けれど――、だ。
「不思議に思っているのも、確かなの」
そう、リーダーは当然不思議に思うだろう。横で見てるだけの俺だって不思議に思ってるんだから。
「どうして、今回は、すぐに引き上げを求めたのかしら」
もちろん、リーダーだって何とはなしにわかっているはずだ。あの『異界』が、Xの触れてはいけないところに触れたのだと。
けれど、プロジェクトリーダーとして、聞かないわけにはいかないのだということも、理解はできる。俺たちの役目は『異界』の観測なのだ、生きた探査機たるXに、俺たちの目的と反した行動を取られては、話にならない。
Xの眉間の皺が更に深まるのがわかる。傷口に指を突っ込まれるのと、どっちが嫌なんだろうか。Xのことだから、傷口に指くらいはどうってことない、とか言い出しそうで怖いな。
ただ、俺だって知りたくないと言ったら、嘘だ。普段はどんな過酷な環境に置かれても限界まで『潜航』を続けようとするXが、どういう理由で引き上げ――『こちら側』への帰還を望んだのか。
何せ、俺には、本当にどうってことない場所に見えたんだ。
柔らかな色の壁と天井、フローリングの上の落ち着いた柄の絨毯、それなりに質の良さそうな調度品で揃えられたリビング。絨毯の上に転がっているのは、色もとりどりの子供の玩具で、それを手に取っていたのは、Xに背を向けた三、四歳くらいと思しき女の子だった。
そこまでを認識したところで、声がしたのだ。
「おかえりなさい、パパ」
スピーカーから聞こえてきた、弾んだ声。見れば、壁に沿って置かれたソファに座った女がこちらを向いていた。不思議と、顔はよくわからなかった。ぼんやりと霞がかかっているかのように、目鼻立ちが判別できないのだ。ただ、明るい茶色に染まったショートボブに、少しボーイッシュな服装が特徴的だと思った。
「おかえりなさい!」
子供もこちらを振り向く。女と同じく、その顔は酷く曖昧だ。ただ、その声の快活さから、きっと満面の笑みを浮かべているのだろうな、と想像できるだけで。
玩具を放り出してぴょこんと立ち上がり、その場に立ち尽くしているXに、ほとんどぶつかるような勢いでしがみついてくる子供。その小さな頭を見下ろしたディスプレイの中で、Xの無骨な手が、虚空を掻く。どうすればいいのかわからない、という戸惑いが、言葉にならずとも伝わってくる。
「今日ね、ママとおでかけしたの。ほんとは、パパと一緒がよかったけど、お仕事が大変だからって。だから、今度のお休みの日はパパも一緒だよ」
子供特有の高くよく響く早口で紡がれる言葉を聞く限り、この子供も、そしてソファから立ち上がってこちらに歩み寄る女も、どうもXを家族――「パパ」と誤認しているようだった。いや、
今までも、『潜航』したXがあらかじめ『異界』に組み込まれていたかのように扱われることはあった。例えば放課後の教室における学生であったり、とある事件を追う刑事であったり、もしくは人を脅かす怪物であったり。どういう仕組みかはわからないが、『異界』に潜った段階で、何らかの役柄が付与されることがある、ということは経験則として理解している。
だから、今回もそれだけ、といえばそう。
とある家庭の父親、という役柄が与えられただけ。求められる役柄を演じればいいだけ。
それだけ、だということは、Xが一番よくわかっていただろうに。
「それじゃあ、ご飯にしましょうか。今日はミートソースのスパゲッティよ」
ソースはもう作ってあるから、と言う女は、Xの前で足を止めた。
「どうしたの? そんな、変な顔して」
「パパ、早くご飯食べよう?」
子供がXの袖――いつものぶかぶかのトレーナーではなく、スーツのそれ――を引く。
それでもXは動かなかった。硬直していた、と言い換えてもよかったかもしれない。ディスプレイに接続されている視線が虚空をうろつく。その時は意味がわからなかったが、今考えてみると、目の前の光景から逃避しようとする仕草だったのかもしれない。
けれど、あたたかなマンションの一室と、嬉しそうに自分を囲む女と子供は消えることがなくて。
「ひ、」
低い、掠れた、声が。
「引き上げ、」
視認できない顔でもわかる怪訝さを見せる女と子供をよそに、Xは。
「引き上げて、ください」
これを見て聞いている俺たちに向けて、震える声で「救助」を求めたのだった。
そうして、観測らしい観測もしないまま引き上げられたXは、リーダーと俺たちの視線を受けながら、手錠で繋がれた手を持ち上げて、ごつごつとした手で己の顔を覆った。
「私は、」
先ほどの『異界』で聞いた、掠れ声が指の間から漏れる。普段は低いながらもよく響く声が、
「あの場にいていい、人間では、ない、なのに」
今ばかりは、酷く弱々しく。
「あの家の、父親だった、なんて、ありもしない記憶が、私を、……」
記憶。もしかすると、役柄だけじゃなくて、それに沿った記憶が与えられていたのだろうか?
だが、それ以上は、言葉にならなかったから、俺たちもまたそれ以上を知ることはない。
そもそも、Xは喋るのがあまり得意ではない。それなりにスムーズに喋れるのは客観的な説明を必要とされたときくらいで、特に「自分の言葉で喋る」ことを求められるとXは突然考え込んで、言葉を失いがちだ。
それも、まあ、このおっさんの「誠実さ」もしくは「律義さ」というべきなのかもしれないが。Xは嘘をつこうとしないし、きっと、嘘になる可能性のあることを言いたくないんだろう、というサブリーダーのX評は、あながち的外れでもないんだろう。俺はそう思っている。
結局、Xはそれきり黙り込んでしまった。手錠で繋がれた手で顔を覆ったまま、身じろぎ一つしなくなる。
「……ごめんなさい、嫌なことを聞いたわね」
リーダーは膝を曲げて、寝台に座ってうつむくXに視線を合わせる。
「無理に話さなくても構わない。私は、あなたが、次以降は確実に『潜航』してくれればそれでいいから」
今は何よりも試行回数が必要、それはリーダーと俺たちの総意だ。
そして、それをこなせるのは現状Xただ一人なのだ。
当初は「使い捨て」を計算に入れて選別した異界潜航サンプルであったが、このXっておっさんは、俺たちの想像以上に『生きた探査機』に適した人材だったのだ。今やこいつ以上のサンプルを想像するのは難しい。
そして、Xにも、案外、その自負があるのかもしれなかった。
弾かれるように顔をあげると、今度は酷くはっきりとした声で、言ったのだ。
「必ず、やり遂げます」
相変わらずその顔に、表情らしい表情はない。仏頂面、に限りなく近いツラ。
ただ、その声に滲むのは、奇妙な切実さだ。
Xが何故、こんな人体実験もいいところの異界潜航サンプルを快諾したのか、死と隣り合わせの日々を送りながらもなお『潜航』を続けたがるのか、俺は未だに知らない。
俺が知っているのは、あえてリーダーが釘を刺さなくたって、Xは誰よりも真面目に『潜航』に打ち込むだろうってこと。
ただ、今回に限っては、Xのやけに弱いところに触れてしまった、それだけ。それだけの話。
「それじゃ」
ぱん、とリーダーが手を叩く。Xの、そして俺たちの意識を現実に引き戻すように。
「まだ時間もあるし、次の『異界』、行ってみましょうか」
簡単に言ってくれる。アンカーを打って『異界』の扉こじ開けるの、意外と手間なんだぞ。
けれど、それが今の俺たちと――何よりも、気落ちするXに必要なことだというのも理解はできたから、俺は異界潜航装置に繋がるコンソールを見据え、キーボードに指を走らせる。
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