パルティア(安息)

 パルティアはシルクロードやローマとの抗争で有名らしいですね。あと騎馬から後ろ向きに騎射する「パルティアンショット」は恐れられたとか。司馬遷著『史記――大宛列伝』から引用します。



 安息(パルティア。アム川以南からイラン高原にかけての国家)は大月氏の西数千里ばかりのところにあります。……土着して田を耕し、稲・麦をうえています。ぶどう酒があります。……大小数百城邑で、地は数千四方にわたっています。最も大国で、アム川に臨んでいます。市の民があって商売しています。車と船を用いて近傍の国にゆき、あるいは数千里の遠方まで出かけます。銀で銭をつくり、銭の模様はその王の顔です。王が死ぬと、銭をあらためて新王の顔の模様にします。皮革に横書きして記録します。



 張騫が西域事情を武帝に紹介した部分ですね。資料集の解説も引用します。



 パルティアの興起したイラン北東部ホラーサーン地方はセレウコス朝シリア王国の一州であった。ギリシア系バクトリア王国の建国によってこの地に逃れて来たイラン系遊牧民バルニの族長アルサケスはB.C.248年に自立し、アルサケス朝パルティアが誕生した。B.C.2世紀中頃には、西はユーフラテス、東はインダスに至る大領土を治め、同世紀末からメソポタミアの支配をめぐってローマと攻勢を繰り返し、B.C.53年には、メソポタミアのカルラエでローマの三頭政治を担ったクラッススの軍を完敗させた。捕虜の1万のローマ人は、東方遥かマルギアナに送りこまれ、カラクム砂漠の辺境で苦しい生活を強制された。ローマの抒情詩人ホラチウスは「クラッススの兵士は野蛮人の女性と結婚し、敵の国でその女性たちと住んで。そして――神よ、馬鹿どもはどこまで堕落したことでしょう――彼らは異国の旗のもとでその婿となり、ミディア王の敷居の下に跪いた」とうたいあげている。

 中国関係の資料では後漢書西域伝大秦の条の中で西域都護の班超の命をうけた甘英がローマへの旅だちをしたが、安息のペルシア湾岸でその道程の厳しさを聞いて諦めて帰る話が出ている。パルティアの中国からローマへの経済ルート独占の姿勢を示したものと理解されている。

 パルティアは文化的にはグレコ=イラン時代であり、公用語はギリシア語系方言であった。軍隊の中心はスキタイ以来の弓矢を主とした軽装騎兵に加えて彼らが創始した鉄製轡と革製鐙で乗馬を安定にさせ長槍をもった重装騎兵が活躍した。しかし、ローマとの抗争で次第に衰退して226年、農耕系イラン人のサーサーン朝イランの攻撃をうけ、最後の首都クテシフォンを奪われ滅亡した。



 シルクロード交易を独占していたのでしょうか? あと前項のバクトリアでも気になっていたのですが、「ソグド人」という人達が重要な役割をしていたみたいなのですが、何かわかったら追記します。簡単なことならネット検索で出ると思います。


追記:YouTubeで「ソグド人」ですごく詳しく解説している動画をみつけました。今どきはYuoTubeで探した方が良いのでは? と思いました。




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