バクトリア(大夏)

 バクトリアは資料となる情報は少ないながらこの地方は栄えていたみたいですね。

資料として司馬遷著『史記――大宛列伝』が掲載されていますが、変換できない漢字もあるので、注釈を参考にしたくだいた形で引用します。



 大夏(バクトリア。今日のアフガニスタン北境、アム河上流の南域)は大宛(フェルガナ。シル河上流域)の西南2000余里、アム川(アラル海に注ぐ中央アジアの代表的な川)の南にあります。……土着で、城郭や家屋があり……大君長(大酋長)がおらず、いたるところの城邑に小君長がおかれています。……その兵は弱くて戦いをおそれ、商売にすぐれています。……大夏の人口は多くて100万以上もあり、その主都を藍市城(今日のバルク)と言っています。――そして張騫は言った。「臣が大夏におりましたとき、(四川省あたりの)竹杖、蜀の布を見かけましたので『どこで、これを手に入れたのか』とたずねましたところ、大夏の国人は『われわれの商人が出かけていって身毒(インド)で購入してきたのです』と申されました。身毒は大夏の東南数千里にあり……地は卑湿で暑熱だとのことです。その人民は象に乗って戦います。その国は大河に臨んでいます。……大夏は漢を去ること1万2000里で、漢の西南にあたります。……いま身毒国は、また大夏の東南数千里に位し、蜀の物資があります。……いま大夏に使いする場合に……蜀からゆけば近道でしょう。」



 バクトリアはインド経由で中国の四川省のあたりの物を輸入していたのですね。

 資料集の解説を引用します。



 バルクを中心とした北アフガニスタンを漢代では大夏と名付けた。前漢武帝の使命をうけて大月氏を訪れた張騫の帰国によって明らかにされた国家で、張騫は大月氏が大夏を支配していたと伝えた。

 バクトリアはアレキサンダー大王の東方拠点として2万人のギリシア人を常住させていたが、大王の死後、セレウコス朝の東方領域を形成した。B.C.225年、パルティアと連絡しつつ独立して、ギリシア系王国を設立、ヘレニズム文化を栄えさせた。バクトリア王国は西北インドまでその領域を拡大したが、B.C.139年、北方の騎馬民族スキタイ系トハラ(トカラ)族の進入で滅亡した。張騫の大月氏訪問はB.C.139~B.C.126年のことで、トカラの支配時代と一致する。トカラは東西交通に活躍していたことが知られている。大月氏のバクトリア進出はB.C.140~B.C.65年にかけて行われ、完成された。



 私が、その他の本で読んだところによると遺物としてコインがたくさん見つかっているらしいです。

 栄えたヘレニズム文化って具体的にはどんな感じなのでしょうね?


追記:遺跡からコイン(貨幣)が大量に見つかったのは、いざという時のためにお金をまとめて隠していたことの現れで治安の悪さを表しているという説がありました。


アフガニスタン北部のタジキスタンとの国境近くのアイ・ハヌム遺跡については、NHKスペシャル「文明の道」で詳しく特集されていました。ヘレニズム文化の一端がわかりやすく解説されています。




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