世界都市ローマ

 属州ではローマの雄弁術や服装が尊重されるようになり、原住民は文明開化と呼んでいましたがローマの奴隷化でした。では、ローマ都市部ではどうでしょうか? 引用します。



 故郷を奪われることは耐え難いことです。この数えきれぬほど沢山のローマの町の家々をもってしても、収めるのに十分とは言い難いほどのこれら大衆たちの上に、眼を注いでごらんなさい。この群衆の大部分は故郷を持たないのです。自治市または植民市から、否それどころか地の果てからも、彼らは流れ込んできたのです。あるいは功名心に駆られ、あるいは公生活の必要のため、あるいはその土地の使者としての責務を委ねられ、あるいは放恣な気持より悪業にとって適当な、しかも物みな豊かな場所を求めて、あるいは高尚な学問活動を希求して、あるいは見せ物のため、招き寄せられてきたのです。なお、あるいは友情が、あるいはその才幹を発揮すべき広い世界(チャンス)を見出そうとの熱心さが、いろんな人たちを引っ張り込んできたのです。あるいは市場にその美しい姿を、あるいは雄弁を売りに出そうとしているのです。生まれの如何を問わず、あらゆる人が首都ローマに群れ集まってきたのです。善いことをしても悪事を働いても高い値打ちを付与してくれる都に。ひとたびそれらすべての人の名を呼んで、そして「皆の生まれ故郷はどこだ」と聞いてごらんなさい。そうすれば、彼らの大部分がその故郷を弊履のごとく捨て去り、ともかくもっとも広大・華麗な町に集まって来たのに、しかもこの町は決して彼らのものではないことを、あなたは知るでしょう。それからこの町――普通みなの共通の母市と呼ばれうる町(すなわちローマ市)から転じてあらゆる町をぐるつと回ってごらんなさい。みんな市民の大部分が外からの移住者なのです。



 解説です。



 この資料の筆者セネカ(B.C.5~A.D.65年)は、ストア派の哲学者でネロ帝の師であった人。当時のローマの姿を描いている。パラティノの丘から出発したローマは、共和政期の約500年間に七つの丘を含む領域を「セルウィウス王の城壁」で囲まれた都市国家として存続した。ローマの拡大・発展は、直接にローマを脅かす外敵を消滅させた。

 そして、この資料にふれているように多数の人間が流れ込み、生粋のローマ人は人口の1割に達しないほどであった。共和政末期からパンの配給を受け、闘技場での格闘技に興ずる無産市民が増加し、そのためにエジプトやアフリカから穀物が輸入される量は莫大であったという。市内はフォルム=ロマーヌムを中心に神殿・公共建造物が建ちならびアウグストゥス帝の時は大理石のローマに変貌したといわれた。

 3世紀に入って異民族の脅威が再び生じ、アウレリアヌス帝(在位270~275年)は18㎞に及ぶ城壁と14の城門を築かせた。

 410年、西ゴートのローマ劫掠、さらに6世紀に入ってのゴート戦役は、ローマを荒廃させた。永遠の都ローマは、こうしてローマ帝国の衰運と共に廃墟と化し、コロッセウムには浮浪者が住み着くような状態になってしまった。



 西暦表示を見るとキリスト教がどうからむかも気になります。



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