神に祀られたアウグストゥス

 アウグストゥスに関する長い引用になります。

 資料は、スエートーニウスの皇帝伝からの引用です。スエートーニウスは、ハドリアヌス帝の側近として仕えた人で、そうした立場から皇帝伝を著述する資料を入手したらしいです。



 彼がローマ共和国の復興を考えたことが2度あった。最初はアントニウス打倒直後、共和国が復興しないのは全く彼のせいだとしばしばアントニウスから非難されたことを思い出したときで、第2回は長わずらいに退屈していたときであった。彼は高官や元老院議員まで自宅に呼びつけて、ローマ帝国の一般的情勢についての報告書を手渡した。しかしながら、いま自分が隠退して国家を数人の手に委ねることは自分自身に危険をおよぼすばかりか、国家をも危殆に陥れる恐れのあることを反省してその地位に留まることにした。その方が結果的にはうまく行ったのか、あるいは彼が意図したほどうまくいかなかったのかどうかはわからないが、彼はこの意図を折にふれて書き記しているばかりでなく、さらに勅令の中でも表明している。「願わくは吾をして国家を永遠不動の盤石の上に置かしめ、その功績によって吾が願いをかなえしめ給え。即ち吾をしてこの上なき理想の政府の創建者の名を得しめ、吾が築きし国家の礎は永えに揺らぐことなかるべしとの希望を懐いてこの世を去らしめ給え。」と。事実彼は新しい政権に対するいかなる不満をもなからしめるために、あらゆる努力を傾けてこの願いを達成した。

 ローマの都はその建築が帝国の威容を示すにはあまりにもお粗末であり、洪水や火災の災害を受け易いので、彼は街の美化を図り


「かつて見し煉瓦造りのローマを、吾いま大理石で装いたり。」


と堂々と豪語しうるにいたった。また人間として可能な限りの配慮を施して将来の安全にも備えた。

 彼は多くの土木事業を起こしたが、そのなかでも特記すべきは次の三つである。復讐の神マールスの神殿つきのフォルム、パラーティウムのアポルローの神殿、カピトーリウムの雷神ユーピテルの神殿。彼がフォルムを造った理由は人口と訴訟事件の増加で、在来の二つのフォルムでは最早捌き切れず、もう一つフォルムの必要が感ぜられたのであった。そのためマールス神殿の竣工をまたずに急いで一般に解放され、籤による陪審員の選定ばかりでなく、起訴もこのフォルムでのみ行うように制定された。彼は父の復讐をするために企てたフィリッピーの戦いのときマールスの神殿の造営を誓ったのであった。そういう経緯から宣戦布告や凱旋式を要求する資格に関する元老院の審議はここで行い、軍事的指揮権をもって属領に赴く際はここから出発し、戦いに勝利をえたものは、彼等の勝利のしるしをここに持参するように布告した。彼はパラーティウム丘の自分の邸宅のなかにアポルロー神殿を建立したが、その敷地はアポルローがその敷地に雷を落して、そこを所望されていることをお示しになったという占い師の言葉に従って選んだのである。この神殿に付設した柱廊にはギリシア・ラテン文学の書籍を収蔵した書庫を設け、老齢に近づくと、ここでも元老院の集会をしばしば催し、陪審員の名簿の改訂も行った。彼は九死に一生を得たことを感謝するため、雷電王ユーピテルに神殿を献納した。



 神殿の役割が多岐にわたり大きかったみたいですね。解説です。



 神皇アウグストゥス(B.C.27~A.D.14年)は、カエサルの妹ユリアの孫にあたる。カエサルの暗殺後、その遺言により後継者となった。第2回三頭政治を始め、ブルトゥスらを敗死せしめた。アントニウスとは、しばしば対立し、和解しあったが、アントニウスが、クレオパトラと組んだことを最後として、これをアクチウムの戦いに破って、両人を自殺せしめ、ローマの内乱に終止符をうった。養父に比べて、慎重な彼は、共和政の伝統を尊重し、独裁者との印象を与えることを極力避けた。



「煉瓦のローマを大理石造りに変えた」が印象的です。




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