スパルタクスの反乱
スパルタクスの反乱は、1番の首領の名前がスパルタクスだったのですが、資料の中でスパルタクスが出ているあたりを引用します。
格闘士の反乱とイタリアの劫掠(前73~71年)は多くの人がスパルタクス戦争と呼ぶものであるが、こういう原因から始まった。レントゥルスバッティアトゥスというものがカプア(町の名)で格闘士を養成していてその多くはガリア人とトラーケー人であったが、別に悪い事もしないのに買主の不正によって無理に格闘をするために押込められていたものであって、200人が逃亡を謀ったのに、密告するものがあって、早く感づいて間に合った78人だけは料理場から包丁と焼串を持って飛び出した。途中で格闘士の武器を別の町に運んで行く幾台かの車に出合いそれを奪って身に着けた。それから1つの要害の場所を占領して首領を3人選んだが、1番上のスパルタクスはトラーケーの遊牧種族の男で、気位が高く体力が強いばかりでなく、智慧と温厚の点でその偶然生れ落ちた種族よりも優れ寧ろギリシャ風であった。
ギリシャ風は高く評価されていたのかな? 解説です。
B.C.1世紀のイタリア半島には約150万の奴隷がいたと計算されている。スパルタクスの反乱に参加した奴隷は約20万人であった。この奴隷蜂起を鎮圧するために共和政ローマは総力をあげ、クラッスス(B.C.114~B.C.53年)を指揮官として派遣した。ローマ共和政を恐怖に陥れたこの奴隷反乱は、最終的にはローマの弾圧に屈したけれども、その影響はすこぶる大きい。失敗の原因については、奴隷が明確な展望を持ち得なかったことや奴隷廃止の努力をしなかったとか、貧民大衆との連帯に欠けたとかがあげられているが、やや酷な評価だろう。イタリア半島では一般大衆は奴隷を蔑視する風潮が強かったから孤立無援の彼らは、武力調達ひとつをとっても無から出発していたし、ローマ支配下の各地からの寄せ集めの奴隷たちにとっては思惑も異なって統率をとることは難しかった。支配者ローマは属州から徴発する軍需物資を絶えず補給できたし、奴隷軍を篭絡する手腕や情報網では比較にならない有利な立場にあった。そうした状況にあってなおかつ2500㎞に達するスパルタクス蜂起軍のイタリア半島縦断はローマ共和政に深甚な影響を与えた。B.C.70年の執政官にポンペイウス、クラッススをローマが選んだのは、彼らが奴隷反乱の鎮圧に功績をあげたためである。軍事的独裁へ移行し、共和政から帝政へ転換していく局面にこの反乱の意義を位置づけられようし、また奴隷所有者にとってもこの反乱は教訓となり、その後の奴隷の待遇改善、奴隷制より小作制への移行などにもある程度の役割を果たしたことも評価される。
格闘士の養成とか気になりました。剣闘士のことでしょうか?
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