ハンニバルのアルプス越え
この資料集だけ読んでいても歴史の全体像が見えてくるわけではないのですよね。ポエニ戦争の詳細についても、カルタゴという魅力的な国についても、ほとんど説明はありません。
今回、ハンニバルのアルプス越えで驚いたのは30頭もの象を連れていたことでした。「この時代の象の生息域はどうなっているんだ!」と思ったのですが、別にローマあたりに象がいたわけではなくて、アフリカ象(マルミミゾウ)やインド象でした。しかし、東西貿易は私の想像以上に活発だったみたいですね。「戦象」で検索されると、戦象の面白い歴史をご覧になれると思います。
それでは資料を引用します。リヴィウス著『ローマ建国史』より
こうしてハンニバルの軍勢は、敵が略奪の為のわずかな部隊による以外の攻撃をやめる好機が訪れた時、前進を開始した。しかし、道は、登り坂であるよりずっと困難であり、アルプスのイタリア側は、ほとんどの場所が下り坂で距離が短く、必然的に、垂直に近かった。同時に、全行程は、狭く、滑りやすかったので、兵士達は足を滑らすのを防ぐことはできず、わずかでも足を踏み違えたなら、転落してその場に止まることはできなかった。こうして、人と動物たちは、次から次に転がっていった。
かくして、彼らは、他より一層狭い尾根へとやってきて、垂直に立っている岩を、軽装備の兵士が、所々に見えるかん木や根子の手がかりを工夫して、大きな困難と共にやっと降りることに成功することができた。この場所では、絶壁は元々大きなもので、以前の地滑りによって、少なくとも1000フィートの深さが増していた。ここで、騎兵は、まるで彼らの旅は終わったかのように停止した。ハンニバルが、軍勢が停止した原因が何であるか不思議に思っていると、絶壁は通り抜けられないことが報告された。そこで彼は、その場所を見るために上に登って行き、非常に広大で、これまで踏まれたことのない地域を通っていく回り道で、彼の軍勢を導かなければならないことが明らかに思えた。しかしながら、その道は実行不可能なことがわかった。事実、古い雪が固くなっており、新しい雪で適当な深さに被われていて、そこを通過する時、うまく歩けるのがわかったが、多くの人や動物が歩いたので雪が溶けて、人や動物はむき出しの氷の下に踏みはずした。ここで、彼らは大いに妨げられた。なぜなら、足は滑りやすい氷の上に踏み止まることはできず、その上、大地の下り勾配のために、さらに滑りやすかったからである。だから、彼らが、手や膝の助けで立ち上がろうとすると、再びころぶのだった。これに加えて、手の届く所には、すがりついて支える切り株も根子もなかった。だから、彼らは滑りやすい氷の全表面を転げまわった。時には、馬はもっと下の層に足をつくやいなや突き抜けてしまい、足を踏みはずした時には、からだを保とうと努力して、ひづめでより強く打つことによって、完全に突き破ってしまうのだった。だから、馬の大部分は、まるでわなに陥ったかのごとく、固く厚い氷にへばりついてしまうのだった。
人も動物も、全くむなしい徒労の後に、ようやく山頂にキャンプを定めたが、掘り出したり取り除くには雪の量は多すぎて、必要な場所さえ片付けるのは大変な困難を伴った。そうして、兵士達は急坂を下る道をつくるのにあてられた。そこを通るのが、通過をはたすのに可能な唯一の道であった。そして、大岩を破壊する必要がある時は、兵士達は、近くに立っている巨木を数本切りたおして作った1本の巨大な杭を打ち込んだ。そうして、杭の発火を促進する為に、強い風が吹くとすぐに、それを燃やし、岩がひどく熱くなると、その上に酢を注ぎ、岩をばらばらにくだいた。こうして、熱の力で岩がくだかれると、兵士達は鉄製の道具で、そこを通過する道を開き、荷物を積んだ動物ばかりでなく、象さえも下ろすことができるように斜面に道をつけた。この岩に4日間が費やされ、その間に、牛はほとんど全滅してしまった。というのは、山頂のほとんどの場所は草がなく、わずかの牧草も雪で被われていた。もっと低い所には、谷と丘があり、そこは太陽の恵みを受けていて、森のそばには小川があって、人間が住むのに適していた。そこで、馬は牧草地へと送られ、道路作りで疲れていた者達は、3日間の休息が許された。こうして彼らは草原へと下ってきたが、そこの気候は、住民の性質も同様だが、おだやかなものであった。
このような方法で、彼らはイタリアへの通路を、いく人かの著者によれば、新カルタゴを出てから5か月かかって完成し、アルプスを越えるのに15日を費やした。
岩の砕き方が面白かったです。解説です。
第1回ポエニ戦争(B.C.264~B.C.241年)で、ローマはカルタゴを破り、シチリアと莫大な賠償金を獲得した。カルタゴで生まれ、10歳のとき父に伴われてスペインに渡ったハンニバルは、ローマへの激しい復讐心を父に養われ、B.C.218年、象や多くの馬を含む軍勢を率いてスペインを出発した。この資料はピレネーを通り南フランスへ抜け、途中征服した民族を軍勢に加えて、大きな犠牲を払ってスイスアルプスを越えた時の様子が描かれている。イタリアに侵入したハンニバルの軍勢は反撃に出たローマ軍を各地に破った。中でもカンネーの戦い(B.C.216年)の大勝利は、ローマの運命さえ危うくしたが、戦争の長期化でカルタゴ軍は消耗し、本国からの援助も得られぬまま、ローマの将軍スキピオによるカルタゴ本国攻撃でハンニバルは本国に召還されザマの決戦に敗れた。戦後、シリアや小アジアで再起を計ったが、結局ハンニバルは毒薬によって自殺をとげた。
その後しばらくたった後のカルタゴの滅亡は壮絶です。他の本に書いてありましたが、カルタゴは焼き払われて17日間にわたって燃え続けたそうです。
追記:その後カルタゴの歴史の詳しい本を読んでみると、ハンニバルの自殺からカルタゴの滅亡までには色々あって、しばらく以上の時間が経過したみたいです。
カルタゴの滅亡も細かく色々な段階があって、単純に焼き払われたとはとても言えません。最後に燃え続けたのは10日間くらいみたいです。
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