アレクサンドリアの繫栄

 アレクサンドリアの風景の描写の資料です。誰か映像化かマンガにしてくれないものか?



 すべての街路は乗馬行と馬車を駆して行けるように区画整備せられ、そのうち2街路だけが非常に広い。その幅はプレトロン(約30.8m)以上に及び、これらは互いに直角に交叉して市街を二つに区分している。この都市は公共のもっとも美しい神域と王宮とを有している。そしてそれは全市周域の4分の1あるいは3分の1を占めている。というのは、歴代の王が一様に公共記念物に壮麗なものを増築するのを愛好したから、かくのごとく、すでに建築の始められている上に私費を投じていたるところに住居を建てたのであった。……またムーサイ学園(ムセイオン)は王宮の一部をなしているのである。それは歩道と座席を有する柱廊および大講堂からなり、そこでムーサイ学園の人びととなった学者たちが共餐する食堂がある。……大港の入口には、右側に島とファロスの塔が、他の側には暗礁とロキアス岬があってそこには宮殿がある。港をはいってゆくとロキアス岬にある宮殿と続いて内側の王宮があるが、それは多くの装飾を凝らした邸宅と、庭園を持っている。これらの宮殿の下には、人工の港で外部から秘められ、王たちの所有になっているものがある。この人工の港には一つの島、アンティロドスがあるが、そこにもまた王宮と小港がある。このように名付けられているのはロドス島と競争せんとしてである。この港の上に劇場が位置している。



 解説です。


 アレクサンドリア市は、ヘレニズム時代のエジプトの首府となった。周知の如く、アレクサンドロス大王が建設した同名の市は70余といわれるが、最も繁栄したのがプトレマイオス朝下のこの都市である。プトレマイオスの父ラゴスは、アレクサンドロス大王の幼友であり、最高幕僚の一人として東征に参加して、その子はエジプトの太守となった。大王の死後、その遺骸をバビロンからメンフィスに移し、後継者を任じたプトレマイオスは、プトレマイオス朝を興した。

 プトレマイオス朝は、エジプトへ多数のギリシア人を招来して、ギリシア文化とエジプトの伝統文化の融合をはかった。

 全土が王領であったエジプトでは、王の農民が約5割の小作料を納めさせられていた。ギリシアの農業技術の移入もこの時代にはさかんで、干拓事業も行われたから、可耕地も急増し、あわせて、国家の独占事業として多くの職種が、国家統制下におかれた。こうして厖大な富を集積できた王朝は、文芸の保護に熱を入れ、首都となったアレクサンドリアは、ムーサイ学園を設立し、巨費を投じてギリシアの古典を集めた。多数の学者が集められ、それぞれの分野で後世にその名を残した著名な学者、アリスタルコス、エラシストラトス、ヒッパルコス、エウクレイデスなどが活躍した。


 ここにタイムスリップしてみたいです。


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