アレクサンドロス大王

 面白い資料が掲載されていますが、旧仮名遣いなので勝手に直して引用します。



 コリントスの地峡にギリシア人が集まって、アレクサンドロスに従ってペルシアに遠征することが決議された時、アレクサンドロスはその将軍と宣言された。多くの政治家や哲学者は大王のところへ祝の言葉を述べに来たので、大王は当時コリントスの辺で日を過ごしていたシノーペーの人ディオゲネスも同様にするだろうと期待していた。ところが相手はアレクサンドロスをまるで問題にせず、クラネイオンに悠々としていたので、大王はこの哲学者のところへ出掛けて行くと、丁度日向ぼっこをしていた。そこに大勢の人がやって来たので、ディオゲネスは一寸身を起してアレクサンドロスをじっと見た。アレクサンドロスはこれに挨拶をして、何か頼みはないかと聞くと、「ちょっとその日の当るところをよけて下さい」と言った。それを聞くとアレクサンドロスは非常に打たれ、自分が無視されたのに相手の誇と偉さに感服し、供の人々がそこを立ち去りながら大笑いをして嘲るのに対して、「私がもしアレクサンドロスでなかったならば、ディオゲネスになりたい」と言った。

 遠征については神の託宣を伺うためにデルフォイへ行った。生憎それが、掟によって託宣を伺ってはならない不吉な日であったが、アレクサンドロスは先ず使いをやって巫女を呼ばせた。しかし巫女は来るのを拒んで掟を盾に取ったので、アレクサンドロスは登って行って無理に神殿へ引っ張って行くと、巫女はその熱心に負けたように「あなたは負けない人だ」と言ったのを聴いて、アレクサンドロスは、もう別の予言は要らない、望んでいた予言がこの人の口から聴けたと言った。

 さて遠征に発足してから、いろいろの前兆が神々から示されたと思われたが、殊にレイベートラにあるオルフェウスの像で糸杉の材で造ったものがその頃汗を沢山かいた。すべての人はこの前兆を恐れたが、アレクサンドロスは、詩人や音楽家に多くの汗と骨折を費やさせる事業、つまり歌に作られ広く騒がれる事業を果すという前兆であるから元気を出せと勧めた。


 長いのでここまでにします。解説です。


 アレクサンドロス(B.C.356~B.C.323年)は、弱冠20歳で、父フィリッポス2世の後を継いで、マケドニア王に選ばれた。軍会が決議して王位継承者を決定するマケドニアの慣習に従った訳である。13歳の時から、アリストテレスによって教育され、16歳にして摂政位に就き、父暗殺の後、マケドニア王となった。ギリシア本土のポリスにおいては、すでに共同体の分解現象が著しく、ポリスをこえてギリシア統一の動きがみられた。イソクラテスはそのギリシア統一を主張した代表例である。

 アレクサンドロスは、父の政策を継承して、コリントスでヘラスの代表者を集め、みずからペルシア征討の司令官となった。テーベなどの反抗を徹底しておさえこみ、B.C.344年、3万5000の兵を率いて小アジアへ入る。この時の軍資金の乏しさに驚かされる。彼の遠征に多数の学者を参加させたことは、従来の略奪遠征と異なるものといえよう。

 遠征の詳細は省略するが、僅か10年にしてペルシアの故領を支配下におき、出発時に比較して、18万タラントンに及ぶ財宝を手中にして財源が豊かになった。

 その後、彼がとった「和合の祈り」をはじめとして、マケドニア・ヘラス人を支配階級としつつも、ペルシアの制度を継承・発展させつつとった東西融合の策は、後世に大きな影響を与えた。彼のペルシア化が部下との間に軋轢を起す悲劇があったが、僅か10年の治世で没したため、その後は、後継者によるヘレニズム世界の分裂となった。



 いや、征服の詳細は省略して欲しくなかったですよ。



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