ペイシストラトスの僭主政

  気軽に楽しめる内容ではありません。


 ヘロドトス『歴史』より



 やがて彼に生まれたのがそのペイシストラトスであって、この人はアテナイ人が海岸党と平原党の2派に別れ、そして、アルクメオンの子メガクレスが前者の頭株となり、アリストライデスの子リュクルゴスが平原党のそれになって、党派争いをやっているのに乗じ、僭主の地位をねらって第三党を糾合したのである。そして、党員を糾合して山地党の指導者に成りすまし、次のような計略を企てた。彼は我と我が身を、それから騾馬を傷つけておいて、あたかも田舎へ車を走らせつつあった彼を殺そうと欲した(と触れ込んだのであるが)敵の手をのがれて来たかのような風をして、車を市広場へ乗り入れ、そして、自分は以前メガラ人の戦いに指揮官の地位にあって、ニサイアを占領したり、その他偉大な働きを現わして名を挙げたのであるから、護衛兵を与えてもらいたいと民衆に要求した。アテナイの民衆はすっかりだまされて、彼に市民のうちから護衛になる者を選んで与えたのであるが、これらの者は棍棒を持って彼に従行したのであるから、ペイシストラトスの護衛兵になったというよりは、むしろ棍棒兵になったわけである。そして、これらの者がペイシストラトスと一緒にむほんを起して衛城を占領したのであって、かくて、ペイシストラトスは以来アテナイの主権者に成った次第である。彼は現存する諸官職を混乱させもせず、また、法律も変えないで、ポリスを既存の制度に基づいて管理し、りっぱに且つ巧みに治めた。



  解説です。


 僭主政はギリシア史上長期間にわたってどこかのポリスに出現していた。古くはB.C.7世紀末にミレトスで、新しくはB.C.2世紀に現れている。アテネの場合には、B.C.561年にペイシストラトスが樹立して約30年間存続した。アリストテレスは僭主政は短命であると言っているが、アテネはその長命のひとつであり、シキュオンでは100年も続いた例がある。

 僭主になった者は有能でポリスのために貢献した人物が多く、ペイシストラトスも戦争で功をたてた。ソロンの改革に不満を持つ人は少なかったし、恐らくソロンの一派として成長しつつ、ソロンとは考えの異なった彼は、過激派として山地の人びとと結んで権力を掌握した。以後、僭主の多くがそうであるように、一派で市政を牛耳り、下層市民の生活の改善に努める。中流以上の市民からは武器を取上げ、彼らを抑える。政権参加の道を閉ざされた不満は、アリストテレスのいうように結局、僭主政を打倒する勢力を育てる。アテネでも平民は、僭主政期に育ち、クレイステネスの改革で立派に民主政を樹立するのである。



 写経みたいに書き写すのでも、何となくはわかってきました。




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