第6章 家族の肖像

決断の日を境に総次の気持ちは沈没船のようになっていった。

青葉とは、あれ以来ひと言も口をきいていない。家の中で出会ったときはもちろんのこと、食事のときですら会話がなかった。

少し前のふたりは、引き合う磁石のようにその距離を縮めていた。だが、何の前触れもなく、青葉の磁極がプラスからマイナスへと反転したため、ふたりは突如弾かれるように離れ離れになり、初めて出会ったとき以上の距離まで戻ってしまった。それほどまでに反動が大きかったのだ。これにより総次と青葉は赤の他人よりも遠い関係となってしまった。そして、ふたりのあいだに溝ができた。迂回することもかなわないほど広くて長い溝が。できるものならすぐに埋めてしまいのだが、肝心の術がない。無力さを痛感し、己の不甲斐なさを責めずにはいられなかった。

その日以降、総次は学校から戻ると、部屋から極力出ないようにした。青葉と顔を合わせないようにするための苦肉の策である。こんなことをしても何の解決にもならないのは重々承知しているのだが、反射的に彼女を避けてしまうのだ。今日も学校から帰ると、逃げるように部屋に入った。

ベッドの上で仰向けになる。別に疲れるようなことはやっていないはずなのだが、無性に体が気だるかった。

『私は今のままがいいんです・・・』

あのときの青葉の言葉と泣き顔が脳裏に浮かび上がる。

残念ながら彼女の願いは最悪な形で破られてしまった。ひとりの異性の発言によって。その張本人である総次は、罪の意識にさいなまれた。今さらながら自身の早まった言動に後悔するが、もはや手遅れだった。

「お兄ちゃーん、電話だよー」

不意に階下から紅葉の呼ぶ声が耳に届いた。

「分かった。すぐ行くよ」

総次はベッドから飛び降りて部屋から出ると、早足に階段を降りた。階段の真下には紅葉が立っていた。

「紅葉ちゃん、電話って誰からだい?」

「田中さんっていうひとで、お兄ちゃんの知り合いって言ってたよ」

「田中?知り合いにそんな奴いないような気がするんだけど・・・」

昔住んでいた町での知人の中に心当たりの人物はいなかった。クラスメイトに田中という苗字の人間はいたような気はするのだが、断言するまでにはいたらなかった。ただし、その程度の間柄の人間がわざわざこっちに電話するとは考えにくいので、電話の相手から除外してもいいだろう。

「そうなの?じゃあ、もしかしたら勧誘のひとかもしれないね。なんか電話の声も嫌な感じがしたし」

「その可能性が高そうだな。まあ、とりあえず出てみるよ」

総次はリビングと玄関の間の廊下にある電話のところへ向かうと、保留中の受話器を手に取った。

「もしもし、伊倉ですが、どちら様でしょうか?」

「・・・水無月青葉は俺たちが預かった。女の命が惜しければ、30分以内に街外れの廃寺までひとりで来い。具体的な場所はポストの中に地図を入れてあるから、それに従えばいい。もちろん、警察や他の人間にそのことを知らせれば、水無月青葉の命はないと思え」

相手は大人の男だった。当然のことながら、総次の知り合いではなかった。

「お、おい、何言ってるんだ?」

突然の出来事に総次は慌てふためいた。

「いいか、女を無事に帰して欲しいのなら、余計な小細工などせずに30分以内に必ずひとりで来い」

男はくぐもった声で一方的に話をして受話器を切った。

総次は受話器を手にしたまま、呆然と立ち尽くした。信じたくない気持ちと信じ難い気持ちが混同する。あまりにも唐突で衝撃的な出来事だったので、頭の中が大混乱に陥っていた。

「ねえ、やっぱり勧誘のひとだった?」

「あ、ああ、やっぱり勧誘のひとみたいだったよ」

紅葉に話しかけられ、現実の世界へ引き戻る。

「紅葉ちゃん、今日、青葉ちゃんがどこに行ったか分かるかな?」

「お姉ちゃんは帰ったあと、友だちの家に遊びに行ったよ。夕ごはんを作らないといけないから、すぐに戻るとは言ってたけど、ちょっと遅いよね」

紅葉の言葉に、総次は嫌な予感を覚えた。

「そうか。俺も急な野暮用ができたから外出するけど、もし入れ違いで青葉ちゃんが戻って来たら、家で待っているよう伝えておいて」

総次はそう言い残すと、勢いよく駆け出した。

「あ、お兄ちゃん!」

あっけにとられた紅葉の声が背に当たる。

総次は機敏な動きで靴を履くと、ゲートに入った競走馬みたいに外へと飛び出し、玄関先のポストを開けた。中には電話の相手が言っていた簡単なメモ書きした地図が置いてあった。それが一連の出来事が現実を帯び始めたことを表していた。

総次はメモを握り締めたまま、東に伸びる道路に向かって駆け出した。

すれ違う人々が奇異の視線を送るが、気になどしていられない。今は一刻を争うときなのだから。

分かれ道に出くわすたびに、いったん立ち止まって地図を確認し、それから再度走るという迅速さと的確さを要求される動作が続く。地図を一瞥する時間が惜しい。だが、それは避けて通れぬ行動だ。否、そんなことを考える間のほうが無駄かもしれない。時の流れとともに、焦りと苛立ちが募っていく。総次は、はやる気持ちにけん引されながら先を急いだ。

次第に他人との遭遇が少なくなる。街の中心部から遠ざかっている証拠だ。郊外に出ると、やがて小高い丘が見えてきた。ここまで来ると、もう人の気配は皆無に等しい。いつしか藍色の天幕が中天まで降りて、辺りは暮色蒼然(ぼしょくそうぜん)の空気を漂わせていた。

総次は丘を登り、その中腹に差し掛かったところで足を止めた。進行方向の左手側に長い石段が続いている。汗でくしゃくしゃになった地図を広げて眺める。大きなバツ印がついている場所と一致していた。

「この上だな・・・」

総次は疲弊した体に鞭打って石段を駆け上がった。頂上にたどり着くと風化した本堂が視界に飛び込んだ。

「約束どおりひとりで来たぞ!」

大声で呼びかける。すると、本堂からならず者風の男が6人に、茶色のスーツを着た男がひとり、そして、ふたりのならず者に捕らえられている青葉が姿を現した。ならず者のうちの4人の顔に総次は見覚えがあった。以前、総次たちを襲ったならず者たちだった。

「総次さん!」

青葉が悲痛な声を上げる。

「青葉ちゃん!無事か!今すぐ助けるから、少し待っていてくれ!」

総次は男たちを睨みつけた。

「おい、今すぐ青葉ちゃんを放せ!おまえたちの目的は俺で彼女は関係ないはずだ!」

「まずはおまえの身柄を確保が先だ。おまえたち」

スーツ姿の男の言葉に、ふたりのならず者が動きを見せる。どうやら、この男が首謀者と考えて間違いないようだった。

ならず者は総次のもとに駆け寄ると、手にしてロープで縛り上げた。

「くっ」

総次はロープの締め付けに顔を少し歪めた。青葉のことを考えると、おとなしくなすがままにされるしかなかった。

「おまえはいったい何者なんだ?なんで、こんなことをするんだ?」

敵意をむき出しにしたまなざしを向ける。

「ふん、その様子だとおまえは何も知らされていないようだな。研究素材に自己紹介するのもおかしなはなしだが、まあいい。私は西尾新。おまえの父親の同業者だ。もっとも、私はあいつと違って優秀な学者で通っているがな」

新と名乗った男は尊大な態度を見せ付けた。それがまた嫌味でしゃくに障った。

「それにしても、おまえがあの『紅玉石の民』の血を引いている人間とはな。いや、正確にいえば、人間じゃなくて人形の血を引く研究素材になるか」

新は見下したような笑みを浮かべた。

───紅玉石の民?人形の血を引く研究素材?こいつ、何を言っているんだ?

男の発言が総次の思考を混迷させる。しかし、今はそのことよりも大事なことがあった。

「俺の身柄を押さえたんだから、早く青葉ちゃんを放せ!」

「残念だが、それはできんな」

冷笑する。

「なんだと?」

「私たちのやっていることを知られてしまった以上、無事に家に帰すわけにはいかんだろ。おまえたち、その娘を始末しろ」

新は鼻を鳴らして言い放った。

「やめろ!青葉ちゃんを放せ!」

「うるせえ!暴れるな!」

そばにいたならず者が、ふたりがかりで総次を地面に押さえつける。それでも総次はなんとか青葉を助けようと必死にもがくが、みのむしのようにうごめくことしかできなかった。

「だとよ、お嬢ちゃん」

「おまえに恨みはないが、命令だから悪く思うなよ」

青葉を捕らえている別のならず者のひとりが、ポケットからナイフを取り出した。

「いや!やめて!」

もうひとりのならず者に捕らえられている青葉が悲鳴を上げる。こちらも懸命にならず者から逃れようとしているのだが、非力な少女の力では脱出できなかった。

「やめろおおおお!」

総次は、相手と自分自身に対する激しい憤りを抱きながら絶叫した。

そのときだった。

何かが弾けるような音と同時に、総次を縛っていたロープが飛び散り、押さえつけていたならず者の体が宙に舞った。

ならず者は頭から地面に叩きつけられて動かなくなった。

自由の身となった総次は、ゆっくり立ち上がった。その瞳はルビーの輝きを放っていた。

「おい、何が起こったんだ?」

「なんなんだ、あいつは?目の色が変わっているぞ!」

「こんなはなし聞いてないぞ!」

「ば、化け物だあ!」

浮き足立つならず者たち。新も先ほどまでの余裕を失い、動揺を隠し切れない様子で呆然と立ち尽くしていた。

「こ、これが『紅玉石の民』の力なのか・・・」

恐れおののきながら数歩後ずさる。

総次は一歩前に踏み出した。全身が灼熱の炎に焼かれているように熱い。周囲の空気が総次の体から放出される不可思議な気と接触して、無数のプラスチックを折ったような音を立てていた。総次は自分の身に起こっている異変には気付いていたが、どんなことが起こっているかは分からなかった。しかし、今はそんなことなどどうでもよかった。青葉を助けられるのなら、何が起こっても構わない。それが悪魔の仕業であってもだ。

「青葉ちゃんから離れろおおおお!」

総次の怒号に呼応するかのように、彼を包む大気が震えだし、周囲の小石や砂を舞い上がらせる。次の瞬間、無数の衝撃波が狂瀾怒涛(きょうらんどとう)の踊りを披露しながら敵に向かって飛んでいった。衝撃波は青葉を殺そうとしたならず者ふたりを吹き飛ばし、残りの者のそばをかすめていった。衝撃波を受けたならず者は派手に地面の上を転がり、仰向けに倒れた。

「うわあああ、殺される!」

「早く逃げるぞ!」

残りのならず者は、両手をつきながら一目散に逃げ出した。

「おい、貴様ら、逃げるな!くそっ」

ひとり残された新は慌てて後ろにさがった。そして、落ちていたナイフをとっさに拾うと、唖然としている青葉の背後に回りこみ、その首に切っ先を突きつけた。

「う、動くな!少しでも動いたら、この娘の命はないぞ!」

「そ、総次さん、助けて・・・」

「くっ、青葉ちゃん!」

涙と恐怖で歪む青葉の顔を見て、総次は体を硬直させた。

そのとき、どこからか拳ほどの大きさの石が飛んできて、新の頭に命中した。

「ぐわあっ」

予想外の攻撃に、新は大きくよろめいて青葉から離れる。

「今だ、総次!」

謎の声よりもひと足先に総次は動いた。

「うおおおおおっ!」

渾身の右ストレートを放つ。その一撃は狙いたがわず新の顔面をとらえた。新は数メートルほど吹き飛ばされ、白目をむいて失神した。

すべての決着がついた瞬間、総次の瞳の色がもとに戻り、急激に視界が真っ暗になった。

───ここで倒れるわけにはいかない!

総次は己を鼓舞して、闇に落ちていく意識をかろうじてつなぎとめた。

「青葉ちゃん、大丈夫?怪我とかしていないかい?」

「総次さん・・・総次さん!」

総次の呼びかけに、青葉は泣きながら抱きついてきた。

「ぐすっ、怖かった・・・」

「もう大丈夫だよ」

総次はいわたるように彼女の頭を軽く撫でた。青葉の匂いと感触が安堵感をもたらす。本当は疲労困憊で今にも倒れそうなのだが、それでも立っていられるのは腕の中にあるぬくもりのおかげだった。

総次は気を取り直して、石が飛んできた方向に視線を向けた。そこにいたのは無精ひげを伸ばした中年の男だった。その人物を見た刹那、総次は絶句せずにはいられなかった。

「お、親父!」

「そ、総大おじさん?」

総次と青葉が同時の驚きの声を上げる。

「よう、こんなところで会うなんて奇遇だな、馬鹿息子」

総次の父───伊倉総大は口もとをかすかに緩めた。

「なんで、こんなところにいるんだよ?」

「私がここにいたら悪いのか」

「いや、そうじゃなくて、俺が聞きたいのはここにいる理由だ」

「たまたま通りがかっただけだ」

「んなわけないだろ!あのタイミングで現れるなんて偶然じゃありえないだろ!」

漂々と答える総大に、総次は次第に苛立ちを覚えた。

「では、偶然じゃないという証拠か根拠はあるのかな、総次君?」

「う、それは・・・」

「どうしたのかな?ほら、私がここにいるのが偶然ではないと言い張るのなら証拠か根拠を示してもらおうか」

不敵な笑みを見せつける。

「くそっ、ああ言えばこう言う。屁理屈ばかりこねやがって。ああ、分かった。そういうことにしておいてやるよ。それよりも親父に聞きたいことがある。教えてくれ、俺は・・・」

「待て。おまえの聞きたいことは察している」

総大は総次の言葉を途中で遮った。

「おまえが聞きたいこと、それは青葉ちゃんのスリーサイズだろ。私が見る限り、上から84・57・85ってところだな」

「違う!いきなり何を言い出すんだ、このセクハラ親父!」

「何、違うのか。そのわりには目が青葉ちゃんの胸のほうにいっていたぞ、このむっつりスケベ」

「な、いや、それは・・・」

激しく狼狽する。不埒な妄想とともに目が反応したのはまぎれもない事実だったので、弁解のしようがなかった。彼女がいない男の悲しい性というやつである。

青葉は瞬時に顔を赤らめると、胸の当たりを両腕で隠しながらうつむいてしまった。

「おまえと遊ぶのはそのくらいにして、そろそろ本題に入るとしよう。おまえが知りたいのは、おまえの隠された力と『紅玉石の民』のことだろ?」

「ああ。それと、人形の血を引く研究素材っていう意味も教えてくれ」

「人形の血を引く研究素材?もしかして、そこのハイエナ男が言っていたのか?」

「ああ」

総次がうなずく。

総大は無言のまま、無様に転がっている新に近づくと、思いっきり蹴飛ばした。新は派手な音を立てながら地面の上を転がっていった。

突然の行為に総次は面食らった。

「親父?」

「ちょっとむかついたらから、蹴りを入れただけだ」

総大は仏頂面で答えた。

「話をする前におまえに言っておくことがある。今から話すことは、歴史という表の記録には載せられていない出来事で、現段階ではあくまで憶測の域を出ていない。つまり、世間一般では、おとぎ話や戯言にしかならない話ということだ。だから、信じるも信じないもおまえの勝手だ。あとは自分の意思で判断しろ。それと、おまえが伊倉総大と伊倉霞の子供だとはいうことは、しっかりと覚えておいてほしい。いいか?」

「わ、分かった」

総大の鋭いまなざしを受け、総次は気おされ気味に首を縦に振るしかなかった。ここまでの威圧感を父親から感じたのは、生まれて初めてだった。これが本当の父の威厳というやつなのだろうか。少なくとも、ここにいる唯一の肉親は、今まで無軌道な日常生活を送っていた人物とは大きくかけ離れていた。

総大は真剣な表情で話し始めた。

「はるか昔、私たちが住んでいた霜月町に、現在よりも優れた技術と不可思議な能力を持っていた少数民族がいた。その民族は紅い瞳を持っていることから『紅玉石の民』と呼ばれ、人里離れた場所にひっそりと隠れ住んでいたといわれている。高度な文明を誇っていた彼らだったが、その特殊さのゆえか、あるいは生殖率が低いせいか定かではないが、疫病によって滅亡してしまった。ただ、滅亡する直前、彼らは消えゆく一族の血を残す手段として、その血を使って一体の人工生命体(ホムンクルス)を作り上げ、特殊な技法によって後世に残すようにした。それがおまえの母親霞で、おまえは『紅玉石の民』の血を受け継ぐ唯一の人間になるのだ。そして、それがそこに転がっているハイエナ男が『研究素材』としておまえを狙った理由であり、またおまえの不可思議な力は、母親の血、すなわち『紅玉石の民』の血によるものなのだ」

すべての疑問を知った総次は、完全に言葉を失った。

確かに客観的に耳にすると、あまりにも非現実な話だった。第三者が聞いたのなら、呆れ果てるか指を差して笑うに違いない。それほど馬鹿げた内容だといえた。だが、それでもその話が真実なのだと信じることができた。他ならぬ父親の言葉だったからである。少なくとも自分の父親は、普段こそ馬鹿な冗談や適当な発言を繰り返すが、重大な話や核心にせまった話をするときにふざけたり茶化したりはしない。しっかりと相手の目を見据えて話す。それは総次自身が誰よりも知っていた。

また、考え方を反転させれば、父親の言葉でなければ信じなかったと断言できる。同じ血を引く肉親だからこそ、信じられるのだ。

しかし、ここで総次の中で新たな疑問が生まれた。父親がどういう目的で母親に近づいたかという暗色で染められた疑問が。総次は一抹の不安を覚えた。

「親父・・・親父はお袋のことをどう思っていたんだ?その、あいつみたいに研究素材とか人形というふうに思っていたのか?」

「霞はよく笑い、よく泣く奴だった。人形は笑ったり泣いたりしない。それに研究の対象としか見ていなかったら、おまえはここにいない」

総大の粛然とした答えが不安を打ち消した。そして、それからすぐに自分が無神経な質問をしてしまったことに気づいた。

「すまない、親父。つまらないことをきいてしまって」

「まったくだ。でも、おまえにしてはいい質問だったぞ」

総大はそう言って、かすかな笑みを浮かべた。

「愚問をしたお返しだ。おまえは今の話を聞いてどう思った?」

「そうだな・・・あまりにも話が変な意味で大きすぎて、未だに信じられない気持ちもあるけど、それが本当だってことは理解したつもりだ。まだ戸惑いのほうが大きいけどな。それに俺に秘められた力がお袋の力なんだって分かって、なんとなく嬉しかった。うまく言えないけど、自分の知らないところでお袋が見守ってくれていたんだっていう感じがして、それが嬉しいんだ。お袋のことを覚えていないから、きっとそう思うんだろうな」

総次は父親の意外な反撃に少々面食らったが、ためらいながらも素直な心境を述べることができた。

「なあ、親父。お袋はどんなひとだったんだ?」

「そうだな、ひと言で言ってしまえば、天真爛漫な女性だったな。そういえば、初めて星空を見たとき、星を取ろうとして一生懸命手を伸ばしたりしていたな」

総大は苦笑しながら空を見上げた。総次もあとに続く。

夜の帳が降りた空に糠星(ぬかぼし)が瞬いている。幻想的で純美な空間を築いている星たちは、総次にひとつの幻を見せた。それは夢で見た深紅の瞳の女性が無邪気な笑みを浮かべながら、星空に手を伸ばしている情景だった。現実の世界で見た幻の光景に、総次は穏やかな笑みをこぼした。

「青葉ちゃん」

総大は真顔に戻って、青葉のほうに顔を向けた。

「こいつは確かに内面的には普通の人間とは違う部分があるが、根本的なものは同じなんだ。だから、今回の件でこいつに対する見方を変えないで、今までどおり接してやってくれないか。このとおりだ」

と言って頭を下げる。

総次はそれを見て驚きを禁じ得なかった。あの傲慢な父親が他人に、しかも年端も行かない少女に頭を下げるなど想像できなかったからである。

「そんな、頭を上げてください、総大おじさん。私はそんなことで総次さんの見方を変えたりしませんし、それに今日のことは私の胸のうちだけにしまっておきますから、安心してください」

「青葉ちゃん・・・」

総次は青葉の心根に感動せずにはいられなかった。ただ、振られてしまったことを思い出し、それを考えると心苦しくなった。

「ありがとう。そう言ってもらえると、嬉しいよ」

総大はまた頭を下げると、今度は総次のほうに顔を向けた。

「総次、あとのことは私にまかせておけ」

「親父ひとりで大丈夫なのか?」

「構わん。おまえに手を借りるほど落ちぶれてはいない。かえって邪魔になるだけだから、とっとと先に行け」

と言って邪魔者を追い払うような感じで右手を前後に振る。その行為に総次は少しだけ腹が立った。

「分かった。そこまで言うのなら、あとはまかせるけど、本当にいいんだな?」

「おう、まかせとけ。おまえこそ、しっかり帰れよ」

総大が胸を張って答える。

「行こうか、青葉ちゃん」

「あ、はい」

総次は青葉をうながすと、総大に背を向けて歩き出した。

「おい、総次」

総大の呼びかけに、総次が立ち止まって振り返る。

「達者でな。それから、のぞきや夜這いをして追い出されないようにしろよ」

「大きなお世話だ!」

総次が怒りの声を上げると、総大は豪快に笑った。

憎いほどの笑顔を見せる父と怒り顔の息子。久しぶりの親子の対話が終わりを告げた。


家路を急ぐふたりに会話はなかった。ただ正面を向いて歩くだけだった。

総次は道中、物思いにふけっていた。彼には少し前からずっと考えていたことがあった。とても重大な考え事だ。自分の将来を決めるといっても、決して大げさではない。それは総次にとって運命の選択だった。そして、今が決断のときだった。

「青葉ちゃん」

総次は立ち止まって重い口を開いた。それに合わせて青葉も足を止める。

「今までいろいろとありがとう。俺は近いうちに荷物をまとめて霜月へ戻ることにするよ。青葉ちゃんたちのおかげで楽しく過ごすことができて、とても嬉しかった。本当にありがとう」

と言って無理して笑顔を作る。これが総次の一大決心だった。

みんなと別れることに未練がないといえば嘘になる。しかし、普通の人間と違う存在である総次がいることは、みんなにとっていい傾向とはいえない。直接影響するわけではないのだが、今回のような事件に青葉たちが巻き込まれる可能性も否定できない。危険な火種は火がつく前に摘み取っておくべきなのだ。

それに何よりも青葉に負担をかけたくないという気持ちがあった。振った相手に居座わられては、必然と気を使ってしまい、自分の生活ができないだろう。今ですら十分すぎるほど気まずいのだから、このまま水無月家にいるとお互い精神的に参ってしまうのは必至だ。そう考えると、これが最善の選択なのだと総次は自分自身を納得させた。

正直なところ、もとの家は人手に渡っているので、水無月家を出ても行くあてはなかったが、それは仕方ないと考えている。住み慣れた街に戻れば、住み込みで働ける場所を見つけることができるかもしれないし、昔の友人のつてを使えば、少しの間だけなら寝泊りもできる。案ずるより生むがやすし。明日は明日の風が吹くというやつである。

総次はふたたび歩き出した。胸のうちでくすぶっている未練と躊躇を断ち切るかのように。

数歩進んだところで、総次の歩みが止まった。いや、正確には止められたというべきだろうか。青葉が総次の背中から両腕を回して抱きついたからである。

「あ、青葉ちゃん?」

青葉の予期せぬ行動に戸惑う。

「・・・お願いです、行かないでください・・・」

せつなさが込められた涙声が総次の耳に届けられる。背中を通して伝わるかすかな振動が彼女の心を表しているようだった。

「自分が虫のいいことを言っているのは分かっています。でも、今やっと気づいたんです。私は総次さんのことが好きなんだって・・・総次さんのことを愛しているんだって。だから・・・だから、私の前からいなくならないでください・・・私のことを嫌いにならないでください・・・」

青葉は総次の背中に顔をうずめながら、華奢な両腕に力をこめた。

総次はしばしの間、その場に立ち尽くした。

───嫌いになれるわけないじゃないか・・・

狂おしいほどの愛しさがわき上がる。

総次は青葉と初めて会ったときから、彼女のことを気にしていた。今思えば、そのときから無意識のうちに恋慕の情を抱いていたのだろう。ひっそりと芽生えた思いは、これまた知らず知らずのうちに育っていき、気がつけばひとりでは支えきれないほど大きくなっていた。

総次も改めて知った。自分が七つの海よりも広く深く愛していることを。簡単に嫌いになれるのなら悩んだりはしない。好きだからこそ、あきらめきれず思い苦しむのだ。

総次はゆっくりとした動作で振り返ると、青葉を強く抱きしめた。

「青葉ちゃん、本当に俺なんかでいいのか?」

「はい、総次さんじゃなければ駄目なんです」

青葉は涙で揺れる瞳を向けながらきっぱりと答えた。彼女の純粋でまっすぐな気持ちが、総次の胸を熱くさせる。

───よく考えると、俺はかなり青葉ちゃんを泣かせているよな。

青葉の顔を見て、総次は心の中で苦笑した。笑顔よりも泣き顔のほうが強く印象に残っているのだから、ある意味で罪深い男なのかもしれない。などと自惚れる自分がいることに、総次はさらに苦笑せずにはいられなかった。俺はそんなナルシストタイプの人間じゃないぞ、と自分自身に言い聞かせながら、総次は指で青葉の涙をそっと拭った。

いつしか天空に姿を現した玉兎(ぎょくと)がふたりを優しく包み込む。その祝福の光を受けた青葉は、美しくて愛らしかった。

総次はあふれ出した愛しさに押されて、ゆっくりと顔を近づけた。一定の距離まで達したところで、青葉が静かに目を閉じた。緊張と歓喜がお互いの体を小さく揺らし始める。

それから数刻のちに、ふたりの唇が重なり合った。甘さとしょっぱさが同居した口づけだった。

「ん・・・」

塞がった青葉の口から吐息がこぼれる。かすかな熱をはらんだ花のような香りが心地よかった。

深まりゆく清夜の中、総次と青葉はお互いの気持ちと存在を確かめるように、長い口づけを交わした。

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