第6章 家族の肖像

夕方、水無月家の廊下で総次は青葉と出くわした。

青葉の顔には、意表を突かれた感じの驚きが表れていた。

「そ、総次さん・・・!」

「青葉ちゃん、ちょっといいかな?」

「ご、ごめんなさい、今から台所の掃除をしないといけないんです」

青葉はそう言うと、足早に総次の横を通り抜けた。

総次は黙ってその背中を見送った。

「確か前は食器の後片付けで、その前は風呂掃除だったかな」

誰もいなくなった廊下の先を眺めながらつぶやく。

ここ数日前から彼女はずっとこんな感じだった。意図的に総次と会うことを避けているのが見え見えだった。何故、敬遠されているのかは分からない。少なくとも心当たりはなかった。

総次はそれより少し前からある決意をしていた。

青葉への告白───最大のライバル神垣光騎の脱落によって生まれた一大決心だった。

今がその絶好の好機なのだが、青葉の様子がおかしいため、残念ながら絵に描いた餅という段階で終わっている。何しろ、出会ったらすぐ逃げるような態度をとってしまうのだから、言い出すタイミングなんてできるはずがない。そんな状況がもどかしくて仕方なかった。

───このまま追いかけて言ってしまおうか。

総次はつま先を青葉と同じ方向に向けた。

「あ、お兄ちゃん、ちょうどよかった」

そのとき、背後から届いた紅葉の声が総次の足の向きを反対にした。

「どうしたんだい、紅葉ちゃん」

「あのね、今度の日曜日の廃品回収に出す新聞紙と雑誌を物置まで持っていくから手伝ってほしいの」

「分かった。紅葉ちゃんのお願いだから、喜んで引き受けるよ」

「わーい、ありがとう、お兄ちゃん」

総次は笑顔の紅葉に連れられて、青葉の行き先とは正反対の方向へ歩いた。

結局、この日も決意の実行には至らなかった。


「おい、なんで俺までこんなことしないといけないんだ?」

総次は横目で倭を軽く睨んだ。

「そう言うなって。これも男同士の友情を深める儀式の一環っていうやつだ。だいたい、そんな細かいことを気にしては強い友情は築けないぞ」

その質問に対し、倭は豪快に笑って答えた。

「何が男同士の友情だ。どう考えても、おまえが授業中に居眠りをした罰のとばっちりを受けたようにしか思えないぞ」

両腕に抱えた分厚い辞典を見ながらぼやく。

事の発端は隣の倭が英語の授業で居眠りをしたことからだった。英語の担任に見つかった彼は、罰として1週間授業に使う資料と辞書の持ち運びを命ぜられた。ここまでなら別にどうでもいいことだった。ところが、そのあとに予期せぬことが起こってしまった。資料が多すぎてひとりでは運べないということで、手伝いが必要だという意見が倭からでたのだ。そして、受刑者と一番仲がいいからという理由で、総次に白羽の矢が立った。

総次は当然のことながら猛反対した。理解したかどうかは別として、一応は真面目に授業を受けていたのだから、いくら友人といえども付き合う義理はない。自業自得なのだから。だが、よりによって居眠りをした罪人は、強く総次を手伝いに推薦した。そこには道連れを増やそうという魂胆が含まれていたのはいうまでもない。不幸を背負うならひとりよりもふたりというつもりなのだろう。その推薦を英語の担当教師が承認し、強行採決という暴挙によって総次も罪人の一味になってしまったというわけだ。

「そんな被害者妄想はよくないな、総次君。いいか、よく聞け。居眠りというのは、本人の意思に関わりなく必ず誰でもやることだ。つまり、おまえも何らかしらの授業で居眠りをするというわけだ。そうなったとき、今回の件で俺に協力しておけば、今度は俺から助けてもらえるっていう算段が成り立つわけだ。どうだ、理にかなっているだろ」

立てた右の人差し指を軽く振って答える倭。どうやら気取っているつもりのようだが、全然似合っていなかった。顔と性格を考えてやってほしいものだと思わずにはいられなかった。

「俺には屁理屈にしか聞こえないな。それにいざ立場が変わったら、おまえ絶対に助けたりしないだろ」

「おいおい、人聞き悪いな。俺はそんな薄情者じゃないぞ。ちゃんと学食の焼肉定食で手を打ってやる。友情価格ってやつだ」

「ほう、じゃあ、俺も2週間分の焼肉定食と食後のジュースで勘弁してやる。他ならぬ固い友情で結ばれたおまえだからな」

「ハハハ、そうしてやりたいのはやまやまだが、残念ながら金がない。それに友情というのは金で売り買いできない代物だから、そんなことを言うのはよくないぞ」

総次の怒りのこもった微笑と倭の豪快な笑い声が激突する。売り言葉に買い言葉とはまさにこのことである。

「おいおい、言ってることが支離滅裂だぞ」

「男の会話とはそういうものだ」

総次は倭の徹底した無軌道な会話に屈し、肩をすくめた。ある意味天才的な能力だと思ってしまう。

そんな掛け合い漫才をしながら校内の廊下を歩いている途中、総次は不意に足を止めた。遠くのほうで青葉を発見したからである。彼女は男生徒と並んで歩いていた。相手は光騎ではなく、総次の知らない生徒だった。背丈や感じからして、恐らく青葉のクラスメイトだろう。彼女は総次のことに気付いていないようで、そのまま男生徒と一緒に廊下の奥へ消えていった。その際に青葉の横顔が視界に入り、総次は絶句した。青葉の顔に笑みがこぼれていたからである。それは最近、総次には見せていない笑顔だった。

───あいつは誰なんだ?もしかして・・・

心がざわめきだす。疑惑は大きな影を落とし、不安と焦燥感を生み出した。

「おい、どうしたんだ?もしかして、青葉ちゃんの浮気現場を目撃したとか?」

その言葉に反応して、総次は倭を睨みつけた。

「おいおい、そんなに怖い顔で睨まないでくれよ。ちょっとした冗談だろ」

倭は総次の迫力に気おされた。

「・・・早く教室へ行こう」

総次は憮然としながら倭より一歩前に出て歩き出した。

その日の夕方───

総次は廊下でふたたび青葉と出会った。先日会ったときと同じ場所に同じ時間。偶然の産物か神の思し召しかと問われると、後者だと言い切ってしまいそうなぐらいのタイミングであった。

今度の青葉は、無言のまま顔をうつむかせた。これだけで会いたくなかったという気持ちをうかがい知ることができる。総次は学校で出会ったときの彼女の表情を思い出した。

どうして自分のときは笑ってくれないのか、という疑問を抱く。そう思ったとたん、漆黒の感情の炎が心の奥底でくすぶり始めた。

「青葉ちゃん、ちょっといいかな?」

総次はつとめて平静を装いながら話しかけた。

「ご、ごめんなさい、今から洗濯物をたたまないといけないんです」

と言って逃げるように横を通り抜けようとする。総次は、とっさに彼女の右腕をつかんで、それを阻止した。

「時間はとらせない。どうしても青葉ちゃんに聞いてもらいたいことがあるんだ」

青葉は顔を強張らせて総次を一瞬だけ見ると、反射的に顔を床へと向けた。明らかに怯えているのが分かる。その様は猟師に捕らえられた小鹿のようだった。

「俺は青葉ちゃんのことが好きなんだ。だから、俺の恋人になってほしい」

思いを告げた瞬間、総次の全身が一気に火照った。気持ちが否応なしに高ぶる。交錯する期待と不安。相反する感情は秒単位の時とともに膨らんでいった。

青葉は頭を下げたまま、何も答えなかった。華奢な体が小刻みに震えている。訪れた沈黙に総次は嫌な予感を覚えずにはいられなかった。

「青葉ちゃん、どうして黙っているんだ?返事を聞かせてくれ!」

総次は思わず声を荒げた。焦りがさらなる不安を呼び、思考を悪い方向へと向かわせる。早く答えを聞きたい。この耳でいい答えを聞きたい。はやる気持ちがその一心の波に乗ったところで、総次の待つ我慢は途切れた。

「・・・どうして・・・どうしてそんなこと言うのですか・・・」

青葉はようやく顔を上げた。青葉の瞳と声には総次に対する非難が込められていた。

「どうしてって、それは青葉ちゃんのことが好きだからに決まっているじゃないか!だから、俺は青葉ちゃんの気持ちが知りたいんだ!」

期待していた答えと違っていたことに、総次は苛立ちを隠しきれなかった。

「もうやめてください!」

青葉の痛々しい声に総次は絶句した。

「お願いですから、これ以上私を苦しめないでください・・・私は・・・私は今のままがいいんです・・・」

青葉は涙ながらに訴えると、総次の手を振り切って駆け出した。

「青葉ちゃん!」

総次は彼女の名前を呼ぶことしかできなかった。青葉の泣き顔を目の当たりにして、足が動かなくなってしまったからである。いいようのない脱力感に見舞われる。総次はおぼつかない足取りで2階にある自室へ戻ると、ベッドの上に倒れこんだ。

「何やってるんだ、俺は・・・」

うつぶせのままで自嘲気味につぶやく。

確かに不安はあった。焦りもあった。しかし、それ以上の期待があった。

水無月家の同居人としての生活・・・遊園地での甘いひととき・・・ライバルの脱落・・・これだけ有利な条件がそろっていたのだから、いい結果を考えるのは当然のことだろう。ところが、現実は甘くなかったというわけだ。何故、こんな結果になってしまったのだろうか。青葉の言動からして、昼に出会った男生徒は無関係のように思えた。もし、関係があるのなら、何らかしらの形で話に上がるはずだ。となると、他の理由になるのだが、肝心のそれが分からない。

何が間違っていたのか?

何が足りなかったのか?

謎という木々で覆われた樹海はどこまでも広く、そして深かった。

───これって、やっぱり失恋になるんだろうな・・・

そう考えると、崖から突き落とされたような気分に陥った。青葉に対する気持ちは初めてのものだった。初恋という淡くて儚い感情だ。初恋はつぼみのままで実を結ばないというジンクスを耳にしたことがあるが、まさしくそのとおりになってしまった。ただ、春の訪れを感じることなく、そのまま終わってしまったのは口惜しい。見方を変えれば傷が浅くていいともいえるが、今の総次にそう思える余裕など皆無だった。ただただ悲しくて、虚しかった。

始まらなかった恋。

急転直下で終わってしまった恋。

終わったと思いたくはない。されど、これがすべてだった。

総次の心に身を切るような寒さをもたらす冬が到来した。もし、ひとつだけ願いの叶うという都合のいい何かがあれば、今すぐ時間を1時間ほど戻したい。そうすれば、春の息吹を感じられなくても、平穏な日常を維持することができるのだから。そんな夢物語にすがっていまいたくなるくらい、目の前の現実はつらくてたまらなかった。

もう何も考えられない。考えたくない。総次は固く目を閉じた。今までの出来事が夢であるようにと叶わぬ願いを抱きながら・・・

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