第6章 家族の肖像
ひとりの女性が頭上から総次の顔を覗き込むように見ている。総次はこの女性のことを知っていた。いつぞやの夢で邂逅した女性だ。
ルビーの輝きをたたえた瞳はまっすぐ総次をとらえていた。神秘的で非現実的な視線に総次の心がざわめきだした。
───俺はこの女性を知っている・・・?
無論、そんなはずはない。されど、そう思わせない何かを女性から感じ取っていた。
女性は不意に5回口を動かしたのち、柔らかい微笑みを見せた。その刹那、不可思議な温かさと心地よさが伝わってきた。しかし、何故か声だけは聞こえなかった。
そこで強制的に現実の世界に戻された。
目を開けると、頭上に女性の顔があった。
「あなたは誰なんだ?」
「えっと、私は若葉だけど・・・」
困ったような表情を見せながら若葉が答えた。
「あ・・・」
しばし呆然とする総次。それから数秒の時を要して夢と現実の区別がつき、飛び上がるようにベッドから起きあがった。
彼の傍らにはページを開いたままの漫画が無造作に置かれている。どうやら読んでいる途中で眠ってしまったようだった。
「もしかしなくても寝ぼけていた?」
苦笑しながら若葉が尋ねる。
「はい。ばっちり寝ぼけていました。すみません、今まで気づきませんで」
頭を垂らし加減で答える。
若葉は笑顔で首を横に振った。
「気にしなくていいわ。そのおかげで総次君の寝顔をしっかり拝めたから。総次君の寝顔は可愛いから見ていて飽きなかったわ」
「ええっ、まさかずっと見ていたんですか?」
総次は口のまわりを右手で触った。
「ええ。ばっちりとね。デジカメを持って写真撮ったらよかったわね。ちなみによだれは出していなかったから安心していいわよ」
若葉はそう言うと、鈴の音のような笑い声をもらした。
総次は情けなさと安堵が入り交じるという複雑な心境にかられた。
寝顔をじっくりと見られたのは不覚だったが、無様な寝姿をさらさなかったのは不幸中の幸いだった。もし、よだれを垂らして寝ているようだったら、たちまち紅葉から「格好悪いお兄ちゃん」の烙印を押されるに違いない。そう考えると、これからは寝るときも気を引き締める必要があるかもしれない。もっとも、そう思っていても、実際に寝てしまえばそんなことなど微塵の欠片も残さずに忘れてしまうだろうが。
「ところで、若葉さんは何か俺に用事があったんじゃないんですか?」
総次は気を取り直して、話を切り替えた。
「ええ、あれから特に変わったこととかなかったかどうか聞きに来たの。怪しい人物を見かけたとかなかった?」
若葉は真顔に戻って尋ねた。
「いえ、俺が知るかぎりそんな奴は見ませんでしたよ。あのときのちんぴらの姿は見かけていませんし」
「そう、それならいいのだけど、用心に越したことはないから気をつけて」
眉をひそめながら忠告する。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。きっとあれはたまたま襲われただけですから」
「そんなふうに考えたら駄目よ!」
「わ、若葉さん・・・?」
総次は若葉の急激な態度の変化に驚きを隠せなかった。
「ごめんなさい、急に大声を出したりして。確かにそうかもしれないけど、最近は物騒だから油断しないほうがいいと思うの」
「いえ、こちらこそ余計な心配をかけているみたいで、すみません。でも、いったいどうしたんですか?いつもの若葉さんらしくない気がしますけど」
「そうね、確かに私らしくないかもしれないわね。でも、総次君は私の大事な家族だから、どうしても心配になるの。だから、大きなお世話かもしれないけど、身の回りには十分注意してちょうだい。総次君の身にもしものことがあったら、私はきっと耐えられないと思うから」
若葉は真剣なまなざしを向けながら一歩前に進むと、総次の後頭部に両腕を回して抱き寄せた。
彼女の胸の谷間に顔をうずめる格好となった総次は、激しく狼狽して言葉を失ってしまった。心臓が外に飛び出しそうになるくらい跳ね上がる。健全な青少年にとって、両の頬に伝わる感触はあまりにも刺激的過ぎた。
「私は総次君の母親にはなれないけど、その代わりにはなりたいと思っているわ。だから、助けが必要なときは遠慮しないで私を頼ってちょうだい。それから、総次君にはいつも見守っているひとたちがいることを覚えていて。ひとりじゃないってことを覚えていて」
凪の下にある水面のような口調で語りかける。
「若葉さん・・・」
総次は上目遣いで若葉の様子をうかがった。
そのとき、総次は息を飲んだ。彼の視界に入ったのが夢で見た深紅の瞳を持つ女性の顔だったからである。しかし、まばたきをした瞬間、夢で見た女性の面影は忽然と消え去り、今しがた見ていた若葉の顔に戻っていた。
いつしか妄想がかった感情はなくなり、満たされるような温かさが総次の心に浸透した。
総次は目を閉じ、ほのかなぬくもりに身を委ねた。
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