第6章 家族の肖像
昨夜見た夢は、息苦しくなるほどのもどかしさと漠然とした懐かしさが同居したものだった。
このときの総次は幼く、父親の総大に手を引かれていた。彼がいた場所は薄暗い洞窟で、入り口付近に落盤によってできた無造作な壁がそびえ立っていた。
総大はその岩壁の前に立つと、総次を見つめながら何かを話した。しかし、肝心の内容が総次の耳に入ってこない。それはまるで音声が途切れたテレビを見ているかのようだった。
夢はそのまま霧に包まれながら消え去り、深い謎が残った。
総次は登校してからずっとその奇妙な夢のことを考えていた。
父親は何を言ったのか。
夢の中で立っていた場所はどこなのか。
手探りで回想の迷路を突き進んでみたが、同じ風景にたどり着けなかった。よくよく考えると、父親と出掛けた記憶など微塵の欠片もなかったので、思い出せなくて当たり前なのかもしれない。過去を再現したような夢であっても、しょせんは夢の世界。現実と一致するとは限らないのだから。
だが、総次はそう思えない何かをおぼろげに感じていた。だからこそ是が非でも知りたかった。夢で見た景色の場所と父親の言葉を。しかし、残念ながらどんなに記憶を思い巡らせても、答えを導き出すことができなかった。
「おい、総次」
ここで総次の思考が現実の世界へと引き戻された。
「朝からずっとぼおーっとしているみたいだが、何かあったのか?」
「いや、昨日見た子供の頃の夢のことを考えていただけさ」
話しかけてきた倭に答える。
「そうか。そういえば、俺も昨日すごく嫌な夢を見たな」
「どんな夢なんだ?」
「千歳の奴にいきなりスリーパーホールドを決められて失神寸前になったところで、空中に放り投げられ、このあいだ読んだプロレス漫画に登場した悪役レスラーのフェイバリットホールドをかけられて、後頭部を砕かれる夢だ」
「なんか凄まじい夢だな」
総次は思わず苦笑した。
「ああ、本当に凄惨極まりない夢だったぞ。あのときの千歳はいつも以上に凶暴で、まるで化け物のような強さだったからな。思い出しただけでも後頭部が痛くなってくるぜ。ぐあっ」
突然、景気のいい音と同時に倭が後頭部を押さえて前のめりになった。
そんな彼の背後に仁王立ちしていたのは、今しがた話題にあがった千歳だった。
「まったく黙って聞いていれば、凶暴だの化け物だの好き放題なこと言って。失礼しちゃうわね」
「だからといって、何も思いっきりグーで頭を殴ることはないだろ。危うく違う形で正夢になるところだったぞ」
後頭部をさすりながらぼやく。
「か弱い乙女に対して暴言を吐いた報いよ。だいたい、そんなアホな夢を見る倭君がいけないのよ」
「俺だって好きであんな夢なんか見たわけじゃない。どうせ見るなら、がさつで乱暴者のおまえじゃなく、もっとおしとやかで可憐な女の子との甘いロマンスが見たかったぞ」
「がさつで乱暴な女で悪かったわ!」
千歳はすかさず渾身のボディブローを放った。その一撃は見事に倭のみぞおちに入った。
「がはあっ!」
倭が体をくの字に折りながらその場で悶絶する。毎度見慣れた光景に、総次は苦笑せずにはいられなかった。
「いけない、総次君にお客さんが来ていることをすっかり忘れてたわ」
「お客?誰のことだ?」
「1年生の神垣君って子よ。教室の外で待っているわ」
千歳の言葉に、総次は座ったまま顔を廊下のほうへ向けた。すると、教室の出入り口付近に立っている光騎の姿を発見した。
「そうか。わざわざ知らせてくれてありがとう」
総次は席を立つと、光騎のもとへ向かった。
一年後輩にあたる来訪者は、折り目正しく一礼をした。
「こんにちは、伊倉先輩。突然お邪魔して申し訳ありません。今、時間のほうはよろしいですか?」
「ああ、構わないけど」
「それでは僕と一緒に屋上まで来てください。そこでお話したいことがあります」
「分かった」
「ご足労をおかけして申し訳ありません」
光騎は再度頭を下げると、きびすを返して歩き出した。彼に先導されるような形で総次があとを続く。
屋上に上がると、大気が蛮声を発しており、その勢いで眼下に映る木々の枝が激しく揺れ動いていた。
光騎はフェンスのそばまで進んだところで立ち止まって振り返った。
「話ってなんだ?」
「水無月さんのことです」
「青葉ちゃんのこと?」
おうむ返しに尋ねる。
「はい。実はさっき水無月さんに僕の気持ちを伝えました」
「な、なんだって!」
総次は思わず大声を出してしまった。体の内面から震えが起こる。光騎が発した言葉の爆弾は、的確に総次の心に命中し、激しい動揺と衝撃を与えた。
「どうなったと思いますか?」
「どうって・・・」
意表をつく問いかけに逡巡する総次。
頭では否定しなければと思っているのだが、肝心の言葉が出てこない。先を知ることに対する恐れと不安が喉につかえているからだ。
一方の光騎は、かすかな笑みをたたえながら、こちらの様子を静かにうかがっていた。
叙事詩(じょじし)や英雄譚(えいゆうたん)などでうたわれる、ひとりの姫をめぐって争う騎士のように相対する総次と光騎。このときのふたりは、知り合って間もない先輩後輩ではなく、幾年もの時を経た宿命のライバルと化していた。
不意に今まであった周囲の音が消え去った。そのぶん、体の中で鳴り響く音を強く感じる。今が決着の時だと己の血と心臓が告げていた。
光騎は剣を抜いて悠然と身構えていた。対する総次は、緊張しながら相手との間合いを取った。このまま時間切れを狙う方法もあるが、それでは光騎だけではなく自分自身からも逃げたことになる。だから、ここは勇気をもって踏み込まなければならない。しかし、相手の懐に飛び込むには、心の準備が不足していた。
総次の喉が鳴った。それが沈黙を破った最初の音だった。何度も前に出ようとするが、肝心の一歩が踏み出せない。結局、総次は動くに動けず、ただその場で立ちつくしかなかった。実際のところ、勝ち負けなどないのだが、それでも敗北したような気持ちでいっぱいになった。
「駄目でした」
「え?」
総次は思わず間の抜けた声を出してしまった。
「残念ながら僕の思いは受け取ってもらえませんでした。もっとも、そうなることはなんとなく予感していました」
と答えて、深いため息をつく。
「いくら「天才」とか「10年に一度の逸材」とか言われてもてはやされても、それだけでは駄目なんですよね。他の大勢の女の子には好意をもたれても、こちらが一番好きな女の子には通用しないのですから」
「神垣・・・」
総次は痛いほど光騎の心中を察した。
彼は同性である総次から見てもいい男だった。外見もさることながら、内面についても否の打ち所がなかった。きっとバレンタインでチョコレートをもらった数やラブレターを受け取った数は、ゆうに両手の指を超えているに違いない。しかし、ここまで完璧な男であっても本命の女の子に振られるのだから、恋愛というのはなんて難しいものなのだろう。
「伊倉先輩、僕は今日かぎりで水無月さんのことをあきらめます。そして、水無月さんのことは伊倉先輩におまかせします。それを伝えたくて、こうして呼んだ次第です。それではこれで失礼します」
光騎は深く頭を下げると、総次の脇を通り過ぎて屋上の出入り口に向かった。総次はその動きに合わせて体の向きを変えると、去り行く彼を黙って見送った。
この一件は総次にとって、突然降ってわいた好機だった。人の不幸につけ込むような形で悪い気もするが、この好機を逃がす手はない。青葉との関係は少しずつではあるが、総次の望んでいる方向へと向かいつつある。まだ青葉の恋人になれると決まったわけではないが、今回の出来事は間違いなく総次にとって追い風になるだろう。いつしか今までくすぶり続けていた不安は消えて、明らかな期待へと変わっていた。総次は小さくなっていくライバルの背中を見るうちに、自分が勝者であることを意識し始めた。
光騎の姿が屋上から完全に消えた直後、沈黙を守り続けていた大気がふたたび大きなうなり声を上げ始めた。
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