第5章 動き出すそれぞれの思い
皐月町に新しいアミューズメントパークが開設した。
クロッカスシティと命名された5階建ての建造物はボーリング場、ゲームセンター、ショッピングセンター、レストランで構成されており、新しい名所として人々を集めていた。
「みんな、早く早く」
先頭を切って駆けだした紅葉が、いったん立ち止まって回れ右をした。
「紅葉、こんなところで走ったら危ないわよ」
青葉が困ったような顔をしながら妹のあとに続く。
「あんなにはしゃいでいるふたりを見るのは本当に久しぶりね。日曜日に休暇がとれてよかったわ」
ふたりの愛娘に若葉が慈しむようなまなざしを送った。
若葉は大企業の開発部門に勤務しており、仕事が不規則で多忙なため、帰りが遅くまた休みもほとんどなかった。1ヶ月に1、2度の割合で訪れるたまの休みも平日が多く、こうして日曜日になったのは一種の幸運といえた。
そんな千載一遇の休日を活かさない手はない。今日の予定は満場一致で可決した。
「本当に楽しそうですね」
総次は同感を示した。彼女たちの様子を見ているとこちらまで楽しい気分になる。
「という私も実はすごく楽しみだったりするのよね。私たちも今日は思いっきり羽を伸ばしましょう」
「そうですね」
総次と若葉はひとりしきり笑い合うと、乗り遅れないようにと先行するふたりを追いかけた。
総次たちが手始めに向かった場所は1階のボーリング場だった。交互に流れる重い地響きとピンが跳ねる軽い効果音にときおり間奏として鈍い落下音が加わり、趣深い三重奏を奏でている。ボーリングの特性ともいえる年齢層の幅広さと手軽さに休日という条件が重なっているせいか、場内は予想以上の賑わいを見せていた。レーンが一杯になっているのでないかという不安もあったが、幸いにも端のレーンを確保することができ、最悪の事態は免れた。
「そうだ。このままするだけじゃ面白くないから、ちょっとしたゲームをしない?」
最後に総次がレンタルした専用の靴に履き替えたのを確認して、若葉が話を切り出した。
「ゲームですか?」
総次は首をかしげた。
「ええ。ゲームといっても罰ゲームね。ビリのひとは一番のひとのお願いを聞くというやつなんてどうかなって思ったの。あ、もちろんお願いはできる範囲のこと限定よ。くれぐれもエッチなお願いなんてしたら駄目よ、総次君」
「そ、そんなことしませんよ!」
力いっぱい否定する。瞬間的に顔を赤くなったのはいうまでもない。
「フフフ、照れちゃって。可愛いわね」
小さく笑う若葉。一連の言動から歴然とした貫禄の違いが感じ取れる。伊達に人生という果てしなく長い道を先に歩んではいないということだ。
「もう、勘弁してくださいよ」
「ごめんなさい。ちょっと冗談がきつかったみたいね。でも、罰ゲームがあると張り合いが出ると思うんだけど、どうかな?もし、嫌なら無理にとは言わないけど」
「賛成!そのほうが燃えるよね」
真っ先に手を上げたのは紅葉だった。
「青葉はどう?」
「私がビリになっても、あまり変なことをお願いしないならいいけど・・・」
青葉は不安げに総次の様子をうかがった。
「だ、大丈夫だよ。青葉ちゃんが思っているようなことは決して言わないから」
総次は慌てて右手を振った。ただ単に女の子としての防衛本能が言わせたことだと理解できたが、それでも信頼されていない感がして、結構ショックだったりする。ところがその反面、一瞬とはいえ心の中で不埒なことを考えてしまったのも事実だったので、強く否定することができなかった。男の悲しい性というやつである。
「そうですか。それならいいんですけど、本当にお願いしますね」
青葉の不安の色をたたえながら言った。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。1番になるのは紅葉だから」
それはフォローになっていないんだけど、と総次は苦笑するしかなかった。
「そうか、私が勝てばいいのよね。頑張ろう」
青葉からも笑みがこぼれる。納得できる経緯ではないものの、彼女の不安を取り除くことができたので、結果的によかったといえるだろう。
「総次君はやる気十分よね?」
若葉は含み笑いを浮かべて尋ねた。
「ええ。でも、エッチなお願い目的ではないですよ」
それに対し、余裕の笑みを返す総次。そう何度も同じ手はくわない。
「決まりね。じゃあ、早速始めましょうか」
こうして、水無月家の住人によるささやかなボーリング大会の幕が上がった。
順番はジャンケンで勝った者から投げることになり、紅葉、青葉、若葉、総次の順となった。
「よーし、いくぞー」
1番手となった紅葉は軽く体を動かしたあと、ボーリングの玉を手にしてレーンの前に立った。
「えいっ」
可愛らしい気合を込めてボーリングの玉を投じる。玉はゆっくりとした速さでレーンの中央を進むと、快い音を立てながらレーン上のピンをすべてなぎ倒した。
「やったあ!」
紅葉は全身で喜びを表しながら戻ると、みんなとハイタッチを交わした。
「やるわね、紅葉」
「エヘヘ」
母親の言葉にさらに顔を緩める。
対照的に青葉は慎重な面持ちでレーンの前に立った。
「私も頑張らないと」
丁寧な動作で玉を転がす。玉は妹とほぼ同じルートを通り、すべてのピンを倒すことに成功した。
その瞬間、彼女の顔から大きな安堵がこぼれた。
「うーん、我が娘ながらたいしたものだわ。面白くなりそうね」
若葉は心底楽しそうにしながらレーンに向かった。
そして、ゆったりとした動作で玉を転がした。玉はそのまま右のガーターに向かっていった。
総次はミスをしたと直感的に思った。ところが、玉は彼の予想をあざ笑うかのように、ガーターぎりぎりのところで進路を左に変えた。若葉が投じた変化球は、ちょうどレーンの中心部を通りながら対角線に転がり、すべてのピンを弾き飛ばした。
「うわあ、お母さんすごいっ!」
紅葉が感嘆の声を上げる。
若葉は余裕と自信を含んだ笑みを浮かべながら、出迎えた娘と同居人の少年と軽く手の平を重ね合わせた。
「次は総次君の番ね」
「頑張ります・・・」
さりげないひと言が大きな重圧をもたらす。総次は重苦しい足取りでレーンの前に立った。
───ここでストライクを取らなければ・・・
思わぬ展開に体が硬くなる。
ストライク以外の結果はなんとしても避けたい。ひとりだけ外してしまっては格好も悪いし、勝負にも多分に影響が出るからだ。だが、技術的にそうすることができないのが悲しいところである。もっとも、仮に技術があっても必ず、ストライクが取れるとは限らないが。
「お兄ちゃん、リラックス、リラックス」
総次の状況を察したのか、紅葉が声援を送った。思いやりが込められた声も、このときばかりは重く感じずにはいられなかった。
総次はしばし間をとったのち、意を決して玉を投げようとした。次の瞬間、ボーリングの玉が指に引っかかり、投げるタイミングに狂いが生じた。
「あ!」
間の抜けた声と同時に玉が垂直に落下し、鈍い音が鳴り響く。
玉はそのまま左のガーターに落ち、レーンの奥へ消えていった。
ガックリとうなだれる総次。やってしまったと悔恨するが、残念ながら時を戻すことはできない。総次は敗残兵のような足取りで引き下がった。まだ一投しかしていないのに、気分はすっかり負け犬だった。
「ドンマイ、お兄ちゃん」
紅葉の慰めの言葉が嬉しくもあり悲しくもあった。一瞬このまま駆けだしてレーンの中に飛び込みたいという衝動にかられたが、かろうじて理性が働き、寸でのところで思い留まることができた。
「ごめんなさい。なんか余計なプレッシャーをかけちゃったみたいね」
若葉が申し訳なさそうな顔をして謝る。
「若葉さんが謝ることじゃないですよ。俺がただ単に未熟だっただけですから」
そう、これは己の精神力が弱いせいなのだと自分自身に言い聞かせて、総次は再度レーンの前に立った。
───今度は決める!
気合いを込めて投げる。
「あ!」
その刹那、ボーリングの玉が指からすっぽ抜け、またもや間抜けな声が飛び出した。玉はダイレクトに右のガーターに落ちると、虚しい音を立てながら闇の彼方へ消えた。気合いが空回りした結果に、総次は茫然自失となった。
結局、この出だしのつまずきが尾を引いたのか、総次の成績は伸びず、ひとりだけ二桁の点数で終わってしまった。
「参りました。煮るなり焼くなり好きにしてください」
総次は1番になった若葉に向かって頭を下げた。公然の場所でなければ、そのまま土下座してもいいと思うほど敗北感でいっぱいだった。敗者は何も語るべからず。あとはまな板の上の鯉となって沙汰を待つのみだ。総次は潔く覚悟を決めた。
「なんかちょっと悪い気もするけど、ルールだものね。あとで荷物持ちをやってもらうでいいかしら?」
「そんなことでいいんですか?」
若葉の言葉に驚く。
「あら、これも結構大変だと思うんだけど」
「それぐらい楽勝ですよ。それで荷物持ちは今日ですよね?」
「ええ。最後にお買い物をするからそのときにお願いね」
「分かりました」
総次は無難な内容に安堵した。
続いて4人が向かったのは2階にあるゲームセンターだった。館内は様々な効果音が鳴り響き、独特の喧噪を生み出していた。
「あったあった。あれだわ」
真っ先に若葉が駆け寄った先は、ゲームセンターでは定番となっているUFOキャッチャーのコーナーだった。
「若葉さん、それ出来るんですか?」
「あら、失礼ね。こうみえても大学生の頃は、よくこれで遊んでいたのよ。それとも私が大学生の頃にはUFOキャッチャーなんてなかったと思ったのかしら?」
「い、いえ、そんなつもりで言ったわけじゃありません」
総次は首を横に振って否定した。
「本当?私がおばさんだって思ったんじゃないの?」
若葉が疑いのまなざしを向ける。
「ち、違いますよ!そんなつもりで言ったんじゃありませんよ!」
狼狽しながら答える総次。その様子を見て若葉が吹き出した。
「冗談よ。でも、総次君から見れば、確かに私は十分おばさんになるわよね」
「そ、そんなことないですよ。若葉さんは見た目がすごく若いから、絶対おばさんには見えないですよ」
必死に取り繕う。
「フフフ、ありがとう。そう言ってもらえると、お世辞でも嬉しいわ」
若葉は微笑みながらそう言うと、UFOキャッチャーに近づいた。
「さあ、何か欲しいぬいぐるみがあるならリクエストして頂戴。ただし、取れるのは当然、上にあるやつだけよ」
「あ、紅葉はあのコアラさんのぬいぐるみが欲しい!」
紅葉が真っ先にリクエストをあげた。
「OK。お母さんにまかせなさい」
若葉は娘にひとしきりの笑顔を送ると、百円玉を3枚入れてUFOキャッチャーの操作を始めた。
賑やかな音楽にうながされてクレーンが動き出す。クレーンがコアラのぬいぐるみの真上にきたところで、若葉はUFOキャッチャーについているボタンを押した。ゆっくりと降りたクレーンは、見事にコアラのぬいぐるみをキャッチして、もとの位置に帰還した。
「お母さん、すごーい!」
紅葉は感嘆と歓喜が入り混じった声を上げた。
「久しぶりだから、うまく取れるかどうかちょっと心配だったけど、うまくいったよかったわ。次は青葉の分を取ってあげるから、リクエストがあるなら言って」
若葉は安堵の表情を浮かべながらぬいぐるみを紅葉に渡すと、青葉に話しかけた。
「私は・・・あのいるかのぬいぐるみがいいな」
「あれね。了解」
ふたたびクレーンの操作に入る。今度も注文どおりぬいぐるみの確保に成功した。
「ありがとう、お母さん」
嬉しそうにいるかのぬいぐるみを受け取る青葉。
若葉はそんな娘に穏やかな笑みを返した。
「どういたしまして。最後は総次君ね。総次君は男の子だからぬいぐるみに興味ないかもしれないと思うけど、私からのささやかなプレゼントということで、受け取ってくれないかしら?」
「分かりました。ありがたく頂戴します。それでは、あそこにあるプテラノドンのぬいぐるみをお願いします」
総次はUFOキャッチャーのケースの中を確認して答えた。
「プテラノドンか。なかなか味のあるものを選んだわね」
若葉は軽く笑って、UFOキャッチャーのクレーンを動かした。今度もまた狙いすましたようにクレーンでプテラノドンの捕獲に成功した。
「もし、いらなかったら彼女にあげてもいいわよ」
「俺、彼女なんていないんですけど」
困ったような顔をする総次。
若葉は少し驚いた様子で総次を見た。
「あら、そうなの。総次君って、結構もてると思うんだけど。みんな、見る目がないのかしら」
「そんなことないですよ。それに仮にいたとしても、これは若葉さんからのプレゼントですから、絶対にあげたりしませんよ。こいつは家宝として、俺の部屋に飾ります」
総次は真顔できっぱりと言い切った。
「ありがとう。総次君は優しいわね。やっぱり総大さんの子ね」
若葉はそう言って目を細めた。
「そ、そうですか」
突如、父親の名を耳にして困惑する。
「ええ。表現の仕方は違うけどね」
若葉は総次を見つめながら微笑んだ。
総次は首をかしげずにはいられなかった。自分の知っている父親に優しいという単語があてはまらないからである。いい加減とか、厳しいというのならすぐに理解できるのだが。第三者が語る父親像は、一種のミステリーだった。
「みんな。あとひとつだけ、どうしてもやりたいことがあるから、もう少しだけ付き合ってくれるかしら?」
「やりたいことって何?」
紅葉が尋ねる。
「プリクラよ。今日、これだけはどうしてもみんなとやりたかったのよ。さあ、行きましょう」
若葉は嬉しそうに答えると、総次たちをやんわりとうながしながら、プリクラのある場所へ向かった。
「紅葉は右にもう少し寄って。青葉は左ね。総次君はそのままでいてちょうだい」
プリクラの中に入ると、若葉が立つ位置の指示を出した。
姉妹に挟まれる位置に立たされた総次は、否応なしに胸の高鳴りを覚えた。これぞまさしく両手に花というやつである。この状況で舞い上がらない男はまずいないだろう。
「ふたりとも、もう少し総次君にくっついて」
母親の言葉と同時に、姉妹の壁が狭まった。両の肩に柔和な感触が伝わり、素朴な緑の香りが鼻をくすぐる。ほんの一瞬だが、ついその香りに心を奪われてしまった。
「これでよし、と。そのまま動かないでね」
若葉は撮影するためのボタンを押すと、すばやく総次たちの背後に回り込んだ。
「はい、チーズ」
そして、両腕で3人を包み込むように抱きしめる。
「うわっ」
その刹那、総次が驚きの声を上げたのと同時に、フラッシュが焚かれた。
プリクラを撮り終わったあと、若葉が出来上がった写真付きシールを見て満足げな笑みを浮かべた。
「いい記念写真になったわ。フフフ、特に総次君がいい味を出しているわね」
「仕方ないですよ。まさか若葉さんがあんなことをするとは思ってもみませんでしたから」
一方、話題にあがった総次は、顔を赤らめたまま、ささやかな反論をした。心臓が激しく躍っている。水無月家の女性陣と密着したときの感触と匂いが鮮明に思いされたからだ。美人の母娘によって作られた三角形の包囲網は、そうそう忘れられるものではない。
「お母さん、すごく楽しそうだね。こんなお母さんを見るのは初めてだよ」
「そうかしら。でも、確かに今日はすごく楽しいわ。きっと私の大切な家族と過ごすひとときだからかもしれないわね」
若葉は紅葉の頭を撫でた。
「若葉さん、ありがとうございます。俺、すごく嬉しいです」
総次の胸の中に熱くて快い電気が走った。彼女の言葉に込められた気持ちが何よりも嬉しかった。
「そんな他人行儀みたいなことは言わないで。総次君はもう私たち水無月家の一員なのだから」
若葉は総次のそばに寄ると、右肩に手を置いた。
総次は感謝と喜びをさらに膨らませた。
「ありがとうございます」
「ほら、また他人行儀になってる」
「すみません」
今度は平謝りをした総次に対し、若葉は苦笑した。
ちょうど時間が正午に差し掛かったということで、総次たちは最上階の展望レストランに入った。
食事どきという時間帯に休日という条件が重なっているため、店内は満員御礼状態であったが、それでも総次たちは一番見晴らしのいい席に着くことができた。若葉があらかじめ予約を入れていたからである。
総次は鉄板の上にあるステーキをさばいていた。手つきがぎこちないのは、滅多に口にしない食べ物だからだ。最初は遠慮して一番安い唐揚げ定食を頼むつもりだったのだが、若葉の強引な気遣いで今のメニューとなった。「総次君は男の子だから、しっかり栄養をつけないとね」というのが若葉の意見だった。
「お兄ちゃん、そのステーキおいしそうだね」
円卓の右隣にいた紅葉が覗き込むようにして話しかけてきた。
「ああ、すごくおいしいよ。ステーキなんて、ほとんど食べたことがなかったから、食べるのに苦労してるけどね」
総次は手を止めると苦笑いをした。
「ねえねえ、紅葉にも一口食べさせてくれないかな。実はね、さっきから気になっていたの」
「いいよ。ひとりでは食べきれないと思っていたから、ちょうどよかったよ」
総次はそう言うと、ステーキを切って、紅葉の皿に移そうとした。
「あ、待って。せっかくだから、直接紅葉に食べさせて」
「えええっ?」
思わず驚きの声を上げる。
「ほら、このあいだ一緒に見たドラマで、仲のいい兄妹がふたりっきりで暮らしていて、お兄ちゃん役のひとが妹の役のひとにごはんを食べさせるっていうシーンがあったでしょ。あれをやって欲しいの」
「え、えっと・・・」
一緒に見たドラマでそんなシーンあったのかと近い記憶をたどるが、思い当たるふしがなかった。また、どんなドラマなのか皆目見当がつかなかった。しかし、紅葉がそう言うのだから、きっとあったのだろう。
「ねえ、早く早く」
躊躇する総次を急き立てるかのように、紅葉が甘い口調でせがむ。
「紅葉ちゃんがそこまで言うのなら、別にいいけど・・・」
総次はためらいを拭いきれないまま、フォークを使ってステーキの切れはしを紅葉の口に運んだ。
「うん、すごくおいしい」
紅葉は頬に手を当てて、至福の笑みを披露した。その無邪気な仕草に、総次もつられて笑った。
「総次君、私もひと口いいかしら?」
そう言ってきたのは、正面の席にいる若葉だった。
「ええ、いいですよ」
総次はステーキを切ると、若葉の皿に移そうとした。
「あら、私には食べさせてくれないの?私も総次君に食べさせてもらいたいなあ」
作為的な笑みを見せる若葉。
総次はぴたりと動きを止めた。
「え、えっと・・・本当にいいですか?」
色濃い困惑を浮かべながら尋ねる。すっかり水無月家の女性陣に翻弄されている。
「特に問題ないと思うけど、何かある?」
「いえ、若葉さんが問題ないというなら、問題ないと思います・・・」
総次は歯切れの悪い言い方をすると、ステーキの切れ端をフォークに刺して前に出した。
「うん、柔らかくておいしいわね」
若葉が満足げにうなずく。こちらもご満悦のようだった。
「もう、お母さんったら」
母親の様子を見て、右手側にいた青葉がため息をついた。
「よかったら青葉ちゃんにも分けてあげるけど、どうする?」
総次は彼女ひとりだけあげないわけにはいかないと思い、確認をとってみた。
「うーん、どうしようかな・・・」
「せっかくだから、青葉も分けてもらったら?すごくおいしいわよ」
若葉が勧める。
「それじゃあ、少しだけ私にも分けてください」
青葉が少し考えて返答すると、総次は再度小さくステーキを切った。そして、フォークを使って反射的に差し出す。その瞬間、総次はしまったと心の中でつぶやいた。
紅葉や若葉と違い、そんな恥ずかしい食べ方をしないと思ったからである。ところが、それに対する青葉の行動は、まったく予想外のものだった。母親や妹と同じようは総次に大きな、そのままステーキを口に入れたのだ。青葉の予期せぬ大胆な行動は、総次に計り知れない驚きをもたらした。
「確かにおいしいですね」
感想を述べる彼女を唖然としながら見つめる総次。
「どうかしましたか?」
「い、いや、なんでもないよ」
そう答えるのが精一杯だった。
「お兄ちゃん、お返しに紅葉のおかずをあげるね」
「ありがとう」
総次が皿を差し出そうとすると、紅葉は首を振ってそれを制した。
「駄目だよ、お兄ちゃん。ドラマじゃお返しに妹がお兄ちゃんに食べさせたんだから、今度は紅葉がお兄ちゃんに食べさせてあげる。はい、あーんして」
「えええっ」
またもや驚きの声を上げる。先ほどから驚愕の連続だ。
「ほら、お兄ちゃん、早く。食べてくれないと紅葉、泣いちゃうぞ」
紅葉が少し怒ったような口調でうながす。すっかりドラマの中の妹になりきっているようだった。
総次は困窮した。恥ずかしいので断りたいのだが、そうすることができない。本当に泣いてしまったら大変だからだ。
紅葉のいうドラマで、兄役の人物がどんな答え方をしたのかと考えると、結論はひとつしかでなかった。
───やっぱり喜んで食べたんだろうな。
それ以外に考えられない。一瞬、急に腹痛になって、食べられなくなったという筋書きを勝手に立ててみたが、すぐに打ち消した。いくらなんでも、そんなオチはありえないだろう。コントではないのだから。
総次は観念して、紅葉が差し出したエビフライを口にした。極度の緊張と恥ずかしさに見舞われ、胸の鼓動が速さを増す。
「おいしい?」
紅葉は明白な期待を込めて、まじまじと総次の顔を見つめた。その表情がこれまた愛らしい。
「ああ。とってもおいしいよ」
総次は笑顔で答えた。本当は味などまったく覚えていなかったのだが、反射的にそう答えてしまった。こんな無垢で愛らしい表情を見せられてしまっては、どんなまずい料理でもおいしいと言うしかない。いや、むしろ強制的に言わされるといったほうが正解かもしれない。それほどまでに妹という存在に秘められた力は絶大だった。妹的存在の少女の凄さを総次は身を持って知ることができた。
「次は私の番よ。お兄ちゃん」
と言ったのは若葉だった。
「わ、若葉さん・・・」
彼女の言葉に総次は思わず机に顔面を強打しそうになった。
「冗談ですよね?」
駄目もとで聞いてみる。しかし、返ってきた答えは、やはり期待どおりにはいかなかった。
「本気に決まっているじゃないの。それとも、総次君は私みたいなおばさんには食べさせてもらいたくないの?ああ、やっぱりそうなのね」
傷ついたような素振りを見せる。明らかに演技だと分かるのだが、それでも総次の抵抗を封じるには十二分の効果があった。
「そ、そんなことはないですよ!」
総次が慌てふためく。
「そう。それじゃあ、あーんして」
「分かりました」
総次はそう答えると、差し出された唐揚げを食べた。気恥ずかしさでいっぱいになったが、嫌な気持ちは微塵もなかった。女性に食べさせてもらえるということ自体については、逆に歓迎の口だった。総次もれっきとした男なので、そう思うのが当然である。ましてや相手が美人または可愛い女性なら、なおさらのことだ。
「総次さん、私はこれをあげますね」
最後のとりを飾ったのは青葉だった。
「青葉ちゃんまで・・・」
青葉のさらなる大胆な行動は、総次に驚きと困惑を与えた。
「だって、私だけ何もあげないのは不公平ですから。それとも、私がやると迷惑ですか?」
青葉が不安げに眉をひそめる。こちらは演技ではないだけに、総次は若葉のときよりも慌てふためいた。
「そんなことないよ!むしろ、少し嬉しいかな」
つい本音がもれる。
「よかった。それでは、あーんしてください」
青葉はふたたび微笑みを取り戻すと、ハンバーグを差し出した。
総次は顔を前に出して、ハンバーグを口に入れた。彼女の顔との距離が縮まるにつれ、体が熱くなり、胸の鼓動が高くなる。紅葉や若葉のときも同じ症状になったが、そのときよりも度合いが大きかった。やはり相手が青葉だからであろう。このとき、総次は彼女が自分にとって特別な存在なのだと改めて認識した。
このあと、何故かお互いのおかずを交換しながら食べ合うようになり、ランチタイムは終始くすぐったさを含んだ和やかな空気に包まれた。
「周りのひとが私たちのことをずっと見ていたよね」
レストランから出たあと、青葉が頬を少し赤らめながら言った。
「そうね。きっと私たちの仲のよさにびっくりしていたんでしょうね。レジのひとも「すごく仲のいい家族ですね」って言っていたし。これでちょっとした有名人になるかもしれないわね」
そう言って、若葉は楽しそうな表情を浮かべた。
「さてと、これであとはお買い物をするだけね。総次君、荷物持ちのほう、よろしくね」
「まかしておいてください。敗者らしく馬車馬のように働きますよ」
腕まくりをする総次の姿に、美人の母娘はいっせいに笑った。
総次に架せられた罰ゲームは、4つのビニール製の手提げ袋に集約されていた。それは大きさもさることながら、何よりも重さが半端ではなかった。おかげでクロッカスシティを出てから水無月家へ戻る道中は、総次にとって過酷な試練となっていた。
「お兄ちゃん、大丈夫?紅葉が少し持ってあげようか?」
「ありがとう、紅葉ちゃん。でも、これぐらい俺ひとりで十分だよ」
総次は心配げに覗き込む紅葉に向かって微笑んだ。これだけでも何故か疲れてしまう。笑うのにも、無理しなければならないせいだろう。
「タイミングよく大安売りなんかやっていたから、ついいっぱい買ってしまったわ。本当につらくなったら、すぐ言ってね」
「ごめんなさい、総次さん。お醤油をたくさん買ってしまって。やっぱり私も一緒に持ちましょうか?」
若葉と青葉も総次を気遣う。それに対し、総次は首をやんわりと横に振った。
「俺なら本当に大丈夫ですから、そんなに気を使わないでください。俺は男ですから、この程度の荷物なんて朝飯前ですよ」
意識的に強気な態度をとる。本当はすでに満身創痍なのだが、ここで弱音なんか吐くわけにはいかない。つまらぬ意地かもしれないが、これが男という生き物の性なのだ。
クロッカスシティを離れておよそ1時間が経過している。往路の時間を使って減算すると、水無月家に到着するまで15分という数字がはじき出された。自分でいうのもなんだが、よくぞここまで頑張ったと思う。あと15分耐えるんだ、と総次は自分自身を叱咤激励した。
総次たちが突き当たって右に曲がる道に差し掛かったそのとき、突然、荒々しい足音とともに4人のちんぴら風の男が現れて、行く手を遮った。
男たちは総次たちを見るなり、いっせいに襲い掛かってきた。
突然の出来事に総次はすっかり面食らい、ふたりの男に捕まってしまった。
「な、なんだ、おまえたちは?」
「つべこべ言わず、俺たちと一緒に来てもらおうか」
「いきなり何言うんだ!そんなことできるはずないだろ!」
総次はちんぴらの手を振りほどこうとした。暴れた拍子に、持っていた袋が派手に落ちて中身が地面に散乱する。しかし、相手が大人ということもあり、逃れることができなかった。
「あなたたち、いったいどういうつもりなの?」
「きゃあああ!」
「助けて!お母さん!お兄ちゃん!お姉ちゃん!」
水無月家の女性陣が残りのちんぴらに襲われ、悲鳴を上げる。
「やめろ!みんなに手を出すな!」
総次は怒りに身をまかせて再度抵抗を試みた。自分はどうなってもいいが、みんなはなんとしても助けたい。されど、現実は無慈悲だった。
「うるせえ!おとなしくしろや!」
ちんぴらのひとりが暴れる総次のみぞおちを殴った。
「ぐっ」
総次は、たまらずその場で片膝をついた。己の無力さがこれほど恨めしいと思ったことはなかった。
そのときだった。
「あなたがたはそこで何をしているのですか?」
突然飛び込んできた声は、聞き覚えのある声だった。
「その声は神垣光騎か?」
総次が顔を上げると、その視線の先には竹刀を肩に担いで立っている後輩の姿があった。
「そちらにいるのは、もしかして伊倉先輩ですか?今、お助けいたします!」
光騎は担いでいる竹刀を袋から取り出すと、それを手にして駆け出した。そして、総次を襲っていたちんぴらに向かって竹刀を振るった。
「がっ」
「ぐはっ」
ちんぴらのひとりは肩、もうひとりは頭を押さえて飛び退く。
光騎はさらに目にも止まらぬ早業で、若葉たちを襲っている別のちんぴらにも竹刀を見舞った。
「あでっ」
「ぐはっ」
竹刀を食らったちんぴらが、それぞれ情けない悲鳴を上げて離れる。
そのときにできた隙をついて、光騎は総次たちとちんぴらの間に割って入った。
「これ以上、暴挙に出るというのなら、僕が相手になりますよ。ただし、今度は手加減しませんから、覚悟しておいてください」
光騎は竹刀を正面に構えてそう告げた。その穏やかな口調とは裏腹に、ただならぬ気配が彼から漂い始める。研ぎ澄まされた見えない刃を突きつけられたような感覚といえばいいだろうか。そばにいた総次は思わず反射的に身震いをした。これが天才剣士と呼ばれる少年の本気なのだと直感した。
「ちっ、いったんずらかるぞ!」
ひとりが逃げ出したのをきっかけに、ちんぴらたちは散り散りになった。
「みなさん、大丈夫ですか?」
光騎はちんぴらの姿が完全になくなったのを確認したあと、総次たちに話しかけた。
「俺は大丈夫だ。それより、みんなは?」
「私たちも大丈夫よ」
総次の言葉に若葉が代表して答えた。
「ぐすっ、ひっく、怖かったよお」
「もう大丈夫よ、紅葉」
青葉は泣きじゃくる紅葉を優しく抱きしめ、背中をさすった。
「神垣君、助けてくれてありがとう」
「あ、いえ、当然のことをしただけでありますです!」
光騎は青葉に礼を言われて、声をうわずらせながら怪しい言葉遣いで答えた。4人のちんぴらを一蹴した人間とは思えないほどの変貌ぶりだった。本当に先ほどの光騎と今の光騎は同一人物なのかと、総次はつい疑ってしまった。
「あれ、その方は青葉の知り合い?」
「うん、私のクラスメイトの神垣光騎君よ」
青葉は母親の質問に答えた。
「はじめまして。神垣光騎と申します。水無月さんにはいつもお世話になっております」
光騎が深くお辞儀をする。
「はじめまして。母の水無月若葉です。こちらこそ娘がお世話になっております。それから、危ないところを助けてくださって、ありがとうございます」
若葉も同じように頭を下げた。
「いえ、礼には及びません。当然のことをしたまでですから。ところで、さっきの連中に心当たりとかありますか?」
光騎は気を取りなおして尋ねた。
「いや、あんな奴など知らないな。ただ、俺をどこかに連れて行こうとしていたな。なんでかは分からないけど」
総次はそう答えて、若葉たちを見た。
「私たちも知らないわ。もしかすると、成り行きで誘拐か強盗をしようとしたかもしれないわね」
それが若葉の見解だった。
「そうですか。また奴らがみなさんを狙って戻ってくるかもしれませんので、私がみなさんを家までお送りします」
「そうしてくれると助かる。迷惑をかけるが、よろしく頼む」
総次は光騎の申し出を素直に受けることにした。また連中に襲われたとき、自分ひとりでは対処できないのは明白なので、彼の申し出はまさに渡りに舟だった。
「何かから何まですみません」
「神垣君、迷惑ばかりかけてごめんなさい」
若葉と青葉が同時に頭を下げた。
「そんなこと気にしないでください。それにその、あの、なんといいますか・・・」
急に口ごもる。
そんな光騎に若葉と青葉は顔を見合わせて首をかしげたが、総次だけは彼が何を言いたいのかなんとなく分かった。
「えっと、とにかくみなさんは私が一命にかえても送り届けますので、大船に乗ったつもりでいてください」
光騎はそう言うと、先頭をきって歩き出した。
「おい、神垣。行く方向が逆だぞ」
総次はとっさに声をかけた。自然と苦笑いが浮かび上がる。
「も、申し訳ありません!うっかりしました」
光騎は顔を真っ赤にさせながら慌てて回れ右をした。
それから先の道のりは、張り詰めた沈黙に包まれはしたものの、心配された来襲もなく、無事に水無月家に到着することができた。
「送ってくださり、本当にありがとうございました。もしよかったら、あがって夕食でも食べていきませんか?」
若葉は光騎にそう申し出た。
「せっかくのお誘いはありがたいのですが、あまり遅いと家族が心配しますので、これで失礼させていただきます」
光騎はすまなさそうにしながら丁寧に断った。
「そう、残念だけど仕方ないわね。それでは、近いうちに改めてそちらのほうにお礼に伺いますので、そのときよろしくお願いします」
「分かりました。でも、さっきも言いましたが、私は当然のことをしただけですので、あまり気にしないでください。それではこれで失礼します」
光騎はそう言うと、一礼をして立ち去った。
「さあ、中に入りましょうか」
若葉にうながされ、青葉と紅葉が家の中に入った。
しかし、総次はその場に立ち尽くして動かなかった。
───本当にちんぴらの襲撃は偶然だったのか?
状況からして、そう考えるのが一番妥当なのは分かっている。少なくとも、ちんぴらの知り合いなどいないし、ましてや彼らに狙われる理由はない。だが、それでも何か釈然としないものがあった。どうしてそう思うのかは分からなかったが、見えない何かが総次の心をざわめかせていた。
「どうしたの、総次君?」
若葉が怪訝そうにしながら尋ねた。
「いえ、何でもありません」
総次は小さくかぶりを振ると、最後に家の中へ入った。
体内で鳴り出した音無き警鐘は、一向に止まる気配がなかった。
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