永遠の眠りの魔女

永松マボ

永遠の眠りの魔女

 タイヤの軋む音がした。歩行者たちが事故現場を指をさして見ていた。痛みは次第に麻痺していき、頭はぼんやりしていた。

 そして暗闇。

 ああ、これは死んでいるのだな、と悟った。そして最初に頭をよぎったのは、しまった、今死んだら明日仕事に行けない、という思いだった。

 今思えば、それがブラック企業で過労死した究極の証明だったはずだ。

 人生の最後に、仕事以外には何もない自分が、ようやく休める。


 そして魂は2つの世界に漂う。上と下が入れ替わる「隙間」。黒が白であり、無色なところ。永遠と一刻が同時に過ぎ去る場所。右と左が同じ方向である。それは枠であり、中であり、間である。


 無が全であるこの場所で、特徴のない、しかし非常に聞き覚えのある声がする。『ああ、みじめな魂よ』

 その声はどこからともなく、また、一様に至るところから聞こえてくる。それは心地よくもなく、不快でもない。虚しさに満ちた声だった。

 

『このような純粋な魂を、どのような残虐行為がこれほどまでに苛んだのか――望みを述べよ、叶えてやるかもしれないぞ』


「疲れた」

 誰にも答えず、何も期待せず、願い事を口にした。

「眠りたい」


『ならば眠るがいい』


♢♦♢♦♢


 何かが鼻をくすぐる。うっすらと目を開ける。

 病室か、あるいは救急車の中を期待しているが、目を開けたら目の前に広がっていたのは、信じられないような光景だった――見渡す限りの緑の草原。

 誘拐?外国?......ああ、疲れきって頭がまわらない。


 身体的には絶好調で、関節の痛みを感じなかったのはいつ以来か覚えていないほどだったけど、精神的には、1年か2年は休養が欲しい。

 身体的と言えば、なぜか胸には2つの肉の塊があって、しかも裸の姿をしている。

 ああ、これが突然女の子として目覚めたときの感覚なのだろう。まあどうでもいいけど。どちらかといえば、寝てる間に虫に刺されるのが心配なのだ。


 うーん、ここから動きたくないのに、どうやって服を手に入れたらいいんだ?そう考えあぐねているとき、肌に何かが触れるのを感じた。

 風かな?

 そう思ったけど、微風とはちがい、それは常に流れているような、無形のエネルギーの流れのような気がする。


 驚いたことに、手を伸ばすと、このエネルギーの流れは命令に従う。へえ、可鍛性なんだ。

 このエネルギーを引っ張ることも、押すことも、伸ばすことも、凝縮させることもできる。そして凝縮されると、青白い光まで輝く。

 こんなエネルギー、地球上のどこにも存在しないはず。


 隠れオタクにとって、自分の現状を理解するのに時間はかからない。こんなテンプレ、前世で読んだラノベの中で何回も見たことがある。

 そう、『前世』。

 それはつまり、自分はもう死んで、そしてここは異世界だということ。きっと美少女として異世界に転生したのだろう。


 燃える展開……にしては、燃え尽きた焚き火のように、疲れ果てている。

 日差しは肌に熱くなく、暖かく心地よく感じる。そして時折そよ風が吹き、景色もゴージャスで、小高い丘からどこまでも続く草原を見渡し、体を預ける木がある。

 異世界なんてどうでもいい、ここは昼寝をするのに最高の場所だ。


 でも、待てよ?これが異世界なら、もしかしたらアレができるんじゃないのか。可能性はないでもないだろう。

 

 近くにある石を探し、手のひらサイズの石を見つけると口元に運ぶ。

 当然こんなことしたことないし、参考にしたのは全部フィクションだから、うまくいくかどうかわからないけど、もしこのエネルギーが魔力だとしたら、今やろうとしていることは魔法なのかもしれない。

 声にエネルギーを集め、手に持った石に向けて、息を吹き込んで言う、「衣物を作れ」と。


 石が青白く光り、ヒビが入ったかと思うと、突然ヒビが割れて石の手足になる。そして、ストーン・ゴーレムが誕生した。

 上手くいったもんだな。


 ストーン・ゴーレムは手の平から飛び降りて、落ちている枝を拾って、それを使って草や葉っぱなどを織り始めた。

 まあ、何で衣物を作れば良いのかまでは指示してないから、仕方ないだろう。着れるものさえあれば、それでよし。

 そう思うと、眠気が襲ってくる。後はゴーレムに任せて、自分は昼寝をしよう。


 おやすみだ。


♢♦♢♦♢


 ぐう〜と腹の音がした。うっすらと目を開ける。

 そういえば、何も食べていないな。

 何時間経っただろう……って、まるで夏の日のような緑色だった草原が、今はすっかり秋の色に染まっている。 オレンジ色の葉が落ち、虫たちが冬に備えて穴を掘っている。

 いや、何ヶ月も眠っていたの? それなのに、まだくたくたで眠い。 空腹がなければ目覚めることもなかっただろう。


 そう思ってお腹に手を当てると、自分が服を着ていることに気づいた。あのゴーレムが服を作ってくれたのか。

 あのゴーレムはどうなったんだろう。何カ月も経っているのなら、少量の魔力しか与えていないのだから、もうすでに機能を停止しているはずだ。

 安らかに眠れ、ストーン・ゴーレム。

 お疲れ様でした。


 心の中でストーン・ゴーレムを見送ったその時、目の端にピタピタと歩き回る何かの姿を捉える。

 そのすがたはまさか、ゴーレムくんだ!


 何ヶ月経っても、ゴーレムは甲斐甲斐しく服を作っている。ああ、感動的だ。でも、なぜまだ機能しているのだ?もう燃料は尽きているはずなのに。


 ストーン・ゴーレムに手を伸ばし、手に取る。 ゴーレムは抗議もせず、おとなしく運ばれていく。

 どういう原理なのだろう?わずかな魔力を与えただけなのに、なぜまだまだ作動しているのだ。 指でゴーレムを探ってみた。くすぐったいのか、ゴーレムは笑いを漏らすことはなかったが、戯れるようにくねくねと動いた。


 どういうわけか、空気中の魔力を吸収して、内部の魔力に変換している?

 へえ、そんなこともあるんだ。どうやってなのか、何のためなのかはわからないけれど、結局のところ、必要なエネルギーは常に世界から供給されているため、栄養を摂ることなく動き回っているわけで、正直うらやましい。

 自分も食べなくても機能できるようになりたい。 ゴールムくんの真似をして、完全に食欲をなくす方法があればいいのに……


 ……

 ………

 …………あるかも?

 

 いや、待て。

 自分は人間である。少なくとも一応は人間のように見えるので、具体的にどの種族に生まれ変わったのかは分からないけど、いずれにしても炭素ベースの生物である。

 ストーン・ゴーレムは石でできているので、生物と呼ぶにはキツイと思うが、シリコンベースの生物だ。

 したがって、食料を必要とする生物である自分が、ストーン・ゴーレムの真似をして魔力を使い、細胞に適切な量のエネルギーを供給することはできないだろう。


 でも、必要なのはエネルギーじゃなく栄養、だろう?タンパク質、炭水化物、脂肪、ビタミン、ミネラル、そして水分。つまりは無形の魔力じゃなく、有形のモノ――質量と呼んでもいい。


 あれ?でも、エネルギーは質量だと、たしかアインシュタインがいってったっけ。E=mc²のやつ。

 いやね、異世界物語でもその事例が山ほどある、例えば、水の魔法を使ったりね。魔力を水に変換する、すなわちエネルギーを質量に変える。

 そして水――水分、つまり身体にとって必要な栄養素の一つだ。


 それなら、他の栄養も魔力で作ればいいんじゃないのか。可能性はないでもないだろうし。

 異世界様々だ。


 でも、常に栄養を作り続けないといけないとなると、起きていないといけないから面倒なんだ。

 それに眠たい。もう眠くて眠くて、ふとした瞬間に永遠に眠ってしまいそうだ。代わりにやってくれる人がいれば、疲れ知らずの人がいれば……

 と、ふと視線を手の中のストーン・ゴーレムに戻す。


 エネルギーが質量であるならば、その逆もまた真である。質量=エネルギー、そしてゴーレムくんは質量をもっている。

 ストーン・ゴーレムという質量を、魔力というエネルギーに分解し、吸収して、自分の中に作り直す。もちろん、その大きさのストーン・ゴーレムが体内だとでデカすぎるから、凝縮させる。 その結果、ストーン・ゴーレムは親指サイズに小さくなり、宝石のように輝いた。

 魔力で作り直したのだから、もはや魔石と呼ぶのがふさわしい。

 その魔石を、丹田に収める。 最初は心臓にはめようと思ったけど、下手したら死んでしまうので、安全なところに置いた。


 すると、空腹感が徐々に満たされていく。 ゴーレムくんが体に必要な栄養を供給してくれているのだ。

 上手くいったもんだな。


 ゴーレムがいるのは確かに便利だが、ニーズを満たすために新しいゴーレムを作る必要があるたびに目を覚ますのは面倒くさそうだ。

 木に頭を乗せながら考え込む。

 この木をゴーレムを作るゴーレムにしようかしら。 そして、この木が要求を理解する必要性があるから、魔石もこの木につなげよう。

 寄りかかった木に向かい、息を吹きかけ言う、「我に仕え」と。


 木は体内の魔力をかなり取り込み、そして鮮やかに輝いた。目覚めた木は揺れ動く。

 石と違って、植物は生き物であり、魂を持っている。木が自分の魂を感じるように、自分もその魂を感じることができる。

 木の使い魔が誕生した。


 ああ、もう限界だ。眠い、眠すぎる。後は全部使い魔に任せよう。

 今日はもう、おやすみだ。


♢♦♢♦♢

 

 誰かが叫んでいて、うるさい。嫌でもまぶたが開き、体全体よりも重く感じる。

 なんだなんだ、何が起きている?


 三度目の目覚めとしたら、目の前に広がる光景は信じられないものだった。何もなかった緑の草原に、たくさんのゴーレムが出現し、その一匹一匹が何らかの仕事をしているのだ。

 蔓草のゴーレムは、さわやかな香りを漂わせる花畑の手入れをしている。粘土のゴーレムは、新しい服を縫っている。石のゴーレムは、輪になって見張っている。

 着ている服も変わり、草の上に座っているのではなく、絹でできた敷物が下に敷いてある。


 おとぎ話の世界から飛び出してきたような光景だ。使い魔のツリー・ゴーレムがこれだけのものを用意するには、本当に長い時間がかかっただろう。

 そう思うと、使い魔の魂から誇らしげな感じが伝わってくる。


 なんという絆を深める瞬間だ……

 石のゴーレムに挟まれ、わけのわからない叫び声を上げ続けている人さえいなければ。何が言いたいんだ、この人は。言葉が全然わからない。

 異世界だから、それもそうか。

 

 見るからには男性らしい。服装もシンプルで、まるで中世の人みたい。まあ、文化レベルが中世の異世界かもしれない。そういうのはテンプレ上だからね。

 他人を見るのは初めてだけど、正直、どうでもいい。ただ眠りたいだけなのだ。

 言葉はわからなくても、彼が庭の花を狙っているのは明らかだ。ゴーレムに強く押さえつけられているにもかかわらず、その花をつかもうとするのだから、よほど欲しがっているのだろう。

 空中の魔力を操り、その花と根を摘み取り、遠くから男に手渡した。これで黙らせられるはずだ。


 男は目の前で起こっていることが信じられないかのように大きく目を見開いている。 確かにテレキネシスのように見えるけど、魔力を使っているのだから魔法だ。

 男が黙れば、自分は眠りにつくことができる。

 もし庭のものを欲しがる人がいたら、あげればいいじゃない。 眠るときに叫び声を上げられるのはごめんだ。

 木のゴーレムがその意図を理解すると、うなずいた。


 さて、おやすみの時間だ。


♢♦♢♦♢


 また誰かに起こされた。人の睡眠時間を邪魔することしかできないのか、人間は?

 無気力なまま、太陽の光を網膜に取り込んだ。


 ゴーレム達は……どこにもいない。

 厳密に言えば、守り役だった石のゴーレムはまだ数体いるけど、あんな大量の蔓草のゴーレムや粘土のゴーレムはなぜか見当たらない。

 その代わりに、小さな人型のナニカが仕事を引き受けている。

 翼があり、手に収まるほど小さい。まるで幼い子供をミニチュア化したような、いや、こう言った方がピンとくるかもしれない。生きた1/9スケールのフィギュアなのだ。前世でアニメやゲームでよく見た妖精を思い出させる。

 花の手入れをしたり、服を仕立てたりしてくれるのはもちろんだけど、まるで子守唄を歌ってくれているかのように、働きながら歌ってくれるんだ。

 鈴の澄んだ音のような、あるいは小さな子供の嬉しそうな笑い声のような。


 もうひとつ、気づかずにはいられなかったことがある――それは周囲がすっかり変わっていたのだ。

 ここはもう、最初に目を開けた草原ではなく、森林の中だ。しかも、巨大なキノコがあちこちに生えていて、地面から青白い光の粒が浮かび上がっている、普通の森には見えない。

 そんなに時間が経ったのか、それとも自分が移動されたのか。

 さらに、周囲には美しいヴェールがかけられ、視界が遮られている。敷物は信じられないほどふかふかの布団になり、まるで無重力状態だ。ああ、しまった、これはダメになる奴だ。


 以前はおとぎ話に出てくるような風景だったとしたら、今は王道ファンタジーRPGに出てくるような風景だ。

 まるで妖精たちの女王になったような気分。


 で、そろそろ問題に入ろう。

 ヴェールを開けると、そこには別の男性の人間がいる。前の奴とは違い、青い鎧を身に着け、腰には黄金の剣を差していた。騎士かなにかなんだろう、多分だけど。

 この人が今回の不穏の元凶、ね。ヴェールを開けるとき、彼は一瞬目をパッと見開いたけど、それからゆっくりと、理解できないままの言葉で話しかけてきた。叫んだり暴れたりはしないので、もちろん石のゴーレムたちは以前と違い、拘束したりはしなかった。


 でも、だからこそおかしいのだ。聖徳太子ではないけど、10人が一斉に話しかけてもぐっすり眠れる自信がある。それなのに、ただ一人、穏やかに話すだけのやつがいるだけで、なぜ目を覚ましているんだ。

 理由は――あの剣、だな。その黄金の剣に宿る魔力は巨大で、禍々しい。

 剣だけじゃない、その青い鎧も、そして彼自身の魔力も。特定は出来ないけど、彼の魔力、エネルギーは、なぜかなじみがある。まるで遠くに忘れた故郷の波風が、彼の中に存在している。

 もしかしたら同士かもしれない、転生の。


 よく見ると、彼はいたるところで負傷し、血を流している。すでに墓場に片足を突っ込んでいるようで、いつ死んでもおかしくない。

 それはマジでこまるんだけど。

 私室で誰かが死んでいくのを見るのは後味が悪いし、それが同士ならなおさらだ。寝ている間に死にゆく人の姿に悩まされたら、ゆっくり休めるわけがない。 ここを死に場所に選ぶとは、なんと身勝手な男だろう。


 じゃあ、治そうっか。出来るかどうかはわからないけど、出来ない理由もないだろう。でも、自分は医学知識がないので、妖精の一人に頼んだほうがいいかもしれないね。

 手当たりの妖精に向かって言う、「治せ」と。


 かなりの魔力を受けた妖精は、ひとしきりまぶしく輝いている。 その輝きが収まると、妖精は人間の男性に向かって飛び、その負傷した身体をクルクルと回る。 後ろに光の軌跡が残っていた。

 そうすると、彼の体についていた傷が徐々に治っていき、目に見えて傷口がふさがっていく。

 彼自身は何が起こったのかまったく信じられず、困惑して自分の両手を見ている。


 まあ、上手くいったもんだな。これで一件落着だ。

 それでは、おやすみだ……ん?


 妖精ちゃん、なんか、彼とは離れたくないらしい。共に旅に出たいと、愛着ができたようだ。

 まあ、別に妖精ちゃんをここに束縛したいわけじゃないし。世界を見てみたいと望むなら、それは妖精ちゃんの自由だから、別にいいよ。いってらっしゃい〜!


 自分もいつか世界を見て回りたい、でもその日までは――おやすみなのだ。


♢♦♢♦♢


 へえ、珍しい。何世紀ぶりかで、スッキリして眠たくなくなる。本当に自然に目が覚めた。

 ここ数回の目覚めは環境が激変していたが、今回は何が変わったのだろう。そう思うと周囲を見回す。

 ふむふむ、なるほどなるほど。

 服装がまた新しくなった以外、特に変わった様子はない。絹の美しいベールがあり、人をダメになる布団があり、そして地面から巨大なキノコが生えている。

 ただひとつ違うのは、今は真っ暗で、葉の間から月明かりが差し込んでいることだ。以前見た奇妙な青白い光の粒子も今は見られない。

 自分の部屋で昼寝をしていたら、そのまま夜になってしまったような繊細な雰囲気だ。


 妖精たちもみんな眠っている。そうか、妖精も眠る必要があるのか。

 色々とご苦労様でした、おやすみなさいみんな。


 さて、暇だし私室でやることがないから、出てみようかな。

 うーん、まるでこの何千年もの間、体を動かしていないかのように体が硬直している。まあ、実際、動かしていないんだけどね。

 喉も渇いた。そういえば、最後に何かを飲んだのはいつだっただろう。しかし、周りにはコップも水飲み場もない。それどころか、道具ひとつない。

 こんなとき、魔法は便利だ。空気中の魔力で水を作ればいいなんて、異世界バンザイ!


 ん?あれれ??

 空中に絶え間なく流れていた魔力を操ってみるが、なぜか今は淀んで硬直した感じがする。

 この感覚をどう表現したらわかりやすいだろうか。

 魔力、つまり流れているエネルギーを、無形のビー玉でできた大川が絶えず流れていると想像してほしい。

 流れているからこそ、ビー玉の一部を方向転換し、好きなように形作ることができる。特定の形になったビー玉は変化し、有形のモノになる。それが魔法だ。

 しかし、川の流れが突然止まると、プレッシャーがあるためビー玉はその場に固定されてしまう。そうなると、方向転換することも、好きなように形作ることもできなくなる。

 おわかりいただけただろうか?

 

 要は、空気中のエネルギーは今、操ることが難しくなっているのだ。

 とはいえ、魔法を使う選択肢がなくなったわけではない。空気中の魔力がダメなら、体内の魔力を使えばいい。空気中の魔力が絶え間なく流れる川のようなものなら、体内の魔力は池や湖のようなものだ。

 貯水池と呼んでもいい。


 自分の魔力の貯えを感じようとしたが、あちこち探ってみた結果、丹田から魔石がなくなっていることに気づいた。

 いや、それは間違いだ。魔石はなくなったのではなく、体に同化している。まるで体そのものが巨大な魔石になったようだ。

 なるほど、ゴーレムくんと一体化してしまったのか。もはや完全に人間ではなくなった。だとしたら、この渇きは人間の脳が勘違いしている錯覚にすぎない。ほら、よく考えれば、もう喉は渇いていない。


 人外になった気分は……どうでもいいや。むしろ、この先ずっと不愉快な思いをすることはないだろうから、これで良し。


 さて、冒険の時間だ。

 ずっと寝ていたから、この異世界がどんな場所なのかわからない。よく考えたら異世界だよ?ザ・異世界。魔法もあるし、妖精もいる。エルフもいるかもしれない。私室の外にはきっと不思議で楽しい世界が待っている。

 仲間を見つけるかもしれないし、伝説の旅に出るかもしれない、もしかすると世界を救うことも……あるいは、スローライフな農夫生活を送るのも悪くない。

 ここは異世界、可能性は無限だ。


 期待に胸を膨らませ、一歩、部屋から出た。しかし、世界はそんな期待を裏切った。


 夜の風とともに、煙が鼻に漂ってくる。そう遠くない地平線上に集落が見える。

 いつ人々がそこに集落を作ったのかは知らないけど、もはやその集落では生活できないことは知ってる。

 何しろ、炎は人間も物質も貪欲に喰らい尽くしていたのだから。そして、それがただの火事ではなく、放火であることも知っていた。


 金属と金属がぶつかる乾いた音が空中に鳴り響く。

 いたるところで人々が戦っているが、それは戦いというより虐殺だった。男も女も子供も、高い馬に乗り、血で温められた冷たい武器を振り回す者たちに殺されていく。

 一刻を争うように、死の叫びが高鳴る。


 これが何なのか、よく分かっている。 愚かな人間がどうしても止めることができないこと――争いだ。

 最初は争いの火が私室まで届かないことを願っただけだったが、魔力でできた巨大な半透明の壁が結界みたいに辺りを取り囲んでいるのを見て、そう簡単にはいかないことを悟った。

 そうか、そういうことなのか。

 だから空気中の魔力が流れていないわけだ。その流れは止まったんじゃない、止めたんだ。この結界に。

 推測するに、これは魔法妨害結界の効果に思える。魔力の流れを止めるから、中にいる人は魔法を使えなくなる。

 自然現象を利用するとは、なんと巧妙な仕掛けだろう。

 しかし、それが戦争の道具であることに変わりはない。人を殺すための道具なのだ。


 その瞬間、別のものが視界に飛び込んできた。猛獣のような馬に乗った男が、こちらに向かって前進してきたのだ。

 彼の目は赤く狂い、その魔力は敵意と貪欲さを発している。一目見ただけで、この男が自分を求めていることがわかった。女性としてではなく、個人としてでもなく、彼は戦利品として欲しかっているのだ。

 彼は力に飢えており、自分はその無限の力を持っている。


 それだけ知っていれば、何が起きているのか大まかには理解できる。

 自分に関する噂が彼の耳に入り、武力を使って自分のものにしようとしているのだろう。よくある話だよ。

 はあ、と唇から重いため息が漏れる。


 ただ休みたいだけなんだ、それだけなんだよ。

 それなのに、次から次へと人がやってきて、何かを要求してくる。わかっているのか?まったく何もしないことに関しては、どの生き物の中でも自分は第一位に位置しているのだよ。

 期待するのはやめてくれ。放っておいてほしいんだ。


 これだから他人と関わるのは疲れるんだよ。


 ……まあいい。

 求めるものが力なら……

 それなら、力を見せてあげよう。


「受け止めるが良い」


 その言葉が理解できないことは百も承知で、駆け寄る男に声をかける。

 右手を目の高さまで上げ、その手のひらから自分の内なる魔力から小さな光る球体を作り出す。

 理論的には簡単なことだ。

 魔法妨害結界は、無形のビー玉を閉じ込めて固定することで、魔力が流れるのを防ぐ。

 ただし、ビー玉そのものが消えるわけではない。 結界内のプレッシャーのために動けないだけなのだ。

 では、さらにプレッシャーをかければ……


 ケトルでお湯を沸かしたことがあるだろうか。

 水が沸騰すると蒸気になり、ケトルの中に圧力がかかる。その圧力を逃がさなければ、爆発するまでますます圧力が高まる。家庭用のケトルは、お湯が沸騰した瞬間にスイッチが切れるように巧妙に設計されている。現代の電子機器の設計がいかに優れているかの一例である。

 しかし、この魔法妨害結界は巨大なドーム状の壁にほかならない。 圧力を逃がすことができず、その内側に溜まる一方だけ。

 あとは爆発するまでさらに追加するだけだ。


 球体の光がどんどん強く輝き、暴君はようやく自分の愚かさに気づく。

 彼は貪欲だった、貪欲すぎた。世界を求め、その半分を手に入れたというのに、その欲望は深まるだけだった。

 だが今、誕生しようとしたあの大惨事から遠くへ逃げ延びることだけが、彼の望みだ。


 ああ、なんてくだらないことなんだろう。

 実に些細でみっともない。


 あの夜、何百万もの命が無差別に奪われた。人間も動物も王族も農民も皇帝も奴隷も、死を前にすればみな平等だった。

 もうひとつの太陽が夜空に降り注ぎ、世界は自分に手を出すなと思い知らされた。どんな星も、その日起こった大量殺戮の輝きを超えることはできなかった。

 何もかもが塵と化した。


 その範囲は……いや、測ろうとも面倒くさい。

 もう、うんざりしていた。 ワクワクするような冒険なんてなかった、あるのは人間同士のくだらない争いだけだ。

 もういい、こういうときは二度寝が一番だ。

 おやすみだ。


♢♦♢♦♢


 まただ、また人間達がちょっかいを出すためにきた。まったく、物覚えの悪い連中だ。

 この地域に以前のように人が住めるようになるまでには、少なくとも100年はかかるだろう。

 計算がずれたか、それとも時間感覚がずれたか。


 体がだるいが、様子を見なければならない。

 ベールから顔を出すと、なんだこれは?目のくらむような数の人々が私室の外に群がっている?

 人間だけではない。エルフ、ドワーフ、もっと小さいドワーフ――ノームかな?人型のトカゲ、羽の生えた人型のトカゲ――あれは竜人族に違いない。

 あとは……え?うそ、本物の猫耳?可愛い、ふわふわする!


 彼らが私室の外の平地で何をしているのか、いまだに理解できないが。

 一つだけ確かなことは、もし彼らが悪意を見せたら、その5倍は厳しくやり返すということだ。


 用心深くその様子を見ていると、そのうちの一人、男性のエルフが一歩前に出た。何をする気だ? 変なことをしようとしたら追い払おうと、魔力を準備した。

 男性エルフは緊張した面持ちで口を開き、そして――え?

 歌い始めている?


 何をするのかと思ったら、なんとエルフが歌っている。 相変わらず言葉はさっぱり分からないので、何を歌っているのか全く分からないが、まあリズムはいい。

 まだ戸惑っていると、エルフの歌が終わり、別の人がエルフの代わりに前に出てきた。

 今度はドワーフの男性……だよな?みんなヒゲを生やしているから、見分けがつかない。いずれにせよ、ドワーフの声は低く重いが、その歌声は不思議と落ち着く。バラードのようで、気に入っている。

 そのあと、二足歩行のトカゲ族。歌は歌わなかったが、動物の皮でできた楽器のようなものを演奏している。聞いていて楽しい。次は猫耳族。合唱を歌っている!その次はノームで、彼らはヨーデルを歌っていて、面白くておかしい。


 彼らの意図はまだわからないが、もし困らせるために来たのではないのなら、大歓迎だ。やはり、暴力よりも歌の方がいいに決まっている。

 ドワーフに続いて、特に興味をそそられる人はいなかった。彼の歌がお気に入りで、子守唄のように心を癒してくれた。

 が、どうやら早とちりしたようだ。


 他のどのパフォーマーとも違う、今度は一人の子供が前に出てきた。どこから見ても12歳には満たない人間の少女だ。

 明らかに才能があるように見える他の人たちは、まるでその種族を代表するかのようだけど、それに比べると、この少女はあまり特別な存在には見えない。そう思ったのは――少女が口を開くまでだった。


 率直に言って、彼女はたどたどしい。

 歌は決して天衣無縫ではなく、吃音さえある!しかし、胸を揺さぶられるのは、こんな少女が全身全霊で歌っていることだ。

 とても心温まる歌だ。彼女の歌からは、疲れ切ったこの魂さえも揺さぶる何かを感じる。


 ああ、この歌大好き。妖精たちに真似して歌ってもらおうかな。


 そして、妖精たちはそれぞれの曲を口ずさみながら合唱した。蝶が宙を舞い、鳥が楽しげにさえずる。

 そして私室は、永遠の眠りの魔女の庭そのものとなった木のゴーレムは、その主人の娯楽のために祝福に揺れ動く。


 こんなに楽しんだのはいつ以来だろう。少女に感謝の気持ちを抱く。

 庭から一輪の花を摘み取れば、それは少女にふさわしい褒美となるだろう。それが感謝のしるしだ。

 だけど、ご褒美をあげるからには、他の来場者も無視するわけにはいかない。 残念なことに、庭には花が少なく、木の葉しかない。

 だったら、木の葉をあげればいい。


 少女には花が贈られ、他のみんなには木の葉が贈られる。

 不釣り合いな気がするが、これだけの人数が招待されずに来たなんだから、仕方ないだろう。


 ああ、楽しいもんだ。

 結局のところ、人間には戦争や紛争がつきものではないのだ。

 歌や芸術、文化など、人間には他にもいろいろなものがある。争いは愚かなことだが、避けられない。

 大事なのは、どんなに暗い夜でも太陽は必ず昇るとかなんとか、そういうものだ。


 妖精たちは歌を歌い、その反復を行った。鳥たちはその鳴き声で音符を豊かにした。今日も庭は幸せで、自分は機嫌よく眠ることができる。

 それでは、おやすみなさい。


♢♦♢♦♢


 彼女自身は知らずに、彼女の存在は広く知れ渡っていた。誰一人として彼女のことを知らない人はいなかった。

 彼女の物語は就寝物語として語り継がれている

 ひとつは、心優しい木こりが病弱な妻のために万能薬を求めるというおとぎ話、「魔女と木こり」。

 ひとつは、伝説の勇者様が魔神によって万死の呪いをかけれ、森の乙女の庭に迷い込み、運命の妖精との出会いで癒され、生涯の仲間を見つけるという英雄譚、「第三魔王戦記」。

 そして一つは、ある暴君皇帝の強欲と傲慢さについての戒めの物語。彼は世界を手に入れ、さらなる欲望を抱き、自らの欲が破滅を招いた。


 彼女は始まりの魔女、永眠の女神、妖精の母、森の乙女など、多くの名で知られている。

 人々に崇拝され、多くの人に愛され、さらに多くの人に恐れられていた。 彼女の怒りによって引き起こされた災厄は誰も忘れることはない。 その夜、大陸全体が彼女が解き放った破壊に見舞われた。


 彼女の庭を中心にして帝国を築き上げた。

 繁栄する聖なる帝国であり、その国は人々を差別せず、歌姫たちで知られていた。 毎年、帝国は彼女の庭でコンテストを開催した。妖精たちを歌わせることができる歌手は賞賛され、神聖な歌姫様として尊敬されるのだ。

 そして世界は回り、人々は日々を過ごし、魔女は果てしない疲労の中で眠り続けるのだ。

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