私と風と白い箱

佐藤凛

私と風と白い箱

 部屋の鍵を開けて、電気をつける。私は真っ先に扇風機に向かう。慣れた手つきで電源をつけた。

 ウゥーーーーーーーーーーン。ピッ。ヴゥーーーーーーーーン。

 扇風機に自分の顔を寄せた。

「あ゛ぁあ゛ぁああああああ、すずしいよぉお゛お゛お゛」

 余計なものが一切ない真っ白な寂しい部屋に扇風機で細切れにされた自分の声が響く。なにか物を置こうかと考えるけど、お金がもったいない気がしていつも辞めてしまう。だから私の部屋は人が住んでいるのか疑いたくなるほど物がない。基本は必要以上に電化製品なんか買わない。電気代高くなるし。だけど、この暑さだけは駄目。特に梅雨のこの時期。なんだかジメジメしてて暑いのかどうなのか分からない微妙な気温。

嫌いだ。

だから私にしては珍しく少し高い扇風機を買ってしまった。梅雨よ私の負けだ。


 やっと涼んできて動く気力が出てきたけれど特にやることもないので、なんとなくスマホでネットニュースを見る。

 熱愛報道や衝撃結婚。はたまた浮気まで。誰が調べて、誰が書いたのか分からない記事を見ながら、帰りがけのコンビニで買った缶ビールを袋から出して流し込む。

少しぬるい。それでも一気に流し込む。喉を苦みと炭酸が駆け抜ける。半分ぐらい飲んだところで缶をおいた。

「はぁ。」

自然とため息が出た。また一つ幸せが逃げた。まぁいいけど。

 そんな中で指が画面をスクロールしていくと、一つ気になる記事があった。それは、「小学生が選ぶ将来なりたい職業ベスト10」だった。タップして開いてみる。そうすると、10位から時々広告をはさみながら書かれてあった。

「1位以外は興味ないんじゃ。」

私はボソッと呟いて画面を全力で下へ下へとスクロールした。


 1位はyoutuberだった。最近の小学生は夢があっていいなと思った。いや、サッカー選手とか野球選手とかも夢がないわけではないのだけれども。むしろ随分たいした夢なんだけれども。今の子供たちはテレビで野球やサッカーを見るより、youtubeで動画を見る方がずっと面白いのだろう。現に面白いし。そしてそれを発信する側になりたいって思うのも無理はない。今の子供たちの中には多分私よりもパソコンとかに詳しい子がいるだろうな。たまに「あなたへのおすすめ」に小学生が作ったとは思えないクオリティの動画を出している子も見る。そういう子は学校ではヒーローなのだろうか。いや、絶対ヒーローだろうな。youtuberになりたい。多分そういうご時世なのだなと思った。

 ふと、私の小学校の頃の将来の夢を思い出した。私は何になりたかったっけ。そういえば、私はパティシエになりたかった。誕生日に買ってもらったケーキが驚くほどにおいしくて、私もケーキを作りたいと思ったのがきっかけだ。それに、そこで働いていたパティシエのエプロンが可愛かったのが憧れに拍車をかけた。可愛いエプロンでかわいくも美しくおいしいケーキを作っているパティシエをまるで魔法使いのように見ていた。私もそういう風になりたいと当時は思った。その日から何かにとりつかれたようにパティシエに憧れた。テレビで放送されていたお菓子作り番組は必ず見ていた。友達とはよくパティシエごっこをやったし、あんまり物を買わない親に頼んで絞り袋を買ってもらって、生クリームを絞ってみたりもした。自分で絞る生クリームはなんだか、いつもより少し甘くておいしい気がした。あの頃はよかったな。夢が明確にあったし、毎日が楽しかった。

 それが今の私はどうだろう。私はパテシェにはなれなかった。パティシエになる夢を諦めたのは、手先があまり器用ではないのを自覚したのと、パティシエになるためにはそれなりの努力とお金が必要だと気付いたからだった。でも、一番の理由はほかにある。それは熱が冷めてしまったことだ。理由はわからないけれど、ある時きっぱりとあんなに情熱を燃やしていた夢がくだらなく思えた。いままでの情景が急に滑稽に見えてしかたなくなったのだ。


 夢のなくなった私はそこそこに勉強をして、そこそこの中高生活を送った。青春っぽい甘酸っぱい恋愛はなかったものの、人並みに楽しんだ。それからは将来を安定させるために、またそこそこ勉強して、そこそこの大学に入った。そこでも、それなりの友達と遊んで勉強して楽しんでいたと思う。それでいつの間にか3年が過ぎていて、就活が始まって、将来の目標も夢もない私は、給料が平均より少し高いからという理由で、さして興味もない会社に入社していた。それからは単調な日々だ。社会のたった一枚の歯車として毎朝同じ時間に起きて、支度をし、眠気と闘いながら苦しい満員電車に揺られて出社する。お金を稼ぐためにセクハラをしてくるクソみたいなジジィにも顔面を無理やり加工して笑顔で接する。上司から下される無理難題も睡眠時間を削ってなんとかやっている。そうやって毎日毎日馬鹿みたいに働いている。そして何もないこの真っ白な部屋にただ眠るために帰ってくる。

 とにかく生きるのに必死で、必死で。子供のころは早く大人になりたかったけれど、これが大人になるってことなら大人になんてなりたくなかったなと思う。むしろ無邪気に笑えた子供の頃に戻りたい。単純に夢に焦がれていたあの頃に。

 缶ビール二本目を取り出して開ける。

 ぬるい。それにぬるいからか苦みが増えて、炭酸は微妙ぜつみょうに感じずらくなっていた。


「なんなんだよ。まるで私の人生みたいじゃないかよ。」


 またボソッと呟くと、私の眼頭めがしらがキューと暑くなって水滴が頬を伝って手元のスマホに落ちた。私はいつの間にか泣いていた。全身がカイロみたいに暑くなっていく。

 なんで泣いているのか、なんで涙があふれ出てくるのか私には分からない。けれど私は泣いている。暑くなっていた私は扇風機の威力を強めた。扇風機はさっきよりプロペラを回して音を強めた。扇風機の風は無機質で、さらに私の目から涙をこぼさせた。私は気づくと嗚咽おえつをしながら泣いていた。そして叫んだ。

「私だって必死に生きてるんだよ!生きてるんだよ!いきてるんだよ!」

 言葉にならないような声色こわいろが、真っ白な誰もいない部屋を強張らせた。けれどその叫び声は強くなった扇風機のプロペラの音でかき消されてしまっていた。叫んだあとは、ぬるくなったビールを一気に飲み干して、何もなかったかのように私は眠ってしまった。

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